エンデのメモ箱(前半)
(岩波書店、1994年)

前半:「よくある幽霊ばなし」〜「舞台装置」

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この本について
(A)「よくある幽霊ばなし」〜「亀」概説
愛読者への四十四の問い
(B)「招待」〜「論理的帰結」概説
(C)「愚かな質問」〜「はい、もしくは、いいえ」概説
(D)「誤解」〜「舞台装置」概説
※(E)〜(H)についての解説は、後半のほうへとアクセスしてください。


この本について

ロマン・ホッケがこの本の冒頭、「絵の採掘項坑にて」で述べているように、これはエンデが長年書き溜めてきた115(そのうちドイツ語の言葉遊びを主眼とした2つの文章は日本語版では削除されているが)の雑文を集めたものである(その中には、「アインシュタインロマン6」で日本に紹介されている「ある中央ヨーロッパ先住民の思い」も含まれているが)。ホッケは「これらに目を通しながら、可能性の豊かさと文章の多彩なかたちが、このファンタジー文学作家の本質的な特徴だとわかってきた。とくに、いろいろな"絵"や思想が横にたくさん並ぶことで緊張に富む関係が、そしてその緊張が生む豊穣な関係が、見えるようになるのではないか」ということで、「そのすばらしい多様性を知ってもら」うために、この本を編纂したということである。もちろんこれら113の断片のすべてに解説を施すことはできないが、それらの輪郭を描けばと思う。あと、これらの解説はあくまでも私の独断と偏見でつけたものであるため、エンデの本当の世界を味わいたいと思われる方には、この本を一読されることをお勧めする。

※なお、この欄での内容があまりにも多かったため、この「エンデのメモ箱」については、前半と後半に内容を分割した。

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(A)「よくある幽霊ばなし」〜「亀」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

よくある幽霊ばなし

ニーゼルプリームとナーゼルキュス

愛読者への四十四の問い(別枠)

死と鏡-メルヒェン

木の言語

発明しないものへの賛歌

これもまた根拠です

アンルラ

クエスト

魔法の時計

平行ものがたり

ある中央ヨーロッパ先住民の思い(「アインシュタインロマン6」参照)

お茶会

これっきり

招待


よくある幽霊ばなし

この物語はあるバーにおける幽霊譚を描いたものであるが、ただの恐怖体験談と違う点はこの幽霊が実際の人間とつながりをもっていることである。ブッツィという、バイエルンの農家出身のぶっきらぼうな若者が、ラツァルスという友人とアルプス山地を巡る旅をしたのだが、その時に泊った宿で幽霊が出た。それで怖じ気づいた彼らは旅を止める。後に聞いたところだとラツァルスの先祖が遺産を独占するために実の兄を溺死させたのがちょうどその地域だったらしいが、その殺人者の血を引くラツァルスはじきに不可解な死を遂げる。

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ニーゼルプリームとナーゼルキュス

世界的に高名な冗談学者で戯言研究家のスタニスラウス・ストゥップスは、ある航海中に地図にない島を発見する。この島に上陸した彼は、右:「ニーゼルプリームへ」と左:「ナーゼルキュスへ」という二つの標識を見つけ、きちんとした通路がある右への道を進むが、途中で彼の背後の道が消えてしまっていることに気づく。しかしながら、とりあえずニーゼルプリームに到達することが当面の最重要課題だと認識している彼は山を登り続け、ついにはニーゼルプリームの家にたどり着く。ここで彼はニーゼルプリームがこの家に住む男の名前であることを知り、男はこの探検家にナーゼルキュスが弟の名前であることを告げるが、ここで一見不可解に思える事実が明らかにされる。つまり、直接会える存在は兄でしかないが、本人がいないときに他人に思い出される存在は弟の方であるということなのだが、もちろんストゥップスはそんなことをにわかに信じられるはずがなく、半信半疑のうちにニーゼルプリーム邸をあとにするのだが、そこで彼に起こったことは行きと正反対のこと、すなわち彼が行く道は岩だらけでしっかりした足場さえないような道だが、彼のあとにはきちんとした通路が復活していたのである。そうやって船に戻ったストゥップスは船員にこの島で起こったことを語りはじめるのだが、彼の話に登場するのは会っていないはずのナーゼルキュスであった。

エンデの物語には、このように両者が同時に共存できないことで共存している関係が他にも出てくる。たとえば「はてしない物語」で出てきたライオンと密林のそれだが、このシーンが繰り返し描かれる、このような一見自己矛盾的な共存関係があるということを読者に体験してもらいたいということがあるのではないだろうか。もちろんブレヒトに代表される教養主義的芸術に反対の立場を取るエンデはこのような世界を「読者に啓蒙」する意図はなかったのだろうが、それでも合理主義でがんじがらめになっている現代人にそれらの世界を「体験」してほしいという気持ちを抑えられずに、このような物語を創作したのではないだろうか。

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死と鏡-メルヒェン

これも「ニーゼルプリームとナーゼルキュス」と同様、相対する両者の確執を描いたものだが、この作品の場合は子供のよき遊び相手であった死に対し嫉妬した鏡が、その子供を自分のもとに取り戻すことに成功するのだが、ここで子供が内的世界から外的世界へと自分の主たる活動範囲を移すことが描かれている。

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木の言語

ここでは、木も人間と同様独自の言語を持っているが、残念ながらそれはどんな人間言語にも翻訳不能であることが描かれている。

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発明しないものへの賛歌

ここではある科学者、ホップファー氏のすばらしい業績について述べられているが、何とそれは「何も発明しないこと」である。つまり、本を執筆する機械や眠り代わり薬、自動爆弾など人間性を奪って社会を唯物論的にしてしまう発明を一切しないという業績なのである。

私が述べるまでもないが、この業績は一人の科学者だけで成し遂げることはできない。全ての科学者がこの「事業」に参加しない限りは達成できず、一人でも謀反者がいたらこの計画は水の泡になってしまう。だが、寓話として読む限りはさまざまな読み方ができるものと思う。

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これもまた根拠です

数行にしかならない短い文章だが、これはデカルトのことばをも打ち砕く力を秘めている。デカルトは"Cogito, ergo sum"(我思う、ゆえに我あり)と語ったのは有名な話だが、ここではCogito, ergo sunt.(我思う、ゆえにそれらあり)なのである。エンデはこの文章の冒頭でいきなり「天使や悪霊や知的存在やさまざまな"もの"が階級的に秩序された精神宇宙を私は信じる」と書き、その理由として「時代や民族を問わず、芸術や詩のほうが、単に証明できるものから成る殺伐とした現実像よりも、はるかに経験の真実に近づくという確信である」と述べ、それらの芸術や詩が精神宇宙の存在の証人となっているということなのであるが、「自分が信じるからそれらのものが精神世界の中に存在している」という考えは、被唯物論的思考法の代表例といえるのではないだろうか。

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アンルラ

てここではある未知の物体について語られているが、それがあまりにも既知のイメージと異なっているためにそれを現在の人間の言語を用いて簡単に定義することができないという。とりあえずそれに「アンルラ」という名前が与えられているが、これについて「それなら、何なのだろうか?」という問いがわれわれに提起されている。

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クエスト

ミノタウルロスの迷宮が舞台になっているごく短い文章だが、この文章の要点は最後の一節、すなわち「人は誰も自分が探すものに変身するのだ」ということばであるといえよう。

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魔法の時計

ここではある不思議な時計が主題になっている。すなわちその所有者は「願いごとの時刻」、すなわち全ての願いがかなうとされる時刻を所有者に教える時計であるというが、実際にはその時計の持ち主はその時刻を知ることなく自らの願いを叶えてゆく。

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平行ものがたり

ここでは二つの物語から構成する物語についてのエンデの構想が展開される。左ページと右ページでは別の話が展開されるものの、片方での話がもう片方の物語にも影響を与えたり、両者が相互補完的な関係で展開したりするような物語の組み合わせである。「はてしない物語」で、ファンタージエンとバスチアンとの間にこのような関係が起こったことはいうまでもないだろうが、エンデの本心としてはこのような「平行ものがたり」をもっと書きたかったのではないだろうか。

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お茶会

奇妙な生き物たちが集まったお茶会の様子が描かれている。

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これっきり

「一期一会」という表現は日本人には馴染み深いが、いざそれを実感しながら日々の生活で対人関係や読書、その他あらゆる種類の「出会い」に臨んでいる人は少ない。だが、それでもいいのではないかとエンデは書き、(すべてがいちごいちえだとしっていたら)無心に生きることができるだろうか?」と読者に問いかける。われわれ人間は、一期一会性がもたらす非特殊性に毎日さらされてもいいほど強靭な精神を持ち合わせてはいないのではないだろうか。

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ここでエンデは、彼がなぜ亀を愛しているかについて書く。彼の作品の名かで亀がよく登場するのはあくまでも過去の神話やおとぎ話のメタファーに他ならないが、彼が亀に対して愛着を持つ理由としては、「無用性」(自然の中で天敵もいなければ、誰かの役に立つわけでもないこと)、「無欲」(食欲がそれほどない)、「年齢」(一般に亀は長寿である)、「顔」「わたしたちが知らないことを、亀は知っているように見える」こと)、「かたち」を挙げている。

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愛読者への四十四の問い

この一文に含まれている44の問いは、それぞれがかなり重い内容を含んだものなので、このように別にしてみたが、それでもある程度内容を分類してみた。以下にエンデだったらどう答えたであろうかという回答例を示し、その理由を述べてみたいと思う。それぞれの回答に関連したところへのリンクを示しているので、エンデの思想の大筋を把握するのに利用していただきたい。

3:「人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか?」

Nein(No):「クエスト」の末尾にある「人はだれもが自分が探すものに変身するのだ」ということばが、精神面でぴったりそのままここで当てはまるから。

4:「天使や悪魔や奇跡について聖書は語りますが、それでは聖書はファンタジー文学に属するのでしょうか?」

Nein:なぜならエンデは天使や悪魔の存在を信じているから。現実世界には天使や悪魔や奇跡はありえないが、人間の内面世界の中にいる以上それらは現実存在であるから。「三つの鏡」参照のこと

これに似た設問として、5の「トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが書くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかつてあったのでしょうか?」という質問があるが、エンデならJa(Yes、理由は少なくても彼ら作家の内的世界には存在している世界だから)と答えたであろう。

6:「ゲーテが親しく呼びかけた月(おんみはふたたび茂みと谷をみたし・・)(「月に寄す」)と、あの二人の宇宙飛行士が歩き回った、泥や埃から成る魂は同じ一つの天体でしょうか?」

おそらくNein:なぜならゲーテの月は物質世界と内面世界の両方に存在する月だが、宇宙飛行士の月はあくまでも物質としての側面しか持たないから。

8:「千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいのでしょうか?」

9:「一平方キロメートルの赤い面は、一平方メートルの同じ色の面よりももっと赤いでしょうか?」

8のほうはJaで9はNein:こんなことに解説を施すこと自体野暮かもしれないが、8では千と一という単位は「苦しみ」という人間に関係しているが、9の「赤い」の場合は面積と色彩はなんの関係もないから。

10:「人の意識の外にある世界”自体”を想像するためには、少なくても一人の人間が必要ではないでしょうか。・・」Ja.「アインシュタイン・ロマン6」4章や「オリーブの森」(このページ内では取り扱っていないが)で述べられているとおり。

11:「現実に対してわたしたちがもつ観念が変われば、現実も変わるのでしょうか?」Ja.「アインシュタイン・ロマン」8章参照。

12:「それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか?」Nein。それについての論拠が知りたければ、「はてしない物語」の前半部分、「幼ごころの君」の関連の箇所を読んでみてください。

15:「詩を”理解した”というとき、それはどのようなことなのでしょうか?」ここで明らかになるのは、ことばに対してわれわれが二つのアプローチ方法を持っていることである。つまり、芸術表現の手段としての言語と、意思疎通の手段としての言語であり、両者のわれわれの意識に対しての働きかけ方が根本的に異なっていることである。

17:「すべては無意味だと、人に説きつづけてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか?」これこそが真理への欲求という、虚無主義者がその存在を認めることのできないものである。つまり、虚無主義者は本質的に自己矛盾的なのである。10と同様、詳細は「アインシュタイン・ロマン6」4章を参照のこと。

19:「恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩句で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか?」そのシーンで起こる感動を喚起しようとすること。拷問死そのものは美しくも人道上正しい行為でもなく、むしろ非難されるべき行為だが、その行為がわれわれの内面に想起させるセンセーションを再現するためのそれら芸術そのものは非人道的な行為ではない。

20:「美は客観的事実なのでしょうか、それとも主観的体験なのでしょうか、それともこのように問うこと自体がそもそもまちがっているのでしょうか?」これは主観的体験であるが、美を感じる人の感性の中では確実に存在している以上、客観的事実でもある。

21:「両の手を打ち合わせたとき、片方の手はどのような音を発するのでしょう?」片方の手では音は鳴らない。両手が叩き合ってこそ音が鳴るわけだが、これは他にも多くのことにも言える。たとえば20番の「美」のことだが、これは美術作品とそれを鑑賞する人間がそろってはじめて成立するものであり、そのどちらが欠けても成立しないことは自明だろう。他にも、この質問の次にある「磁針が常に北を指すようにする力は針にあるのでしょうか、それとも地球にあるのでしょうか?」や24番目の質問(省略)も似たような設問であるといえよう。

23:「おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?」Nein。それぞれ異なった個人的主観を持つ各人が、それぞれ異なったものを読み取るから。

28:「詩的虚構と嘘のちがいは何なのでしょうか?」詩は精神世界の言語的な実写であるのに対し、嘘は現実を歪曲した叙述であること。詳しくは、「詩人からの瓶に入った手紙」を参照のこと。

29:「芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術とはなにもしないことではないでしょうか?」Nein、といいたいところだがそうは簡単には問屋が卸さない。実際に「4分36秒」というピアノ曲が存在しているが、この曲の楽譜は休符だけで構成されており、演奏者は鍵盤に触れることなくこの曲を”演奏”する。一部の音楽批評家は、この曲が”演奏”されている間に響く物音(誰かの咳払いやくしゃみの音など)、それにそれが喚起するイメージが芸術だというのであるが、それだったらなぜ今までの芸術家はあれほどまで汗水たらして芸術作品を世に生み出してきたのか、私としては納得がゆかない。

32:「小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?」これは「エンデと語る」を参照してもらいたい。

他にも面白い問いがかなりあるが、上記の解説と重複するために省略させていただいた。

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(B)「招待」〜「論理的帰結」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

招待

天上の音楽の夢

AとO

パガート

単純

不可思議なものをもとめて

知恵ぶかい愚か者

年老いた山男

芸術界の天才志望者への助言

謙遜

くすぶった会話

悪の像

ミヒャエルとアダム

論理的帰結


招待

忘却の世界の旅人に結婚式への招待状が来るが、実はそれは彼自身の結婚式の招待状であった。自らだし鬣を忘れてしまった旅人だが、結婚するための前提条件はここでしか叶えられなかったのである。おそらくこの一編は、何らかの物語にエンデが仕上げようとしたもののうまく行かなかった構想の骨格メモであろう。

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天上の音楽の夢

ある無人駅でただ一人ぽつんと取り残されたようにたたずんでいる男の周りの風景が、突然黄金に変化する。そしてその黄金が彼を包み、どんどん大きくなる音楽やどんどんその強さを増す光が彼の細胞を貫き、彼は「恍惚とした幸せ無しの恐怖の中で、わたしの意識は失われていった」。

ここで疑問となるのが、それではこの文章内の「わたし」はいつどこでこの一節を書き記したのか?ということである。「わたし」は生きているのか、それとも死んでしまった後に「わたし」の魂がこのようなことを精神世界内で書き残したのか?

だが、私としてはそれはどうでもいいことだと思う。臨死体験した人が死後の世界についての体験談をわれわれに語ってくれることがあるが、この一編もそういう冒険譚の一種であると考えられる。または蘇生せずにそのままあの世へと旅立ってしまった人間が、自分の臨終時の体験談をこのような形で文章化したものとも考えられ、その場合はどのような形で文章化が実現したかが問題になるが、その方法については、交霊術あるいはそれに類する方法が用いられたものと考えられるのが妥当ではないだろうか。

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AとO

この文章はヘブライ語の最初と最後のアルファベットに関する意味論的な試論である。まず最初の文字であるアレフは1を意味するが、これは最大数であり、全てを内包する1である。それに対し最後(22番目)の文字であるタフは多様性の象徴であり、宇宙の森羅万象を意味する。そしてこの多様性(”徴(しるし)”)は古来は十字で示され、この十字(”いつでも、どこでも”に救世主が打ち付けられ、それを彼は克服する、という一節でこの文章は結ばれている。

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パガート

運命論的な文章の断片である。

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単純

単純は単純であるゆえに、それを簡単に説明することはむずかしい、という旨で展開されるはずの文章の断片である。

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不可思議なものをもとめて

ミヒャエルの父エドガー・エンデはしばしばシュールレアリスムの画家として世間では認知されているが、彼の目指した絵と”いわゆる”シュールレアリストのそれは異なるということを述べた小論文である。フランスのシュールレアリストたちの作品はエドガーにとっては”正しいことの歪んだ像”にしか過ぎず、”微妙な、そしてその分さらに危険な物質主義”でさえあるように思えたのであり、そんな彼自身は表象意識が全て消え去ったときに出てくる印象を描いているのである。こうして描かれるイメージは普通の物質世界に慣れた目には奇異に映り、悪趣味にさえ映りかねないものだったが、それこそが精神世界の描写であったとミヒャエルはいう。

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知恵ぶかい愚か者

ドン・キホーテに関する試論の書き出し部分である。

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年老いた山男

ある山男の詭弁じみた弁舌である。山に登っても下山してしまったらその結果はプラマイゼロになる、それでどんな山でも頂上まで達したらそれ以上登れない。それならどんどん地底に潜っていけばいいじゃないか、というものだが、これはおそらくエンデの物語の中に挿入されそこなった寓話の一つであろう。

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芸術界の天才志望者への助言

現代の俗物主義的な芸術界で成功を収めるための秘訣として、エンデは3つの助言を”天才”の卵にする。

:自分独自のブランドを作る。別にこれは何でもいいが、自分のシンボルマーク的なものを常に身につけることが重要であるが、ここで忘れてはならないのは、ちょっと”嫌な感じ”を与えることである。それで「君がなかなかの人物だと知れるんだ」というのである。

「芸術や文化理論的な意図表明に、ちょっとは労力を投じなきゃいけない。そのとき注意がいるのは、君がやることより、その根拠の方が重要だということだ。」さらにエンデは「テレビやラジオの文化番組で、応答が3分間でできるようにね、それでも、平均的教養市民のレベルをちょっと超えるようにできてなきゃだめだよ」というが、マスコミ当たりのする人間はこういうものであろう。

:そこで肝心の作品になるわけだが、作品そのものははっきり言ってどうでもいいのである。要はマスコミ受けさえすれば、あとは好事家が勝手に価値をその中に見つけて”天才”君の作品をありがたがって買い漁るのである。

どういう作品の中にこの一文を挿入しようとしたのかについては明らかではないが、この助言が現在の芸術界の俗物主義性(スノッビスム)を描写していることはお分かりであろう。本当に人類の心を打つような芸術ではなく、うわべだけをとりつくろった”偽称芸術”が横行している昨今だが、こんな芸術もどきに囲まれている現代人の内的生活の貧しさを描き、ある物語に挿入しようとした一文であると思われる。

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謙遜

これも何かの試論になり損ねた文章の断片であろう。

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くすぶった会話

判断の是非についての会話の断片である。

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悪の像

文学では悪が人を魅惑する力を持っていることを、「リチャード三世」やダンテの「神曲」地獄編などの例をあげて説明し、「悪の表現自体は悪ではない」とエンデはいうが、これには「本能がもっと確かだった時代には、表現された世界は額縁や台座や舞台により、生の現実から切り離されていたし-それは正しかった」として、あくまでも芸術は生の現実とは別の次元に本来属していることを前提にした上で、「今日では、人はこの二つのレベルを混乱させてやむことがない。そこでは淫らの表現はそれ自体淫らであり、いやらしさの描出はそれ自体がいやらしく、残酷さの描写はそれ絵自体が残酷なのだ」と現在の芸術について述べ、「芸術やポエジーが与える効果は生の真実から遠ざかり、生の現実はさらに架空のものとなる」と結論づける。これについては、「イチジクの葉」が関連しているので、そこを参照してみるといいだろう。

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ミヒャエルとアダム

ミヒャエルMichael(英語でマイケルMichael、フランス語でミシェルMichel、イタリア語でミケーレMichele、スペイン・ポルトガル語でミゲルMiguel、ロシア語でミハイェルMihayel、ラテン語でミカエルMichael)とアダムAdam(英語、フランス語、スペイン語、ラテン語でもアダム、ポルトガル語ではアダンゥAdao)という二つの名前についての語源学的考察である。ミカエルは「神に似た者は誰だ?」という問いかけの名前であり、これに答えられるのは神しかいないからこそ、ミカエルは。それに対しアダムは「私は似る」という意味であり、神に似せて作られた男という意味である。これからさらなる論述が展開されていく予定だったのだろうが、残念ながらこの文章はここで終わっている。

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論理的帰結

大脳生理学の第一線で活躍しているエーヴァルト教授は、ある日タイムマシンで2237年に連れてゆかれる。彼の”学問的”子孫が、彼のためにわざわざ通訳(舞台は250年後のドイツであるため、エーヴァルト教授にとってはこの当時のドイツ語が理解できないのである)まで用意して彼を迎える。教授は「楽園のように見え」る世界を歩き回るが、「無気力に思えるくらい」「おだやかでやさし」い人たちが、」攻撃的な振る舞いやモラルに反する行動」をまったくすることなく、すべて自動化された世界で穏やかに生活していた。二人の若者がナイフで相手を突き刺そうとするゲームを行っていたが、ナイフを相手に突き刺そうとした瞬間にそれらの若者は気を失ってその場に倒れ込んでしまう。そこで芸術がどうなっているのか気になった教授はコンサートや映画に行くのだが、そこで彼が体験したのは攻撃性に満ちた画像で、文字どおり「吐き気を催す」ものであったが、23世紀の人間はそれを楽しんでさえいた。教会でのミサも卑劣さや悪の称賛であり、「何がおきたのか、教授は理解できなかった」のである。

そこで教授は彼の学問的子孫に問いただしたのだが、「悪がまだ存在するのは虚構の中だけで、いわば”現実でない”かたちで作れるところ、誰も害をこうむらないところだけ」になっており、「人はもう物理的にそれ(悪)を行うことができない。他人を害することをしようとすれば、失神してしまう。そして、これがまさにできないことだから、それは尊ばれ、崇拝された」というのであるが、これにはこのエーヴァルト教授の大脳生理学での発見が大きく寄与している。21世紀初頭、「黒い卵」と呼ばれる、倫理に関することを決定する細胞構造が発見され、これを操作することによって「悪」ができないようになったのだが、なぜそれを全ての市民に対してしなければならなくなったかというと、科学技術の進歩により誰でも簡単に大量破壊兵器を作れるようになり、誰か一人の気まぐれのために世界全体が文字どおり物理的に破壊できるようになったため、それを食い止めるためにこのような措置を講じなければならなかったのである。これではいけないと思った教授は現代に戻されたあと自分の研究成果を書き表した文章をすべて燃やしたが、彼の知らないところである若い研究者がエーヴァルト教授をもとに、その「黒い卵」を発見していたのである。

人間の倫理や幸福と関係なく発達してきた科学技術の将来像として、いかにもあり得る話である。科学技術についてのエンデの懐疑的な態度は「アインシュタイン・ロマン6」でもう既に明らかにされているので、そちらの方も参照されたい。

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(C)「愚かな質問」〜「はい、もしくは、いいえ」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

愚かな質問?

考えさせられる答え

転生

時間

ニューエイジ

海蛇

こうして謎は説明され、消された

実験文化

創造力

最終の待合室

死ぬには愚かすぎる

まことの名

職人芸としての演劇

はい、もしくは、いいえ


愚かな質問?

エンデがギムナジウムの生徒だったときに、ある日雷についての実験が行われた。物理教室の中で空気が乾燥していることを確認してから、さらに徹底的に湿気を除去した上で雷が成立することを先生は教えるのだが、エンデが「どうして雷は湿気がある時にしか起きないのか?」ときくと、「そういうことはわたしよりももっとりこうな人たちが頭を悩ましたのだから、だまってそれを認めればよい。それに、愚かな質問をするより、通信簿の悪い成績のことを、わたしはもう少し気にした方がいい」というそっけない返事が返ってきた、という体験談である。

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考えさせられる答え

この文章は、私の記憶違いでなければ朝日新聞の1987年頃の元旦の特集記事の中にあった一節であるように思うが、この文章の出典について分かる方は私にその旨のメールを送っていただけるとありがたい。

さて、この文章そのものはあるインディオ(原文のまま:中南米のスペイン語圏ではインディオindioという用語は差別的な響きがするため、先住民族は通例インディヘナindigenaと呼ばれている)たちの話であるが、ある学術探検の際に学者たちが彼ら先住民を雇ったときに、ある日突然彼らが円陣を組んで動こうとしなくなった。手をこまねた学者たちは銃で脅してまでして彼らを動かそうとしたが、先住民たちは決して円陣を崩そうとしなかった。それが数日続いた後、また彼らは突然歩き出しはじめたのだが、のちに彼らが語ったところによると、「早く歩きすぎた。だから、われわれの魂が追いつくまで、待たねばならなかった」ということだったのである。

ここでエンデは「外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった・・わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である」と語り、われわれの文明のあり方そのものを鋭く問いかける。現代文明はどんどん楽をする機械を生んできたが、それは一体何のためだったのだろうか? 家事から解放されてはいるかもしれないけど、・・? 彼の問いかけは文明の根源に対して向けられているのだ。

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転生

今日のキリスト教世界では転生というものは信じられておらず、人は死ぬとそのわずか数十年の生涯の間に行った徳や罪などによって永遠に地獄あるいは天国で過ごすことになると信じられているのだが、転生論者であるエンデは「この考え方のほうこそが異教のものだと言ってさしつかえない」と語り、元来キリスト教はむしろ転生を認める傾向にあったことを文献学的に論証する。「新約聖書には、転生があたりまえの事実とされていたと示唆する箇所がいくつもある。転生があるのか、という問いはたてられず、問われるのは”どのようにして”であり、”だれが、”なぜ”なのだ」というエンデにとて、新約聖書の「マタイ福音書」11章14節、ヨハネ福音書9章1〜3節はその一例にしか過ぎない(エンデの文章ではそのように書かれているが、私の手元にある日本聖書刊行会編の聖書では転生を思わせる記述はそれらの箇所には見当たらない:編注)。

それはともかく、そんなエンデに言わせれば、現代のキリスト教が転生を認めないのは、ギリシャ哲学の影響である。「スコラ派の学者たちがアリストテレスからひきついで、それをキリスト教の教えのなかに取り入れたのがはじまりである」というのだが、この一文からではエンデの言説が正しいのかどうかは判断できないため、関連の書籍類にあたってみる必要があるだろう。

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時間

「時が計れる、つまり日、時、分にわけられるという事実が、実は時間が-数学的に見て-無限でない根拠である。なぜなら、無限の半分はそれ自体また無限だし、それをさらに分けた部分もそうなのだから」という趣旨で、時間の有限性についてエンデが説く一文である。だが、数学に弱い私にはこの証明が正しいかどうかわからないので、この論拠の正当性について誰かのご教示がいただければ幸いである。

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ニューエイジ

ここ数十年、特にヒッピー運動が盛り上がってきた頃から盛んになってきたニューエイジについてのエンデのコメントである。一般的にニューエイジは、それに関わっていない人にとっては何らかの「いかがわしい」雰囲気がするものであり、エンデもそれを認めてはいるが、あくまでも彼はこの流れを「実証主義や物質主義一辺倒の世界像から抜け出し、精神的な、よりよく言えば、総合的な世界観へ橋をかける試みといえるだろう」と評し、さらに「それは、認識の真実(自然科学)と信仰の真実(宗教)とのあいだにある、今日では耐えられないほど深い溝に渡す橋なのだ」と語り、肯定的にニューエイジを認識してゆこうとしているのである。「そこでは自然や宇宙は、もはや物理や科学の法則の単なる物質の担体としてではなく、本当に魂が宿る、そして精神に満ちた、森羅万象のまとまりとして理解されるのだ」というエンデのことばがシュタイナーの自然哲学に根差していることはいうまでもないが、非唯物論的自然観をそろそろわれわれは獲得するべき段階に差しかかっているのではないだろうか。

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海蛇

東洋趣味的な記述も見られるが、全体としては狂気に支配された世界を描くソネット(十四行詩)である。

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こうして謎は説明され、消された

ダンテの「神曲」の中で、彼が地中深くまで潜り、地球の反対側に出てくるシーン(「浄火編第一曲」19-31)があるのだが、ここで南半球でしか見られない南十字星の描写があることを指摘し、1308年、当時の西洋世界の誰も南半球まで到達していなかった時代に南十字星のことをダンテが知っていたのか、ということが疑問として出される。エンデはこれに対し二つの「可能な説明」を展開するが、どれもが否定されてしまう。

1:「歴史家がまちがっていて、南半球とその星空についての知識がすでにあった」:これは現代の知識人が認めている「”暗黒の”、つまり無知な中世というわれわれの歴史像をゆるがすことになる」からだめ。

2:「ダンテがこの星の配置について、おどろくほど正確なビジョンを超感覚的に見た」:もしその仮定を認めてしまうと、「ダンテが「神曲」に記す旅の、他の詳細もただの想像力の産物以上のものかもしれない」ということになり、それは「啓蒙され、近代科学の教育を受けた者は、誰もがこのような仮説を一顧だにしないのは言うに及ばない」ためこの仮説も成立しない。

そこでダンテの注釈者たちが導き出した結論は、「あの四つ星のくだりでは、詩人が意味するところは別にあり、あくまでも象徴的な意味だ」というのだが、大熊座や魚座や金星が天文学的なデータなのに、南十字星だけ想像力の産物であるというのはおかしくないだろうか?、とエンデは問いかけている。

私が思うに、エンデは1か2のどちらかの仮説が正しいものと信じて、この一文を著したのではないだろうか。中世を無知蒙昧の時代という偏見の目でしか見ず、超感覚的ビジョンなどというものを非現実的なものとして一蹴しかしない近代の「啓蒙された」学者の知性そのもののあり方を根本から問い直すために。

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実験文化

実験劇場や実験展示会、実験音楽や実験学校などありとあらゆる実験文化が花開く現代だが、「結果ができるだけ客観的であるように」分析する自然科学の「このような方法をそのまま芸術や文学、ましてや教育に適用するのは馬鹿げたことだ」とエンデは批判する。なぜなら「芸術や文学においては、”客観的”に、つまり自分の観念や期待をしめだして研究できるような寄与事実や関連がまったくない」が、そんな「ことを、たいていは忘れているから」その「あやまりはちょっと気づきにくい」のである。

エンデはさらに、「芸術”自体”というものはない。”自然状態での文学”、つまり人間が介在していない文学というものもない」と述べているが、これは少しわかりにくいのでちょっと解説をしてみよう。すなわち、閉じてある「星の王子さま」の本そのものは文学ではなく、その本が開かれて、一人(以上でも構わないが)の読者の目に触れることによって、はじめてこの本は文学になるのである。「発表され、展示され、観客のまえで上演されたものは、本番なのだ!」という一説がこの文章にあるが、これは「「やってることがいいなんてもちろん思わない。ぼくたち個人とはまったく関係ないんだ。ぼくたちは知らないよ。ただ試しているだけさ。なにか生まれるかもしれないからね。生まれないかもしれないけど。まったく客観的でありたい。つまり、そこに生まれてくるかもしれないものに、ぼくらはまるで責任がないんだ」」などとお茶を濁して無責任に「実験」を繰り返す輩に対しての痛烈な教示であることを、われわれはもっと認識する必要があるだろう。

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創造力

人間の創造力は計測不可能だが、それによって人類は科学を成し遂げることに成功した。すなわち、「科学は科学自身が説明できないものを基盤とし」ている、という旨で書かれた一文である。

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最終の待合室

ある男が長年気になっていたある待合室を訪れ、そこでただひたすら待っているだけの人を発見する、という内容であるが、これもやはり何かの物語になりそこなった破片といえよう。

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死ぬには愚かすぎる

これは戯曲だが、愚かすぎて自分が死んだことさえ認識できていないピエロ・ビヴィと、そのビヴィに死とは何かを教えようとするサーカスの団長との間で広げられる滑稽な芝居である。

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まことの名

世界に存在する万物に名前があることがなぜ大切かということについて、ここでエンデは語る。「これにより、はじめて人とまわりのものに関連ができ、その人にとり、その存在ははじめて現実となる」と彼は述べ、さらに「わたしには、詩的な仕事の大部分は、いまだ名がなきものに名をあたえることであるような気がする」といっているが、記号論的がいうところのシニフィアンを用いることではじめて人間はものごとを認識できる、逆に言えばシニフィアンを持たぬ事柄は理解できないということであろう。

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職人芸としての演劇

この文章は演劇の劇的性についてエンデが語った一文である。彼は演劇の成否を決める要因として、”認識シーン”を挙げ、劇の主役がそれまで知らなかった事実を知ったときに起こる衝撃こそが演劇の核であるという。

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はい、もしくは、いいえ

すべて「はい」か「いいえ」のどちらかで答えさせようとする判事に対し、被告が「判事殿は毎晩奥さんをぶん殴ることをおやめになりましたか?」と聞く。この場合、実際はどうあれ、「はい」と答えても「いいえlと答えても、彼は奥さんをぶん殴っていたことを認めたことになり、社会的非難を受けることは免れない。おそらくこの一節も、何かの物語に挿入しようとして書かれたものの日の目を見なかったものであろう。

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(D)「誤解」〜「舞台装置」概説
ここでは、以下の作品を扱う。

誤解

私の父

森のこびとが新聞を読んでいる

有機的と機械的

スタンの夜の歌

人の弱さの効用について

家族だんらん

”わたし”の持続性

批判精神の教育?

イチジクの葉

アラビア数字?

おとぎ話が語ること

死についての対話

舞台装置

人形つかいの夢

魔法使いの弟子のみなさんに警告

わたしが呼び出した霊どもが

第三次世界大戦


誤解

芸術の定義についての、皮肉を込めた一節である。一見大したことのない灰皿をある「芸術家」がすばらしいオブジェだととらえている寓話を語ったあと、「芸術作品とは、高名な芸術家がそれを芸術作品だと宣言したものであることを、わたしも知っている。残るは次の問いだけだ。高名な芸術家を高名な芸術家だと宣言するのは誰なのか?そう、一番その資格があるのは、またもや高名な芸術家、つまり彼自身ではないだろうか?」と彼の持論を述べているが、結局これは専門家の意見に対して盲従しがちな現代人の芸術観を皮肉ったものといえよう。

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私の父

「誰もいない王国を治めていた」父が、ある日「われら、深みに住むものは、見つけ出してくれる、正直な拾い主をさがしています」と書かれた手紙を拾い、その深海に行くために潜水艇を組み立て、そこで見つけたものについて描き写す。しかしある日その潜水艇は海面に浮き上がってしまい、全ての観察記録がフイになってしまう。この一節は、意識下の世界へと潜っていってそこで見たことを描いていたエドガーの画法を別のやり方で思い出させたものといえよう。

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森のこびとが新聞を読んでいる

ふたりのこびとが新聞記事についてあれこれ語り合う内容だが、これも物語にしようとして完成しなかった断片の一つといえよう。

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有機的と機械的

「有機的なもの(生命あるもの)は、どの部分にもその全体が、ある特有のかたちで含まれているという特徴をもっている」という一節で始まるこの一文は、「一枚の葉の中にも木全体があり、どの細胞にも葉がある」、さらに「一本のロココ様式のスプーンから、実際、その時代のサンスーシ宮殿が再構成できる」とまで述べており、この関係を「原因と結果という関係からではない−ここに現代の誤解がある−そうではなく、対応による」としている。それに対し「それとまるで異なるのが機械的な原理だ。機械の原理では、まったく異質な部品が、原因と結果の因果論理的な全体に組み立てられる」といい、有機的なものと機械的なものの構造の間には、決定的な違いがある、という。

この一文を読んで、私はフラクタル次元のことを思い出した。フラクタル、すなわち整数ではない数の次元(たとえば1.73次元)の世界で描かれる図形が、実際の自然界に存在する動植物などの姿に似ており、このフラクタルの世界でも一部が全体の姿と対応している、という。数学に疎い私なので深入りは避けるが、エンデの哲学が現代数学の事実と一致している興味深い例だといえよう。

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スタンの夜の歌

オリィに対して語りかけがなされる歌だが、これはまさにエンデがいうところの「体験されるべき」文学作品であり、あsまざまな情景描写について解説を施すほうが野暮なので、ここではあえてこの作品にこれ以上触れない。

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人の弱さの効用について

イタリア在住時、「汚職、泥棒、永遠につづく絶望的なカオスのまっただなか」にある「ひどい国(パエーゼ・ディ・メルダ)」に住んでいるのか、エンデは「あきれ顔のイタリア人から一度ならず」質問をうけたが、それに対して彼はこう答えた。「わたしが囚人で、強制収容所へ連行されるところだとしよう。そして、たまたま金時計を身に隠すことができた。看守がイタリア人だったとする。すると、私は看守に近づき、こうささやくだろう。「聞いてくれ。家には年端もゆかない子供が七人いるんだ。みんなまだ小さいし、かみさんはぼくがいなくてはどうしたらいいかわからない。・・ここに金時計がある。あんたがちょっと横を向いて、ぼくを逃がしてくれたら、この時計をやるよ」そのイタリア人はおそらく目に一粒の涙をこらえながら、もちろん時計を取り、わたしを逃がしてくれるだろう。監視兵がドイツ人なら、その兵は涙を流さず、もちろん時計も取らず、贈賄の罪で私を上官に報告するのではないだろうか」だからイタリアのほうがいいというのである。この文章は「ナポリのような都市は、ファシストたちでさえ相手にできなかった」と締めくくられているが、人間の人間らしい欠点もまんざらではないことがわかるだろう。

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家族だんらん

何かの文章の書きかけだと思われるが、あまりにも短いので解説ができない。

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”わたし”の持続性

幼少のある時、「わたし」は「これからの人生で、私はどうなるのか、十年後や五十年後も今ここにいる同じ私であり続けるのか、それとも別人なのか」と自問し、「これからの人生でくり返しこの瞬間を思い出そうと、わたしは心にきめた」。そして「わたし」は年老いた今も、この瞬間を思いだすことができることが述べられている。

普通、人間は自分が生まれたときから死んだときまで自分が同一人物であると思い込んでいるが、正確に言うとそれはすこぶる怪しい。自分の記憶がいつの間にかすり替えられていて、誰か他人の過去を自分自身の過去だと勘違いしているだけなのかもしれない。そのことについてどうなのか、自分で再認識しようというのがこの「わたし」の決心なのである

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批判精神の教育?

この文章は、「児童図書には、子どもたちが非難できるものをなにか見つけられるようにしておくべきだ。そうすれば子どもたちは批判能力を身につける」という一文に対する反論で始まる。「これは、いうまでもなく、とてもずるい意見だ・・くだらぬもののくだらなさに気づかず、しかるべく”批判的に”遠ざからないで、もしひっかかれば、それはその子ども自身の罪なのだ。その子の批判能力はまだ十分に訓練されていなかったのである」とこの冒頭の文章を解説し、「そうだとすれば、反ユダヤ主義的な、ナチス時代の旧教科書を復刊しない理由は、実際どこにもないのだ。あの教科書なら、子どもたちはすばらしい訓練を受けられるのではないか」と鋭い指摘をしている。もし人種差別というのがおかしいということが子どもの無意識に対しても自明であれば、子どもたちはこんなまやかしの言論の嘘を見破れるはずだが、その教科書を読んだ彼らがその後どうなったかについては、私が述べるまでもないだろう。

さらにエンデは徹底した反権威主義で育てた彼の知人の例を挙げ、自分の娘に対し、自分のことばをそのまま信じないように育てたのだが、その娘は現在では重度のノイローゼで精神分析医に通っていることを述べ、確かに批判精神を持つことは重要だが、その前にもっとすることがあるという。「通常一般の用語法では、「批判能力」という語は、ただのあらさがしや、不満っぽく、疑りぶかい姿勢をさすのではなく、自分が熟知し、全体を把握できる専門分野において、ある尺度にあてて、正確な見分けができる弁別能力をいう。この専門分野における概観と尺度だが、これ自体をあらかじめ批判的に身につけることはだれもできない。それは全ての批判の前提条件なのだから。それを身につけるにあたっては、識者と認め、信頼する人間のことばに頼るよりしかたないのだ」とエンデは述べており、まず人間が自己形成をするにあたって揺るぎない精神的基盤を築き上げることが大事であり、その段階では子どもたちが懐疑的な態度を取らなくてもいいように教育しなければならない、と述べているのである。その「尺度はいつの世でも教える者の人間性から切り離せない。教えるものは知識と良心にかけて、責任を負わなければならない。それは残念なことではない。よいことなのだ。まさにそのことで、子どもが学ぶ内容は、人間を信頼する体験と結ばれており、匿名で冷たい知識の詰め込みではなくなる」と言っているが、これは絶対的な価値観というものを築き上げようとする動きに対するアンチテーゼといえよう。

さらにエンデは「十二歳以下の子どもたちに批判精神を教えようとしてもまるで意味がない。よく見れば、子どもは、識者と思われる人間の判断や意見を口真似するだけだ」としてその批判教育の実効性のなさを物語り、そうではなく「子どもは生きることの価値と、生きることの尺度をさがしているのだ。そして、教育者の課題とはとどのつまり、この受け入れる姿勢を目覚めさせ、それを正しい道へと向けることにほかならない」と述べ、自分たちの生涯を価値あるものにしているものを見つけさせることが大切だと説いている。エンデはさらに「今日、子どもたちにはあらゆる側から汚さや冷たさや醜さが注ぎ込まれているからこそ、児童図書は読者が美しいと感じることや愛せるものを与えるべきなのだ。これより大切なものはない。なぜなら、ただこれだけが子どもの心の栄養となるからである」と結論づけているが、現代の即物的で内的幸福を伴わない社会とは異なった文明を築くためには、確固とした内的価値観を築き必要があり、そのために児童図書が大きな役割を果たしていることがわかるのではないだろうか。

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イチジクの葉

バチカン美術館で一時全ての男性の彫像からペニスが取り払われ、その箇所に石膏のイチジクの葉が飾られていたが、「このお上品ぶりはまったく逆効果だった。そこから受ける印象は、言葉にならぬほど猥褻」だったのだ。一般的に性器や乳房が露出している画像は猥褻だと認識されているが、たとえばゴヤの「裸のマハ」を猥褻画として糾弾する人はいないだろうし、逆にそういった部分だけ不自然に隠すことによって性のみだらなイメージを想起させるということで猥褻なイメージを思い出すこともあるはずで、それらオブジェが猥褻かどうかというのは、その物体そのものの表面的に描かれているものではなく、それを見た人間がイメージするものによって決定されることがわかるだろう。

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アラビア数字?

現在われわれが使っている、123という類の数字は、アラビアで使われていた文字に起源を持つことからアラビア数字と呼ばれているが、エンデはこの文章で新説を唱える。それぞれの惑星のシンボルから3〜9の文字ができたというのである。多少強引な説であり、文献的論拠に乏しいものと言わざるをえないが、一応エンデの思想という範疇に入るものなのでここにその概要を記した次第である。

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おとぎ話が語ること

「ほんもののおとぎ話とは、その昔、”無知蒙昧な”民がでっちあげた、思い付きの不思議話ではない。・・が、世代から世代へと、民衆はおとぎ話を言葉どおり言い伝える。おとぎ話に、真実を感じるからだ」という一節で始まるこの文章は、おとぎ話の真実性についてエンデが述べたものである。エンデはこれらのおとぎ話を「ある別な(内なる、と言っておこう)現実世界からの経験報告」と定義し、「近代の西洋人は、概念による思考のために、この別の現実世界の経験をほとんど失ったので、彼におとぎ話を耳にしても、この報告を史的(魔女、王子、竜、魔法の剣など)もしくは心理学的に解釈するのだ」と近代人の童話に対するアプローチの方法を解説し、それに対して「わたしには、このどちらもまちがいか、すくなくとも不十分に思われる」としている。童話に登場する魔女や王子や、その他超現実的存在を全て何かの象徴としてのみ解釈するやり方は正しくなく、おとぎ話の世界の中ではそれらはまぎれもなく現実であるとエンデは言っているのだ。

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死についての対話

死が全ての終わりかどうかということについて、そうだと考えるAとそうは思わないBとの間で激しい理論が展開されるが、この短い文章はBの「そのあとにはもう真実はないと告げる真実が、今、何の役に立つというのだい?」という問いかけで終わっている。もし死んでしまったら全てが無に帰してしまうのであれば、はっきり言って今死のうが30年後に死のうが、長い目で見ればどちらも同じことである。それなら、なぜ今死なないのか? 人生における全てが無意味なら、じゃあなぜ生き永らえるという悪あがきを止めて、潔く死なないのか? 死を全ての終わりとする論理矛盾を、エンデは突いている。ニーチェは「超人」なる概念を唱えて自分の考え出した虚無主義を乗り越えようとしたが、そんな彼が狂気に冒されて晩年を廃人として過ごしたことは決して偶然ではないだろう。

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舞台装置

ドアを隔てて全く異なった二つの世界が存在しており、その両方の世界で人間は暮らすことができるものの、そのドアをくぐってもう一つの世界に入った瞬間に、それまでの世界で持っていた知識や経験をすべて忘れてしまう舞台装置がここで描かれている。

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