エンデのメモ箱(後半)
(岩波書店、1994年)

後半:「人形つかいの夢」〜「世界を説明しようとする者への手紙」

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※(A)〜(D)についての解説は、前半のほうへとアクセスしてください。
(E)「人形つかいの夢」〜「言葉の生産高」概説
(F)「詩人からの瓶に入った手紙」〜「ゴとマ」概説
(G)「ふたたび問う、芸術とはなにか?」〜「二つの博士号を持つ、大学教授サタントン氏のドクトリン」概説
(H)「お金と成長」〜「世界を説明しようとする者への手紙」概説


(E)「人形つかいの夢」〜「言葉の生産高」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

人形つかいの夢

魔法使いの弟子のみなさんに警告

わたしが呼び出した霊どもが

第三次世界大戦

びっくりした女性読者への手紙

地下室で

赤子

永遠に幼きものについて(別枠)

王国

文体のはったり

ファンタジーとアナーキー

「おそれるな」

言葉の生産高


人形つかいの夢

ある日、人形つかいが夢を見るが、この夢の中では自分に似せて作った人形が逆に主人を操る。文字どおり「人形の操るまま」になってしまった人形つかいはやがて疲れ果てて倒れこんでしまうが、ここで人形が「ふたりをむすぶ細い糸、それは縛って、おまえを逃がさぬ! 自身を見つけるために、わたしをつくったのか? おまえはついぞ知るまい。だれがだれをあやつるのか?」という無気味な言葉を発し、人形つかいは目を覚ます。人形は彼の目の前でぐったりしたままだが、彼にとってのこの人形はもはや夢を見る前のそれと同一ではない。

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「”ほのかな暗示”」という、能を構成している要素は、無こそが観客の感性や知性を刺激して観客それぞれに異なった芸術美を堪能させるが、西洋文化はそうではなく、「ほとんどすべてが騒々しく、露骨であり、押しつけがましい。ひとことでいえば、下品なのだ」とエンデは評す。ここに、表面的には控え目に見える東洋の文化に対する西洋の憧れが思い知れる。これについては「エンデと語る」の中でも触れられているので、参照していただきたい。

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魔法使いの弟子のみなさんに警告

王子を蛙に変えることは簡単だが、その逆は大変である、とエンデは語っているが、ここでは、破壊は簡単だが創造のためには大変な労力が必要であるということが示されている。おそらくこれも、構想段階でとどまってしまった文章のアイデアであるといえよう。

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わたしが呼び出した霊どもが

神秘主義的な思想に造詣の深いエンデが、心霊術の偽善についてここで物語っている。本来彼岸でわれわれが体験することは容易にはわれわれの世界のものごとに喩えられないような代物ばかりであり、そのためには「不可思議なものをもとめて」でエンデが語っているようなプロセスが必要なのであり、それは一朝一夕で達成できるようなことではないのである。

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第三次世界大戦

ここでエンデは、第三次世界大戦はすでに始まっていることを述べているが、それについては「アインシュタイン・ロマン6」の中で詳述されているので、そこを参照されたい。

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びっくりした女性読者への手紙

ある女性(おそらく日本人であろう)読者に対する反論である。この本ではカバラや「はてしない物語」の反聖書性に対する反論などのことが書かれているが、目新しいこととして「わたしの本に書かれているのは黒魔術でも白魔術でもまだらに魔術でもありません」と、自分の本が魔術的な色彩を帯びるものでないことが明らかにされている点である。エンデはさらに「百年前には、たとえば催眠術は明らかに魔術やオカルチズムの一つとされ、したがってナンセンスなバケモノか、悪魔の仕業のように言われましたが、今日では大勢の医師が当然のこととして治療法に使うし、抜歯のさいに薬を使わない麻酔として利用する歯科医さえもいます」と、何が魔術で何が魔術でないのかという定義が時代とともに変わってきたことを述べている(そういえば、あれだけ中世の教会が否定してきた地動説が、ようやく1990年代になってバチカンに公認されたプロセスもこれと似たような現象かもしれない)。オカルトについてエンデは以下のように語っている。「この世界の現象の背後にある精神的なもの、霊魂的なものは、五感を通じての私たちの直接の知覚からは隠れています。”隠れている”とはしかし、ラテン語の「occultusオクルト(オカルト)」の訳語にすぎません。この意味では、キリスト教だけでなく、世界の大宗教はみんな隠れたもの、あるいはオカルトなものについて語ります。それは神が創造し、世にあらわれたものの根底にある、神的なもの、精神的なもののことです。ですから、このことばに驚かないように。それはもともと迷信やペテンとはなんのかかわりもありません」つまり、現代人はオカルトに対し妙に警戒心を持っているが、その意味ではキリスト教やイスラム教のような宗教もオカルトである、ということなのである。

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地下室で

「わたし」が地下室で体験した、不思議なノックの音に関する短い文章である。

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赤子

生の苦しみとも、うめきともとらえられる、12行の短い詩である。

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王国

自分の親指の爪ほどの大きさしかない自分の国を治めている王様の話である。

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文体のはったり

きどった文章にみられる、その著者のスノッブ(俗物根性)性を揶揄した一文である。

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ファンタジーとアナーキー

ファンタジーが世間から忌み嫌われるわけは、それがアナーキーで、「従来の思考秩序を解消し、しかし同時に新しい観念を生み出したり、すでにある観念を新しい関連に置く」態度が現在の保守的な体制に反抗的だからである。しかしこの社会の中でファンタジーが「いじけ、病気になり、死んでしまう」からこそ、「マネージャー病、胃潰瘍、ノイローゼ」などの病気が生まれている。しかも「啓蒙と進歩の名において」である、と主張する一文である。

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「おそれるな」

「精神世界の実在との出会いは、そのどれもが人間にとってはおそれの体験、いや恐怖体験と結びついている」と書き出された一文で、精神世界の物象が物質世界のそれと大きく異なることが描かれている。

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言葉の生産高

エンデがアメリカを訪れた際に「一日に言葉をいくつ書くのですか?」と聞かれ、この国ではことばが生産量の単位となっていることにエンデが戸惑う様子が描かれている。「十行でも気に入ったものが書ければ、うれしい一日の仕事量であり、結局は紙屑箱へ捨てられることになる十枚より、少なくてもよいではないか」と彼はコメントするが、単語を組み合わせるのが作家の仕事であるのなら、パソコンにそれなりの規則を教えてランダムに言葉をつなぎあわせるようにさせたほうが、どれだけ効率よいことだろう。「理想的」にも似たようなことが書いてあるので、参考にしてもらうとよいだろう。

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(F)「詩人からの瓶に入った手紙」〜「ゴとマ」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

詩人からの瓶に入った手紙

シリウス星への電報

演劇批評家

強制する思考

ただの偶然?

理想的

おしゃべり機械

無意義への殉教者

慣習としてのリアリズム

知的世界のブローカーたち

運命の象形文字

シュヴァーベン人の整頓好き

どうしてなのだろう?

ゴとマ


詩人からの瓶に入った手紙

この文章は、ホセ=ルイ・メリーノという、スペイン語の名前らしき人とのインタビューという形式になっているが、本当にこのような対談が行われたのかは未確認である。

この対談でまず面白い点は、「良い言葉、悪い言葉というのはない」というメリーノに対し、「たとえば「人材」、「ことがら自体の強制」や「時給」(まるで人生の時間を売ることができるかのようだ)、また、「核廃棄物-処理」−みんなすでにその言葉そのものが嘘です」と答えている点である。そのような言葉を扱うことに何の躊躇も示さない人間の魂そのものが貧弱なものになっていることをエンデは述べているといえよう。

次に、メリーノの「ときおり、非現実なことが、非現実のまま、現実になるのはどうしてでしょうか?」という質問に対する答えがあるが、それが詩と嘘について詳しく述べてある。「詩と嘘は同じ物質(おそらく英語のmaterialに当たるドイツ語の訳語だと思われるが、ここでは「素材」という日本語のほうがふさわしいのではないだろうか:編者注)からできているからです。虚構という物質。この物質は、だれが使うかによって、薬にも毒にもなります。それは物が見えるようにもするし、見えなくもする。詩は現実ではないと称し、だから現実を生み出す。嘘は現実と称して、非現実を生み出します」というのだが、これほど明快な詩と嘘との違いの定義はないのではないか。

その他さまざまな話題について一問一答式の対話が続くが、この対話はどこか噛み合っていない。これはどうしてなのか、ちょっと疑問であるが、このインタビューに関する情報がないためにこれ以上私としてはコメントを付けられない。

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シリウス星への電報

何を伝えているわけでもなさそうな、ふしぎな一文である。

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演劇批評家

「今日の演劇批評家の不幸は、通常、脚本と演出と演技能力の区別が、かれらにつかないことにある」と書き出されたこの一文で、エンデは「激評を書こうとする者は、まず一、二年演出助手として舞台のそでで学ぶべきだと」と書いているが、これは若いときに役者を志したエンデらしいことばといえよう。ただ、演劇にそれほど造詣の深くない一般の観客が脚本と演出と演技能力を区別しているかどうかは疑問であり、逆にいちいち「これは脚本が悪い、あれは演出の不手際だ・・」などと舞台裏のことまで考えて見ていたら、それこそ演劇を鑑賞することができないように思うのだが・・。

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強制する思考

因果的論理が現実に起こることをすべて「必然的」にとらえようとすることについて述べられるが、創造的行為が因果関係をはずれた行為であり、「これが見えないのは一つの欠陥であり、感覚から”今”と”ここ”が失われる。そのため、われわれは過去の世界の虜囚となるのだ」と、現在の世界を描写する。そして、「だが、どのようなかたちでも−内なるかたちでも、いや、そのときにこそ−とらわれの身であることは人を攻撃的にする。自我が牢獄の壁に向かって暴れるようになり、しかしその壁が見えない。そして、まさにそのために、囲む壁はますますその厚みを増すのである」と、因果論に縛られる人間が自由を失う様子を描き、「現代社会で、暴力への欲求が増えているのは、この内なる状況のあらわれにほかならない」としている。

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ただの偶然?

イエスの直筆の筆跡に関する考察である。

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理想的

「いつの日か、コンピュータが小説や詩や戯曲を代わって書けるようになる」という、ある本の引用からこの文は始まる。その本は、「よい詩とは、積み木の理想的な結合にすぎないし、その積み木は全部すでに存在するもの、語彙や暗喩や言葉のメロディーや考えなどだからだ」というのだが、「よろしい、しかしこの論にはひとつ難点がある。すなわち、何が”理想的”なのかはだれが決めるのか? コンピュータかね?」とエンデは問いかけるが、ここで”理想的”という概念がいかに主観的で、コンピュータに代表される計量思考の枠ではとらえられないものかが明らかになる。

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おしゃべり機械

シュルレアリズムの創始者であるアンドレ・ブルトンが用いた自動記述で書かれた文章だ、ということだが、文法的には正しいものの全く脈絡のない駄文が続いている。シュルレアリズムの方法で接触できるのはせいぜい表面上の意識のざわめきであり、それから意味のあるメッセージを汲み取ろうとすること自体に無理があることが窺い知れる。

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無意義への殉教者

ニヒリストの中でもその主義に対して最も忠実だったとエンデが思っている人間が、サド侯爵であるが、その理由は「倫理的価値など全部虚無だし無効だ」と宣言したからである。「快楽はサドが認めるただひとつの価値である」というが、ここでエンデが理解できないのか「サドの使命感」である。彼はわれわれにこう問いかける。「そのサドに、まさにその教えを言い広めるために、三十年間の監獄暮らしを甘んじて受けさせたものは何だったのか?」つまり、もし快楽以外の全ての人間の活動に価値がないのならば、監獄暮らしをしてまでどうしてそのことを世間に訴える必要があったのか? 自分一人でその快楽に浸っておけば良かったのではないか?エンデはこの文章を、こう閉じる。「どうしても、どう転がしてみても、この計算の帳尻は合わない。」

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慣習としてのリアリズム

この文章を始めるにあたって、エンデはリアリズム(写実主義)が成立するための二つの前提を語る。

1:「現実とはなにかをわれわれが実際に知っていると信じること」

2:「この現実の模写が可能であり、しかも有益だと信じること」

そして、「第二の前提は第一の前提から生じる」と語り、それらの前提が間違っていることを証してゆく。

1に対する反証:「西暦一千年の中国の大官が言う現実と、フランス十八世紀の大百科事典編者が言う現実が、異なることがわかる。それはまた、ゴシック時代の修道僧の現実とはまるで違うのだ」過去のそれぞれの時代や社会に生きていた人間が現実に対して抱いていた概念が、その後の科学の発展などによって否定されてきたから。「このことがわれわれが持つ現実の観念にも当てはまることは言うまでもない」

2に対する反証:「それがまず不可能だということは別にしても、」とエンデは前置きしておきながら、「ただこの世を二重にするだけの、この鏡がなんのためにいるのだろう?」と問いかける。

この文章を閉じるにあたって、エンデはファンタジー文学とリアリズム文学の違いについて、こう述べている。「ファンタジー文学は、正直に表現できる唯一の現実はわたしたち自身が生みだす現実以外にはない、という事実から出発する。写実主義も同じことをしているが、ただ写実主義はそれを知らないか、知らないふりをしているに過ぎない」つまり、ファンタジー文学が現実を内的現実であるととらえているのにたいし、写実主義文学はそうしてはいないことが違いであるといえよう。

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知的世界のブローカーたち

読み書きに関する4行しかない短い詩である。

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運命の象形文字

日本語版のあとがきによると、この文章は実際にあった出来事をもとにしているらしい。

それはさておき、この話は第二次大戦中、兵士として前線に出征していたパウルとその恋人であるクララとのロマンスを描いたものである。前線兵士だったパウルがわずかな帰郷休暇を得、クララは彼と落ち合い、安ホテルで愛の一夜を過ごす。ところがこの次の朝方空襲警報が鳴り、本来だったら防空壕へと逃げなければならなかったのだが、二人きりでいたかった彼らはその部屋にとどまっているとそのホテルが爆撃で破壊され、パウルは死ぬもののクララは一命をとりとめる。だが、この爆撃の際にパウルの胸に守られていなかった顔の半分が青黒くなってしまい、これだけは生涯変わることがなかった、という話である。

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シュヴァーベン人の整頓好き

妙に整頓好きなシュヴァーベン(ドイツの南西部の地方)の人間を揶揄したものと思われる一文だが、ドイツ事情に明るくない私としてはコメントのつけようがないことを恥じるのみである。

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どうしてなのだろう?

エスカレータの終点で立ち止まる人には腹立たしい感情を覚えるのに、もっと悪いことを行っている人に対してはどうして同じ感情が湧き起こらないのか、と問いかけている短い文章である。

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ゴとマ

奇妙な題がついているが、文中にあるようにこのゴとマはゴラク音楽とマジメ音楽、すなわち前者は「商業的で、”一般大衆”を対象としており」、後者は「本来の高級な文化遺産を管理しているとされている」のである。

ある日、作曲家のS・Hがバイエルン放送局を訪れた。この時に上司がHの音楽を聴き、「H君、いいかね。これは私の気に入るんだよ。これじゃだめだね」という。これに対し、エンデは「ジョークめいたものだと思う-が、この言葉は今日の文化観を見事にとらえているようにわたしには思われる」という。つまり、「人は気づいたのだ。近代には、同時代人から才能を認められなかった多くの天才たちがいたことを」ということなのである。

理由を読んでさらに呆気に取られた読者に対して、エンデはこう説明する。「マーラー、ストラヴィンスキー、フォン・アイネムや、ほかの数多くの天才たちは、当初ブーイングを浴び、拒否された・・。のちになって、人はその意義を理解した。このようなあやまちを、われわれはもう犯さない。・・なにが本質的な音楽かは、それが人の気に入らないことでわかるのだ」

それだったら、ということで、エンデはこういう。「だからこのような音楽は税金で援助されなければならない。つまり、この社会の、この恵み多き理解から利を得ようとする者は、人の気に入りそうなものをみんななくせばすむのである」換言すれば、マ音楽の発展を願う人間は、まずゴ音楽を根絶やしにする必要があるというのである。

この文章は、長さの割にかなりの含蓄に富んでいるものだと私は思う。まず、上司がHの音楽を気に入っているがために拒絶したところで、ゴ=一般大衆に気に入られるもの、マ=一般大衆には気に入られないもの、という図式が読み取れる。おそらくHはマ音楽志望だったが、上司はこれが一般受けしそうだったために、これがマ音楽として受け入れられないと思ってこのように発言したものと思われる。だが、ここでみなさんにちょっと立ち止まって振り返ってもらいたい。果たして、現在われわれがマ音楽とみなしているものの全てが、その当時は拒絶されていた音楽だったのか?もちろんそんなことはない。宮廷音楽の作家として寵愛されたバッハや「第九」の初演のときに全聾であったにもかかわらず指揮をして、観衆の盛大な拍手を見て自分の成功を知ったベートーベンなどの例を挙げるまでもなく、今までに数多くの「マ音楽家」がその生前に高い評価を受けている。この文章を通してこのトリックを読み取って、現在の音楽会の矛盾を感じてもらいたい。そう思ってエンデはこの文章を著したものと思う。

そして、最後のパラグラフで述べてあることだが、これをもし本当に実行してしまったらそれこそ芸術の終わりになることがわかるだろう。一般に受け入れられない音楽全てが将来のマ音楽候補であるはずがなく、そのうちの大多数は単に芸術的な価値がなかったから拒絶されたのであろうが、そうだと考えずに珍奇で誰の耳にも芸術には響かない音楽がどんどん作り出されてしまったら、そのうちみんなが心の底では芸術だと思っていない音に苦しめられる羽目に陥ることは目に見えている。誰にも気に入られない音楽=マ音楽だとしたら、その概念を利用して音楽ともいえないような代物の曲を適当に書いてはそれを種に税金での援助をもらって無為怠惰な人生を送る輩が続出するからだ(実際、現在これに似た現象がオランダで起きている。音楽ではなく美術の方面で、とにかく芸術家とさえ認められれば国から十分な芸術活動支援資金が下り、それを糧にぬくぬくと暮らしてゆけるということらしい)。エンデの芸術観がそうでないことは他のところで述べられているためここではこれ以上は書かないが、この文が投げかけているアイロニーに対してもっとわれわれは注意深く接するべきだと私は思う。

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(G)「ふたたび問う、芸術とはなにか?」〜「二つの博士号を持つ、大学教授サタンソン氏のドクトリン」概説

ここでは、以下の作品を扱う。

ふたたび問う、芸術とはなにか?

祖母は中国庭園に座り、泣いている

永遠なるもの

アルミダ

変身

食事どき

「汝の十字架を負え・・」

子ども殺し

深みでの対話

理想

クカニアの反抗

世界を変える

まったくドイツらしい

二つの博士号を持つ、大学教授サタンソン氏のドクトリン


ふたたび問う、芸術とはなにか?

ある日の散歩で、変な形をした芸術作品が所せましと並んだ公園を散歩したわたしに、Mが以下のようにいう。「これでわかったわ。何なのか、ほかにまったくわからなければ−それは芸術なのよ」

つまり芸術とはありとあらゆる用途不明のものである、ということなのだが、そこまで芸術が蔑まれている現状に、本来の芸術家ならばもっと怒りをあらわにすべきだろう。

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祖母は中国庭園に座り、泣いている

第二次大戦中のエンデの個人的経験を描いた一文である。疎開先での学校での生活、食料配給が少なかったことに抗議したために別の「格下の」学校に送り込まれるものの、そこで女の子と仲良くなったり、兵役に回されそうになったときにいかにして前線配置から逃れるか考えたり、本当に召集令状が来たときにそのガ−ルフレンドといっしょになってミュンヘンに逃げたり、そこで出会った修道士との交流が描かれていたり、「祖母は中国庭園に座り、泣いている」という暗号のメッセンジャ−になったりしたこと、さらにはミュンヘンに米軍が入ってきたときの様子などが描かれているが、あくまでもこれは自伝的な文章なので哲学的な部分には乏しく、ここでは詳述しない。

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永遠なるもの

何が永遠なのか、という問いに対し、マイスターが「わたしがつねに変わっていく、そのかたちだ」であると答えるだけの文章だが、「つねに変わるという事実だけは変わらない」というのは、われわれの意識の盲点を突いたものであるといえよう。

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アルミダ

黙示録的な光景を描いた一文である。

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変身

秘密は、自らのとらえどころがないゆえにその秘密を守るという、逆説めいた短い一文である。

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食事どき

戦争が生み出す特殊な状況についての、おかみさんと大学生と兵士の3人が繰り広げる会話で構成された寸劇である。

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「汝の十字架を負え・・」

時間や前後や道などを表わす「水平」(おそらく水平軸のことだと思われる)と、永遠なるものや常にあるものや創造的なものの次元を意味する「垂直」(同様に垂直軸のことだと思われる)が交差するところこそが「今、ここ」だという。そしてその水平軸と垂直軸が交差すると十字が生まれるが、これをエンデはこう解説している。「時間のどの瞬間をも絶対者との関連に見ることは、苦しみを受け入れることである」

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子ども殺し

子ども殺しに関する短い叙事詩であるが、私にはこの詩は天、すなわち内的世界と深いつながりがある子どもの存在が現在の社会体制にとって脅威であるがために、王が彼らを抹殺してその脅威を取り除こうとしている、と読める。この叙事詩はイエスが生まれたときにヘロデ王によって起こされた嬰児殺しのことであるが、もしかしたら現代の教育システムの構造もこれに似たものではないだろうか。すなわち子どもたちの精神世界(=児童文学)が本当はこの世界を救うものであるにもかかわらず、大人はその世界を抹殺して子どもたちを"現実の"世界に招き寄せようとしているのだ。

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深みでの対話

円形の地下室における、大学教授とゴミ回収人との対話である。教授が自分たちのことを、「われわれは夢の中の出演者にほかならないとわかった」と語り始める。それからさまざまな話が展開されるが、この地下室はあくまでも石の床がちょっとあるだけの場所であり、この地下室でいろいろ語ったところでどうにもならない。

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理想

普通若い男性の理想はフサフサした髪と髭のないきれいさっぱりした顎だが、ミュ−ズの弟子はそれが逆になっていた。つまり頭のほうは見事なまでのハゲ頭だが、あご髭のほうはとても大きかった。どうやっても普通の頭にならなかった彼は、そこで理想のほうをかえてしまう。つまり、ハゲ頭で大きな髭のほうがすばらしい、としたのである。

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クカニアの反抗

フランツ・アッシサ−というカリスマ性を備えた若者が、ある日本当に必要なものだけを買うように呼びかけ始める。するとこれが一世を風靡し、どんどん工業製品の売り上げが落ちていった。「ドイツだけで二千万人もの失業者が路上にあふれ」、困り果てた政治家と財界人はこの男を暗殺し、世界経済が復活する、というシナリオだが、ここでおもしろいことが書かれている。

「システム全体が滅亡するより、一人の死のほうがよい・・」。(フランツ暗殺の)仕事は組織犯罪の大物に依頼された(犯罪者たちはこの社会にとって、結局は害が少ないのである。放火魔や泥棒や強盗、いや殺人犯さえも、害を加えることで新たな売り上げに寄与し、そのことで職場の維持や新設に役立っているのだ。それが環境犯罪者たちにも当てはまるのは言うまでもない)。

この世の中にある産業で、われわれ市民の生活には役立っていないものは数多い。その際たるものが軍事産業(貴重な税金を国防の名のもとに殺人兵器購入に浪費されたところでわれわれ市民の生活が良くなるわけではないが、エコノミストにいわせればそうすることで軍事産業に携わる人の職が確保されるという。とんでもない詭弁だ)だが、放火魔や泥棒などが害を加えるからこそ成立する産業(たとえば保険)もあり、そうやっていったん壊されたものを再建する際お金が動いてGNPが増大する。環境犯罪でいえば、たとえば水道水が飲めないものになることでミネラルウォ−タ−の需要が増大するし、東京などでヒ−トアイランド現象が起きるとク−ラ−の需要が増え電化製品産業が潤う。そこまでして商品を売りつけて金回りをよくしなければならないのが、現代の資本主義社会の宿命といえよう。

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世界を変える

世界をよくする、ということについてのアイロニカルな文章である。

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まったくドイツらしい

この文章は、タイトルそのものが反語である。エンデはこの中で、「モモ」について少し述べてから、「わたしたちドイツ人は周知のとおり、文化的アイデンティティの問題をかかえている」と述べ、「バイエルンふうの生活やシュブァ−ベンふうやプロシャふうやライン地方ふうの生き方はあるが−ドイツふうの生き方はあるのか?」と問いかける。ここでエンデは一例を挙げるが、エロス(男女の求愛のしかた)の場合、フランス、スペイン、ロシア、イタリア、「そればかりか−神の奇跡だが!−まったくイギリスらしいエロスさえもある」というのに、ドイツにはそれがないという。だからドイツでは二つの流れ、すなわち無意味なナショナリズム(ナチスやそれを生み出す温床となったプロシア的価値観はその好例であろう)か、同じく無意味な反ナショナリズム(他国の文化を見境なく賞嘆すること。ドイツ人の親米的感情は、ドイツ系移民が多く米国に渡っていることを差し引いても、他のヨ−ロッパ諸国とは大きく違う点として指摘できるだろう)のどちらかしか成り立たない。エンデは「わたしには、他国の文化と比べて、ドイツ文化がまだずいぶん未完成に見える」と語っているが、結局はっきりとしたアイデンティティを築くことなく今日まで来てしまった国民の課題であると言えよう。

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二つの博士号を持つ、大学教授サタンソン氏のドクトリン

因果論が全てであると主張するサタンソン教授が、自己矛盾に陥ってゆく過程を綴った文章である。このドクトリンを見ながら、その過程をたどってみたい(はしょってはいますが)。

第1項:「この世のものは全て、例外なく因果律にのっとっている」

第2項:「原理的にすべてが、特に人間の存在と行動が、因果律により説明されうることは疑問の余地がない。説明しがたく見えるものは、今まだ知識が足りないからに過ぎない」そして人間のすべての行動を条件反射で説明できる、とする。

第3項:「この世界と人間についての矛盾なき説明が全学問の最高にして唯一の目的でなければならない」ここまでは聞いているとふーん、という気になるが、ここで「なぜなら、説明しうるものは、操作できるものだからである」と述べてあることに注目せねばならない。この記述は、つまり説明できることは、すべて操作=実験によって再現できなけれなならない、ということなのである。

第4項:「自由とは、まさに因果律にしばられないものであり、おのずから生まれる根源的なもの、創造的なものとさえ言えるからだ。だが、それはわれわれの理解では存在しえぬものであり、それゆえ、・・人間の自由という概念は馬鹿げたことであり、わざわいのものとして排除すべきだ」自分に理解できないから即その存在を抹殺しようという態度は、「モモ」の灰色の紳士を思い出させる。

第5項:「責任や倫理への問いは全部なくなるが、それはよいことだと言うべきだろう。・・そのような概念はその非理性的な性質ゆえに、いつも秩序を乱す種を蒔くに過ぎなかった」ここで全ての倫理観が「非理性的」として糾弾され、その存在を徹底的に否定される。

第6項:「唯一の矛盾なき真実が独裁することが、どの人間社会にとっても目標でなければならない」こうやって、その「真実」からそれたものを徹底的に排除することが、因果論によって徹頭徹尾支配された世界を築くのに必要不可欠だという。

第7項:「”独裁”という語はなにか不快な気分にさせるかもしれない・・その種の独裁性はこれまで常に、ある単純な事実のまえにいつかは頓挫した。圧力は、・・いつも同じだけ強い反対圧力を生み出す」ここでサタンソン教授は、「かもしれない」などと、非断定的な言い方をしているが、もしすべてが因果論で決まるのであればそういったあいまいな言い方をすること自体が自己矛盾であるといえよう。権力が強圧的な弾圧を行えば行うほどそれに反対する勢力が大きくなるが、「このような愚かな手段を使うことは、原因と結果の原則がすべてに有効だという、自らの知識にさからう行為なのだ」と結論づけ、その処方箋を第8項でサタンソン教授は示してくれる。

第8項:「”幸福な独裁制”・・が維持できるためには、あやつられる大衆が、できるだけ完全にあやつられたいとのぞむようにするのが、その唯一の形である」つまり、うまいこと大衆を洗脳して、大衆が反抗的にならないように方策を打つことが大事だというのである。

第9項:「嘘にすぎない自由だが、そこへ放たれた人間は、むろんどうしてよいかわからず、それを苦痛な重荷と感じ、何としてもできるだけ早く捨てたいと願う。それは有害な幻想、つまり一種の病気にほかならない・・われらが宣言する目標は、この病を最終的かつ再発なきかたちで治癒することだ」つまり人間にとって自由は苦痛だから(そういえば、ある有名なフランスの哲学者が「人間は自由の刑に処せられている」なんていってましたね)、その苦痛を独裁という形で取り除いてあげなければならない、というのである。

第10項:「最終的にめざすものは、・・苦しみをこの世界から全部排除することだ・・苦しみがない、闘争がない人間社会こそがわれらの啓蒙活動の目標である。”幸福な独裁制”がこの目標を実現させる」

第11項:「人を苦しませるのは通常、人間の外的な、つまり客観的な条件ではなく、個人の尊厳や人生の意義や責任といった主観的な、つまり偽りの観念である・・この幻想を根絶やしにすれば、苦しみも消え去る」ここで人間の苦しみが個人の価値観に由来し、それはあくまでも主観的にすぎないという教授の意見があきらかにされる。

第12項:「”幸福な独裁制”はそれに関与する全員にとり、満足と安楽と安全という、つまり人間の実際の欲求が満たされることを意味する。・・この境遇こそ、誰もが欠乏とは感じないものだ。全体の意義を問うことは一般に意義なきこととなるだろうし−事実意義がない」つまり、秩序が明らかになるのだが、そこに落とし穴が待っている。

第13項:「われらの願いは、世界と人類に、われらが考える最終的かつ永遠の秩序を与えることだけなのだ・・われらが支配したいものを、われらがなぜ破壊しなければならないのだろう?」ここでサタンソン教授は自己矛盾に陥る。自分が意義深いと思っていることは世界が”幸福な独裁制”の支配下に入ることだが、なぜそれが”意義深い”のか自分の編み出した因果律では説明できないのである。

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(H)「巡礼者」〜「世界を説明しようとする者への手紙」概説
ここでは、以下の作品を扱う。

お金と成長

デカルト

夢の中の数行

クリスマスの夢

隠れているものの実在

予言

詩人と批評

新俗物主義

一人芝居の男

巡礼者

子どもたちの質問時間

寓話が教えること

見知らぬもの嗜好症

世界を説明しようとする者への手紙


お金と成長

現在の経済と金融システムが、「いつの間にか真正がんが形成されるときの特徴をみんなそなえてしまった。つまり、それは生きつづけるために、常に成長し増殖しなければならないのだ」とエンデは語り、現在の金融システムの問題を明らかにする。「この現代世界には、資本主義ではない経済の、つまり成長と増殖を強制することなく、人びとの需要を満たす経済の実際例が、一つもないことを知らなければならない」と彼は現在の世界が総資本主義化していることを踏まえた上で、「この”すばらしい”成長は無から生じるわけではない。そのためのおそろしい費用は第三世界、すなわち途上国が支払い、地球規模で言えば、ようしゃなく奪われ、破壊される自然が支払うのだ。そして、天然自然でまかないきれなくなると、ますます増えるエネルギー需要は”反自然的”に満たされなくてはならない」と、現在のシステムが常により多くのエネルギー消費を必要としていることを示す。確かに昔は人間が消費していたエネルギーは食物として体内で摂取するエネルギーの他は、調理や暖房のためなどに火をおこすための薪ぐらいだったのだが、特に産業革命以降は石炭や石油、そして現在では原子力まで使ってエネルギーを確保しているが、こうやって永遠にエネルギー消費量を増やしてゆくわけにはいかないことを、エンデは警告している。だが、そんなことを政治家が訴えても、経済成長の減速を嫌う産業界や、それに伴う失業に反対する労働組合からの反対を受けて彼の政策は実際には採用されないだろう。エンデはこの文を結ぶにあたって、このように皮肉を込めた文章を入れている。「まちがった方向へ走る船の上では、正しい方向へ歩いてもそれほど進めない」

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デカルト

この文でエンデは、デカルトの有名な「我思う、ゆえに我あり」(Cogito, ergo sum)に対して、「同語反復」であると食らいつく。それだったら、「我すわる、ゆえに我あり」(Sedeo, ergo sum)でも、「我話す、ゆえに我あり」(Loquor, ergo sum)でも、あるいは、単に「我ある、ゆえに我あり」(Sum, ergo sum)でもいいことになってしまう、というのである。

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夢の中の数行

夢の中で見た光景を簡潔に綴った一文である。

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クリスマスの夢

夢の中でイエスキリストの生誕に立ち会うことになった「わたし」の、不思議な体験談である。

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隠れているものの実在

ここでエンデは、植物にとっての実在とはなにかをわれわれに問いかける。タンポポの「ギザギザがある葉」「黄色い花」「綿ぼうし」「種をつけた小さな落下傘」などとタンポポの見せるさまざまな姿について言及したあとで、「このたくさんの外観の、なにがタンポポなのだろう?」と問いかけ、その答えをこのように記している。「そのタンポポとよばれる実在は、時を超えた全体として、これら数多い外観のうしろにある。五感はそれを知覚できない」

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予言

数学た統計学の教授であるムスカート氏が、ある日殺人課の警部のところに出頭し、自分が妻の殺害を企てたと告白する。彼によると、日ごろ妻の尻に敷かれていた彼は、ある日を境にして占星術にのめり込み、そこで自分の妻の天宮図を調べたところ、53歳の誕生日から3週間後に「機械技術による大惨事の関連で水死すること」を知り、妻に一人で旅行することを勧め、占い通り妻は船の沈没事故で死んでしまう。だからこそ自分にあの事故の責任があるのだと主張してやまない教授に警部は困り果て、しかたなく「ほとんど強制的に」その場から連れ出すが、それからしばらくしてこの教授が睡眠薬自殺を図ったことが明らかになる。

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詩人と批評

トーマス・マンとホーフマンスタールが批評の有益さについて語ったとき、トーマス・マンは長々しく講釈を垂れるが、それに対するホーフマンスタールの答えはただ一つ、「わしは、ほめられたいだけじゃ」であった、という逸話である。

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新俗物主義

現代の芸術に対する、エンデの鋭い批判である。「もし俗物性が、形骸化した慣例に不安そうにしがみつくことを意味するなら、現代ほど俗物的な時代はほかにあまり見あたらないのではないか。それも現代があまりに”モダン”なふりをしているからこそだ」

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一人芝居の男

売れない一人芝居の男が、芸人の国際大会のためにX市にやって来た。そこで泊った安宿で、彼は隣の部屋で男女がいろいろ言い合い、そのあとで激しく愛し合う様子を耳にする。翌朝どんなカップルが泊っていたのか見てみると、実はこの二人はカップルではなく腹話術師とその人形であったことがわかる。

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巡礼者

この世という砂漠を一人進んでゆく巡礼者のことを描いた短い叙事詩である。

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子どもたちの質問時間

「モモ」を読んだ子どもたちが投げかける質問に、エンデが答えるという内容の文章である。「モモ」の主題が「時間を節約するためにいろいろなものが発明されているのに・・人は昔よりも時間がない」ことを警告することだったり、「文章に書くことよりも、もっとたくさんのことを想像しなければならない」と作家がものを書くときの態度について述べたりしてある中で、エンデが一番答えるのにてこずったのは「どうしてファンタジーのおはなししか書かないのですか?」と聞かれたときである。「この質問に答えるには、ぶあつい本一冊分ぐらい、たくさん説明しなければならない」と前置きした上で、その理由の一部を述べる。まず「「現実」という言葉は本来なにを意味しているのだろう」と、逆に現実が何かを問いかけた上で、「感情や願いや考えなど」「見たり触れたりできないけれど、それでもたしかに現実に存在する」ものがあることを子どもたちに思い起こさせ、「このような現実を言葉で描こうとすれば、”絵”を通じてするほかに方法がない」と、ファンタジー文学以外の方法ではエンデの主題を取り扱えないことを子どもたちに分かりやすい言葉で説いている。

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寓話が教えること

毒蛇を人間世界における悪の象徴として見るとき、これに対抗できる三つの動物を人間の属性としてみてみよう、ということで、以下それぞれに考察が行われる。

1:マングース=エスプリ 悪の行動を見抜き、それを見事にかわしながらその弱点を鋭く突く。

2:鶏=間抜け あまりにも間抜けなやつにはこの毒も通用しない。その最たる例が孔雀である。

3:ハリネズミ=ボヘミアン 相手がどう振る舞おうが一切無頓着で、自分の生きたいように生きる。

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見知らぬもの嗜好症

「”寛大”(tolerance)という語が近頃もてはやされているが、わたしはあまり好まない。なにか上から見下ろす感があるからだ」と、エンデはこの言葉を使う人間の態度が気に入らないことをここで明らかにする。彼いわく、「ラテン語の”トレラーレ”といえば「我慢する、黙認する」などの意味」であり、toleranceとはすなわち「自分と異なるものの異なるさまを、不平を言わずに、あるいは攻撃的にならずに我慢する、しかたないから妥協する」態度だという。しかし彼にとってはそれこそが好ましいのであり、その最たる例として女性のことを引き合いにだし、こう語る。「女性に魅力を感じるのも、女性がわたしと同じだからではなく、わたしとは異なっているからだ。この異なるものをわたしは「”我慢”しようとは思わない。それを知りたいと思う-それをすべて理解するときがついに来ないことを知っていても、いや、それを知っているからこそ」。

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世界を説明しようとする者への手紙

G君への返信という形式で描かれたこの手紙は、「はてしない物語」で出てくる、「汝の欲することをなせ」ということばが怪しいオカルト実践者の著書にもあるという指摘に対し、あくまでもこの言葉はその実践者のものではなく、アウグスティヌスの「神を愛せ-そして、汝の欲することをなせ」という発言に由来するものであることをエンデは明らかにした上で、哲学が説明的であるのに対し「芸術人間の課題は経験を表現することだ」と述べ、芸術家の仕事を「形象理念」「感性で知覚できる形式で適切に具体化」することだと定義する。だがそれは芸術の耽美的世界にふけること(”芸術のための芸術”)ではなく、それについてエンデは「さまざまな世界を表現しようとするなら、なんらかの世界観、なんらかの哲学か宗教を持たないわけにはゆかない・・しかし、芸術家や詩人はそのような認識理念を目標とはみなさず、その材料の一部とみるのだ。芸術家や詩人にとってそれは必要だ。ちょうど金細工師が宝石をたくわえておくように。その宝石を金細工師は宝飾品にはめ込む。しかし、その宝飾品は宝石のためにあるのではない」と説明する。彼はさらに芸術の特性について、ピカソの「芸術が真実とまるで関係ないことはみんな知っている。芸術は嘘、わたしたちに真実を見せてくれる−かもしれない−嘘なのです」という言葉を引用するが、芸術を扱う際にわれわれがこの芸術の性格を忘れるべきではない、とエンデは諭したかったのだろう。

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