アインシュタイン・ロマン6
「エンデの文明砂漠」
(NHK出版、1991年)

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この本について
文明砂漠(第2章)
時間の戦争がはじまっている(第1章)
心の中に砂漠がある(第3章)
科学という現代神話(第4章)
アインシュタインを考える(第5章)
価値を入れた科学の創造(第6章)
新しい意識が必要だ(第8章)・
友人としての日本人へのお願い(終章)



この本について

この本(アインシュタイン・ロマン6「エンデの文明砂漠」、ISBN: 4140087730)は、タイトルが示すとおり「アインシュタイン・ロマン」というNHKスペシャルの番組の一環として制作されたものであり、それが後にNHK出版から単行本という形で出版されている。このシリーズはこの本を含めて全6巻で構成されており、1〜5巻までではアインシュタインの生涯や彼の生み出した科学理論が扱われているが、「アインシュタインに代表される近代科学技術が必ずしも現代人を幸福にしているわけではない以上、それに代わる新たな方策を探し出さなければならない」ということでNHKの取材チームがエンデに目をつけ、彼にインタビューを申し込んだ。エンデはこの番組に向けて「文明砂漠」というエッセイを書くが、このエッセイの概略を伝えることからこの本の内容紹介を始めたい。

なお、この本は絶版になっている模様で、本屋の店頭で買うことは現在不可能であると思われます。ですが、多くの市民図書館でこの本を閲覧することは可能なので、ぜひお近くの図書館で読んでください。

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「文明砂漠」(第2章)

エッセイは、ある「中央ヨーロッパにある特別居住区」出身の男の独白で始まる。彼の特別居住区はその居住区外の人(=文明砂漠民)からは「児童文学」と呼ばれており、その文明砂漠民は東西南北に鎮座する四人の聖人、すなわちマルクス、フロイト、アインシュタイン、そしてダーウィンを崇拝している。たまに文明砂漠民は居住区から生み出される文学に興味を示すことがあるが、基本的にはそんな世界に対しては無関心を貫いている。

彼は文明砂漠民の「理性」というものを、はなから信用していない。「文明砂漠で合理性や科学的啓蒙とよばれるものは、理性や誠実が健全な人間から要求するのとちょうど反対のものを生み出したように思われる」と評し、「そこに見るのは、彼らの認識作業が頂点にあるとき、この世界の全生命を一度どころか数度殺せるような爆弾を作ったことだ」と例を挙げる。さらに「彼らの合理性が生み出したものが彼らに不安心を起こさないとしたら、どうして彼らはわれわれの非合理性(児童文学や幻想文学の「非現実性」)をあれほど恐れるのだろう? だが、彼らはその合理性を恐れていない。それを誇りにさえ思っている」というが、これこそがこの典型的な例である。合理的思考が科学の急速な発達を促したのはいうまでもないが、その科学が人類全体を全滅できるような殺人兵器を開発しているわけで、合理的な思考そのものがそれほど合理的ではないことがわかるだろう。「文明砂漠の宣教師は、・・それは単に正しい認識の間違った応用にすぎないというのだ。・・いったい彼らはいつになればわかるのだろう、重要なのは認識の違ったた応用ではなく、違う形の認識を目指すことなのだ」と彼は文明砂漠民に対して呼びかけるが、結局科学技術のための科学技術がわれわれの生活から人間性を奪っている現状を認識すべきだという主張がここでなされている。

ここで男は、「児童文学」というジャンルが成立した背景について説明を始める。彼は「今日児童文学と呼ばれるものは十九世紀初頭に端を発する。それ以前にはメルヘン(お伽話)があったが、それは決して「子供のためだけ」のものではなかった」と語りはじめ、それ以前はそれらお伽話はもっと意義深いものであり、大人も子供もそれらの物語の世界の中に住んでいた。だが「近代主知主義がヨーロッパ古来の精神性をありとあらゆる分野で排斥しはじめ」、・・・「近代主知主義は当時まだ残っていた擬人観的な、つまり人間と同質視する世界観を炎の情熱でもって最後の最後まで駆逐してしま」い、19世紀には「世界の姿は文字どおり非人間的なものになった」わけだが、ここで人間が持つ世界観はあまりにも虚無的なものでしかない。つまり、森羅万象は「関係もなければ意味もない機械装置」でしかなく、太陽系も銀河星雲にある無意味な塵でしかなく、そんな中では「人間の全歴史は、その文化や宗教や争いや悩みを含めて、巨大だが無意味なプロセスの数知れない回数における、・・・間奏曲以外の何物でもない」。だが、そんな宣教師でさえ「このような観念世界では子供たちは生きてゆけない、息ができない、成長できないということをなんとなく感じている」のであり、この子供たちの魂が窒息死することなく成長できるようにこれら「児童文学」の存在を許しているわけで、逆に言えばそれだけ現在の文明砂漠は荒涼としているのである。

そして彼は現代文明の「合理性」が現在抱いている計画について語りはじめる。「自由と尊厳は・・未開で非科学的な迷信にすぎない」。だから、「文明砂漠で育ち、そのような「真実」の中でいきようとする若者たちが、罪の意識もなく爆弾を仕かけたり、ピストルを乱射したりすることがあっても、われわれ特別居住地の住民は別に驚かない」とまで言っているが、結局純粋に唯物論的な思考からはどうやっても自由や尊厳などといったヒューマニズム的な思考は生まれない。さらに文明砂漠民にとっては自然が弱肉強食である以上、人間社会も当然弱肉強食的であるべきで、それなら「強制収容所での、いわゆる「生きる値打ちのない生命」(老人や障害者、それに「自分たちの子孫を残そうとしない」同性愛者など:編者注)を使った生体実験がいったいどうしていけないのか・・人口過剰問題では、「クリーンな」原子爆弾を二、三発投下することで解決してはなぜいけないのか、とわれわれは問いたい」と、特別居住地民はわれわれに語りかける。もちろんそう言われて「そりゃいいアイデアだ」と反応する人はいないものと思うが、私たちが現在その生活を委ねつつある唯物論的(つまりモラルのかけらもない)な観点から見れば、人口過剰は「教育のない貧民が住みついているスラム街」に対する原爆投下や彼らに対する強制収容、あるいは一定の年齢に達した人間を無条件に殺害することで解決すればいいことになってしまう。だがここまで唯物論を徹底させると、さしもの文明砂漠民からも「そのようなことは、いかなる倫理にも、いかなる道徳にも、いかなるヒューマニズムにも反することだ」と反論が来るものの、その根拠はと問い詰めるとさしもの唯物論者も確固とした論拠を挙げることができないのである。

ここで特別居住地民が鋭い分析を下す。「文明砂漠民はこの世界を「主観的」と「客観的」世界の二つに引き裂いてしまった。そうすることでまったくの虚構に陥ったことを彼らは気づかない」。だが、この「主観的」と「客観的」との違いについてはエンデ自身が「オリーブの森で語り合う」の中でもっと詳しく語っているので、そこで触れることにしたい。

そして最後に、特別居住地民は現状を改善するための提案をする。「まったく違う形の科学や学問が必要なのだとわれわれは信じている。文明砂漠を再び肥沃にする科学、われわれの特別居住区などというものを無用にする科学・・主知主義を「非合理性」ではなく、それを終わりまで考え尽くすことで克服し、さらには現実性に満ちた、つまり体験し得る思考を通じて、人間の経験の領域へと取り戻す科学である」というのだ。つまり、今までのように科学技術(=「主知主義」)から全ての人間の生活を考えるのではなく、その主知主義の問題点を認識した上で、あくまでも人間中心の世界観(=「主観的世界」)に戻り、そこからそれに適応する科学技術や社会システムを構築するというものである。

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時間の戦争がはじまっている(第1章)

この本では、実際には上述のエッセイの前にエンデとの最初のインタビューの模様が収録されている。そこでエンデは「私はもう第三次世界大戦ははじまっていると思う・・ただ私たちがそれに気づかないだけ」と語り、これは従来の戦争のように領土を対象としたものではなく、時間の戦争、つまりわれわれの子孫を破滅させる戦争だと語っている。童話作家としてエンデをとらえている人にとってはこのことばはあまりにも暗く重く響くことだろうが、数多くの童話を書きながらもあくまでも現実から逃避することのなかったエンデは、見たままの現状をそう描写すべきだと判断したのである。科学技術の発達の影で多くの問題(特に環境問題)が起こり、未だ一般にはこの問題さえも科学技術の更なる発展でどうにかなるという認識があるが、彼はそれよりも問題は根本的な、つまり構造的なものだと主張している。

この問題が純粋に環境だけの問題だったら、はっきり言って図式は単純なものである。環境保護にもっと力を注げばいいからである。だが現実にはそれを阻む要因が数多く存在する。「環境問題専門家は消費を減少するように、そして生活上の要求や安楽さにおいてもっと質素にならなくてはいけないと繰り返し主張しています。もちろん、それは正しいことです」とエンデはいうが、同時に「しかし、その専門家は現代の経済システムが、常に消費が増加することを前提にしていて、実際に消費が増加する限りにおいて機能するものであることを考慮していません」といい、以下に具体例を挙げる。「もし仮に、皆が消費量を半減したとしましょう。この場合の皆とは工業化社会の市民を表しています。仮に二人に一人しか自動車を買わなくなったらドイツの例で言えば、すぐに七百万人近くの失業者が街にあふれる結果となるのです。それは、国家も失業保険で救済できない規模です。日本でも同様でしょう・・とどのつまり、私たちは社会的破局と環境問題的破局、この二つから一つを選ばざるを得ないのです」といい、現在の経済が構造的に抱える問題について触れる。

東インド会社ができて以来、世界経済は資本主義体制下のもとで途方もなく成長してきたが、「私たちは、現実の経済および工業生産が、常に成長し続けるように強制することがないお金のシステムを得なければなりません」(現在の利子をとることで経営が成り立っている金融システムをさしている)といい、経済成長率についていつも一喜一憂し、「現状の経済が、つねに成長し続けること、しかも毎年最低3〜4%の成長率があってこそのみ存在し得るものであるということは、私にはほとんど信じがたいことです」と経済について語る。これについては「オリーブ」や「エンデと語る」など他のところでも触れられているので、ここではあえて詳述しないが、経済について「私は、今のお金のシステムに、人体の癌に似たものがあるような気がするのです。つまり成長の強制です」と述べ、やがては現在の金融システムという癌が世界経済という肉体を死に至らしめるのではないかと不安がっている。ここから人間が生きてゆくために必要不可欠なファンタジーについて語られるが、それについてはむしろ「オリーブの森で語り合う」の冒頭で詳しく語られているので、そこを参照していただきたい。

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心の中に砂漠がある(第3章)

"文明砂漠"という表現をきくとわれわれは先端の科学技術が作り出した無機質で殺風景な社会を想像しがちだが、エンデは「人々は、本当はますます貧しくなる一方であって、内なるものは空になり、最後には自分たちの内なる世界の荒廃(砂漠化)を進めていることにまるで気づいていません」といい、実はこの文明砂漠とは心の中にあるものである、と示し、「私の努力、作家としての全努力は、この内世界の破壊に対して抵抗することにあります」と自己の使命を定義する。彼は文明砂漠で現在進行中の事態を「価値の破壊」と呼び、これに対して大きな不安を抱いているからこそ数多くの作品でそういった価値の復権を成し遂げようとしたのである。「モモ」で灰色の紳士がフージーのそれまでの全ての時間を一緒くたにして「無駄」と言い放ち、それまで彼が自分の中で持っていた価値観を破砕してしまったシーンなどは、現在の”文明砂漠"の端的な描写であるといえよう。

そしてエンデは、これら価値の破壊の原因を19世紀にはじまった「唯物論や主知主義」だとしている。「つまりこの世界はエネルギーと物質からできていて、人間も根本的には同じなのである。魂のようなものは存在せず、自由、尊厳、美、ユーモアなどの概念は全て幻想にすぎない。そのような考え方から、人間を必然的に解体する何かが始まった」と言っているが、唯物論という認識形態のもとで世界の森羅万象をとらえたために、唯物論的には把握することのできない価値全てが否定され、そのような価値(美的価値、道徳的価値、宗教的価値など)で成立していた私たちの内的世界(英語でいうmind、ラテン語でいうmens)が荒廃してしまっている現状を彼は告発しているのである。

そしてそのような「文明砂漠化」と児童文学というジャンルの成立という、19世紀にはじまった一見何のつながりもない二つの現象は、実際は同一の事項の表裏の関係にあるとエンデはいう。「19世紀以前にはジャンルとしての児童文学はありませんでした。・・ガリバー旅行記、ロビンソン・クルーソー、千夜一夜物語、子供のために書かれた本は一冊もありません」という。ガリバー旅行記といえば現在は巨人国や小人国など「現実にはありえない」国でガリバーが滑稽な生活を送った話としてしか認識されていないが、著者であるスウィフトはこのような架空の国を舞台として他ならぬ当時のイギリス社会を揶揄したのであり、現在児童文学の中に入っている「ガリバー旅行記」はその中でも比較的子供にわかりやすい部分のみを抽出したものでしかない。ドン・キホーテも現在でこそ「風車を巨人と思い込んでそれに向かって突撃していった狂気の老人とそれに従ったサンチョ・パンサの物語」としてしか一般には認識されていないが、セルバンテスはこの作品に当時のスペイン社会に対する痛烈な批判を込めたことは同書を読まれた方ならお分かりであろう。それはともかく、ここで重要なのは、エンデが児童文学が成立した時期の状況について、「世界が、世界の観念があまりに荒涼として救いようがないものになったので、それでは子供たちにはあんまりだと人が感じはじめたころです」と語っていることである。それ以降児童文学はどんどん現実逃避的になっているが、それは裏を返せば現実主義的な物語はあまりにも児童に対しては酷であり、「このような世界観では、子供の心はきっと飢え、渇くに違いない。凍え死んでしまうだろう、と人はおぼろげにも感じた」からなのである。

ここでエンデは、このような自然科学的方法が人文系の分野にも適応されていることに対して疑問を投げかける。エンデはそのような態度を「大ジレンマ」と一蹴し、「これらの学問は、一方では自然科学的方法を適応しようとするわけですが、しかしその領域は自然科学的方法論とはまったく無縁なのです」と、人文科学なるものの自己矛盾を指摘する。美術や音楽、文学で問題となるのは「質」であるが、これこそ科学的アプローチでは把握できないものであるからであり、「それをとらえるためには、個々の学者が、自分自身の体験を持ち込まなくてはならないわけですが、正にそのことが禁じられているのです」という。「評価することが許されてはいない学者」は結局自分自身が抱いている「質」を表明することができず、分類屋になることでしか自分の存在価値を認めさせることができなくなるわけだが、結局そんなことをしたところで自分が研究の対象としている美術や音楽、それに文学作品の輪郭を描くことはできても、その核心にまで迫ることはできないのである。

そんなエンデは、とにかく知識を詰め込むことだけに力点を注ぎ、それらの知識を反芻させる暇を与えない学校教育を、自らの体験談を通して批判する。学校で稲妻の発生の授業があったとき、空気の乾燥が稲妻の発生には必要だということを証明するために先生はあれこれ実験を重ねたが、「でも稲妻は乾燥した天気にはあまり起こらず、雲の間で起こるし、普通は雨が降っているときに起こるんじゃないですか」というエンデの質問を「それについては君より利口な人たちが頭を悩ましたのだから、君はそれを信じればいいのだ」という同情心もない冷たいことばで却下したという。確かに実際にどのようにして稲妻が起こるかを小学生に説明するのは困難なことかもしれないが、このような疑問こそが科学的探求心の第一歩である以上、あくまでも子供の疑問をそのまま受け止め、それに対して真摯な態度で答える(またはわからないならばそう白状して、子供と一緒になって調べること)ことこそが必要なのではないだろうか。

そしてエンデはゲーテの自然科学観を引用する。まず「この明るい日中、謎に満ちて、自然はそのベールを剥がされまいとする。自然がおまえに打ち明けたくないことを、ネジやネジ巻きで奪ってはならない」と語り、自然の支配者として自然と接したりするべきではないことを述べ、さらに「自然が与える答えはその問われ方そのものである」という一節から、「私たちが自然を力ずくで問いたてたとしたら、自然も暴力的な答えをわれわれに与える」と、現在の人類が自然に対して犯している罪を告発する。だが、それよりも重要なこととして、「今日の自然科学とゲーテの言う自然科学との違いは、実はゲーテが自然の中に作用している精神的な力を理解しようとしていたことにある」という。唯物論的観点に立てば、この宇宙空間の中でわれわれ人類が生命を授かり、このような文明生活を構築できているのはあくまでも偶然の成せる業でしかないが、エンデはわれわれ人類がこのような生活を享受できている陰には、自然の何らかの意図、それこそ「神の見えざる手」が大いに関係していると考えており、その自然の意図を汲み取ることが重要であると主張しているのである。エンデはこの章を「自然の中にある、精神的認識を目指す自然学は、原子爆弾をもたらさない。現代社会でわれわれがもつ、さまざまな化学工業をもたらしません。そのような自然学は、英知と人間のさらなる発展、高次の発展をもたらします。しかし、残念ながらそのような自然学は、現代の社会では経済的にも政治的にも無意味なのです」ということばで締めくくるが、われわれが今までのような技術偏重の社会ではなく、もっと自然と調和した(いいかえれば、自然の方に科学技術を合わせた)生活を送る必要があるのではないだろうか。

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科学という現代神話(第4章)

ここで文明砂漠の宣教師が崇拝する「四人の聖人」についての話になるが、エンデは彼らを「物質主義(マテリアリズム)的思考の主要代表者」と定義し、「物質主義や唯物論自身がその思想全体に、死の萌芽を持っている」という。たとえば「ダーウィンの考えの延長から、・・レーシズム、すなわち人種主義、人種差別が生まれた」のであり、そこまでたどり着けば「生きるに値しない生命の撲滅、強制収容所までは、ほんの一歩」であるとまで力説するが、ダーウィンの進化論、そして「弱肉強食説」は実際にヨーロッパにおいて人種優劣論を生み、それを応用したヒトラーが「アーリア人種の優秀性」を提唱してあのようなホロコーストを起こしたわけだが、このような考え方は昔ほど顕著ではなくなったとはいえ世界のあちこちで未だに支配的である。次にマルクシズムについての話になるが、「元来人間を解放する教えとして考えられた」マルクスの理論が、唯物論的思考に拘泥したがために「人間を奴隷化する国家形態」を生み出してしまい、フロイトについてはここでエンデは語ってはいないものの、やはり因果論のみで人間の心理を把握し、それぞれの人間の自発的精神を考慮しなかったがために人間からそれぞれの個人の自発的生を因果論という呪縛によって奪ってしまったのである。最後に残ったアインシュタインの物理学についても、「その物理学が人間を世界からなくすように思考するものだからで、人間をなくすように思考しはじめると、その帰結は人間を文字どおり排除する」と語り、人間の介入の余地がない物理学が非人間的な武器を生む温床となったというのである。

ところで、このような科学は「計測、計量できるものだけを現実として認める」ことで成り立っているのだが、これは裏を返せば「自然科学的思考は、質に属するものはすべて排除してい」るわけであり、そのことで自然科学が「救いようのない矛盾に陥った」といい、その理由として「価値観を持たない思考など全く存在しない」としている。することで成り立っている。エンデはここで科学者自身が研究を行う際に持っているモラル的原則、すなわち「真実を目指す努力」を例に挙げ、「その科学者が、この「真実への努力」をも主観的とするならば、彼の自然科学をもはや遂行できない」としている。もし科学者自身がただの物質と電気プロセスでしかないのであれば、そんな物質がどうして生存のためには全く必要のない「真実への努力」を、これだけの労力を注ぎ込んでまで行うのか全く説明できないのである。エンデはこのような矛盾の由来をニュートンのことばに求める。「宗教に科学の真理をもち込んではならない。さもないと宗教は異端になる。また逆に、科学に宗教の真理をもち込んではいけない。さもないと科学は空想的になる」ということばをニュートンは残しているが、これによって科学(自然現象に関する人間の信念)と宗教(人生観に関する人間の信念)とが乖離を始め、昔は宗教が占有していた神聖な領域までもが科学によって奪われつつあるのが現在われわれの置かれている状況であるといえよう。

だが、今まで分離されていた主観(価値や感覚の世界)と客観(人間がたとえ一人たりとて存在しなかったとしても存在する世界)を再統合するためには、「新しい真実の基準を作り出すことなしにはできない」とエンデは語る。「真実は、人間から切り離されるものではなく、真実は個々の人間の発展の高さにも依存するものになり・・・今までとはまったく違った真実の概念、本当はわれわれが、古くからもっていた真実の概念に達する」というのだが、これは今までわれわれが科学や真実というものに対して持っていた概念と根本的に矛盾する。われわれの通念では科学というものはその理論を"再構築"する人間の存在のあるなしにかかわらず超然的かつ不変のものとして存在するものであるが、少なくてもエンデにとっては第3章で取り上げられたゲーテのことばが示すようにその「真理」そのものが人間のアプローチの方法によってさまざまなものになり得るのであり、だからこそひとりひとりの真理に対する姿勢が大切なのだといっているのだ。エンデは今までの唯物論一辺倒の科学は、「本当にそれをその最終的帰結まで考え尽くすことによってのみ克服できる」としており、「唯物論はその思考プロセスの途中で立ち止まっている世界観」だからこそ今のところその矛盾に気づかないでいると語っている。その例として大脳生理学者の例が挙げられているが、もし人間の心理や思考などが電気科学的なプロセスの総和にほかならないのなら、そういう大脳生理学者自身の意識も電気科学的プロセス以外のなにものでもないということになるわけだが、そうだとすると電気科学的プロセスがどうして自己認識可能なのか(少なくてもコンピュータにとってそれは不可能なことである)という問題が出てくるのであり、この問題を解決するためには唯物論を超越する以外に方法はない。そのことを認識すべきだ、というのがエンデの主張である。

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アインシュタインを考える(第5章)

エンデはここで、科学と宗教が対立した16世紀について新しい視点から考察を加える。これは中世と近代思想の衝突ではなく、むしろ「二つの全体主義的システム、つまり教会の持つ古い政治権力システムと、自然科学の新しいそれとの間の闘争」であるというのだ。そして全体主義的システムの特徴として、「世界や生の矛盾性に耐えられないことで、そのためそれを除去したがる」ことがあげられ、「自然科学の「現実を矛盾なく記述する」という要請は正に一つの全体主義的システムの範疇」であり、「別の考えをする人間が唱える意義をつねに恐れて」おり、彼らを「異端者として迫害せざるを得ない」のだと説明している。この意味ではファシズムも共産主義も、教会も自然科学も同じ穴のむじなであり、そんな伝統的な思考方法を受け継いだのがアインシュタインだったのだ、そんな彼自身観察結果とは直接因果関係のない理論を打ち立てており、それらが「直感的」あるいは「非論理的」であると認識してはいたのだが、それが何であるかについては彼自身定義できないことこそがポイントだとエンデはいい、それこそが「アインシュタインが越えようとしなかった境界線」だという。エンデ自身は因果論そのものを否定してはいないが、この因果論だけですべてを説明しようとする態度を拒否し、「因果率の環境を突き破り、自らの中から新しいはじまりをなす」という人間の能力に注目し、これを「世界の未来そのものかもしれない」という。すなわち、人間の中には因果律にとらわれることなく自らの精神をもって新しい何かを創造するという能力が備わっており、それこそが呪縛的な自然科学を乗り越え、新たな世界を築き上げる原動力になると考えているのである。

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価値を入れた科学の創造(第6章)

このような現状を認識した上でエンデは、「研究自身の中に既に人間の責任感が含まれていなければならない」という。普通は「自然研究というものは本来客観的なものだけを対象とし、人間の責任はどこかに完全に分離していて、研究に続くものとしてあとから続くものと考えられて」いるが、「そうではなく自然を考える形の中に、既に死の芽か、あるいは自然とともに生きていくという可能性を含んでいる」とエンデは語っており、現在の科学技術は極度に「経済的関心」「軍事目的のために」資金が出され進められてきたことを指摘する。確かにそれらの技術の中にはのちに一般市民の生活に応用されたものもある(このページを公開するにあたって私が利用しているインターネットという情報網もまさにその好例である)が、基本的には現在の科学技術は経済あるいは軍事のために主に奉仕してきたことは疑いない事実であり、そうではなくわれわれ自身の内面世界を充足させる手段として科学技術を研究すべきだということなのである。

(第7章「エンデの生きた20世紀」は自伝的内容が大半を占めるので、割愛しました)

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新しい意識が必要だ(第8章)・
友人としての日本人へのお願い(終章)

そして最後に、エンデは「世界と人間の意識は同一」であるといい、「私たちが知覚する現象は、すでにそれについての考えを内包して」おり、「私たちは現象に符合する想念を頭の中にすでにもっているからこそ、その現象を知覚できる」と語っている。例を挙げていうなら、数年前に流行した「ガイア理論」(地球そのものが生命体である、という理論)は、そのような考えを生むに足りるだけの漠然とした概念を頭の中で抱いている現代人の潜在意識、さらにはそんな現代人が生活している現代という時代や世界から生まれたものであり、そういう意識で地球をとらえると生命体であることが確認できるということなのである。

エンデはこの本での対談を締めくくるにあたって、「友人としての日本人」に特別のメッセージを残している。日本文化は西洋化しつつもその伝統を守れるのではないかという質問に対し、それは楽観的すぎると答え、日本文化が現在師として仰いでいる工業化社会が「究極的に唯物論的思考」であるからとしている。最後にここで現在の経済システムについての言及がされているが、これについては「オリーブの森で話し合う」の冒頭で詳しく触れられているので、そこを参照していただきたい。

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