「三つの鏡」

(朝日新聞社、1989年)

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この本について
(1)井上ひさしとの対談:子孫にしかける戦争
(2)安野光雅との対談:黒い紙の上に描く画家
(3)河合隼雄との対談:「普遍的な父」との闘い


この本について

この本は、エンデが1989年3月に来日した際に、井上ひさし、安野光雅、そして河合隼雄という3人の日本人と行なった対談の記録である。実際にはこれらの対談は「朝日ジャーナル」4月14, 21, 28日の各号に掲載されたものであるが、この単行本の内容はそれらをほぼ完全な形で(もちろん通訳が間に入ってはいるものの)再現したものである。

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(1)井上ひさしとの対談:子孫にしかける戦争

 対談はまず、井上がエドガーの絵を、「荒涼としていて、絶望のちょっと手前、非常に寂しい感じです」と評したところからはじまる。エンデはその言葉に対し、「それは宇宙的な孤独、寂しさです」と答え、エドガーが描こうとしていた精神世界=超感覚的世界の光景が、われわれこの世の人間にとっては驚愕せざるを得ないような世界に見えるものであり、別にその世界そのものが荒涼としているわけではないとコメントし、行脚の禅僧の例を出し、「どこにも故郷がない状態」について「人間は、自我を持った存在になったことによって、非常に重要なことを獲得しました。つまり、自己自身の決定を自分で行なう可能性です。しかし、同時にそれは、決定的に大きな孤独のなかに身を置くということにもなります。つまり、どんな他者も私自身の自我と同一になることができないのです」と語り、それこそが「父の絵に描かれている状況」であると説明するが、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉を持ち出すまでもなく、基本的には孤独である現代人が抱えている状況についてのエンデの基本的な認識は実存主義のそれと変わらないことが窺え知れよう。

 その話のあと、井上が新興宗教に傾倒しがちな当時の若者(オウム真理教が社会問題化したのがこの頃だったことを思い出してほしい)のことを話題にし、「今の若い人たちは−実は僕らもそうですが−現実の世界だけでは嘘だと感じていて、ずいぶん超自然的なものに対して興味をもっている」と語り、それに対し「実はヨーロッパでもかなり似ています・・若い人たちは実在する精神世界とのリアルな結びつきを求めています」とエンデは答えるが、これはますます唯物論的思考法が社会の趨勢を占めている現代に対するアンチテーゼであるといえよう。エンデはさらにヨーロッパ人の思考の中に強く根付いている矛盾、すなわち「信じることと知ることは別のことだ」というものがあると述べ、その点について触れるが、これについては「アインシュタイン・ロマン6」の中でもっと詳しく述べてあるので、そちらのほうを参照していただきたい。

 それからエンデの最大の関心事である金融制度の話になるのだが、エンデは自然保護運動でさえ社会を駄目にしてしまう現状について、まずこう語る。「海の汚染の番組を見たんですが、・・制作者が出すまとめの言葉は、さて科学工場はこういう毒の汚染物を海に流すことを慎みましょう、という結論で・・おしまいにします。それ以上、思考を発展させることは中止します。だって、毒になる郊外物質を出さないように止めるとすると、それは生産された製品の値段を高くするという方向に、しっぺがえしが来るではありませんか。すると製品は高くなりすぎるあまりに市場での競争力を失います。その結果、明日には何百万人もの失業者が巷にあふれることになるでしょう。というわけで、犯罪的なことがら(環境汚染対策をきちんとやらずに低価格の製品を市場に提供する企業)を行ないつづける国民なり、それぞれの企業なりは、かえって得をすることになります。つまり、公害を止めようとする企業のほうがマイナスの報いを受け、そんなことを考えない企業体のほうが得をしてしまう結果になります。ですから、ヨーロッパの経済強国やアメリカや日本などは少しでも多くの品物が消費される方向へと行かざるをえない」エンデの語っていることは「経済のグローバル化」が確実に進行している現在、国境を超えて実際に起こっていることであり、製造業の企業は工場を環境基準の厳しい国から緩い国へと移転させているが、それは「環境対策費」という「生産活動には直接関係のない無駄なコスト」をできるだけ抑えようという動きであり(もちろん実際には人件費が安いことなども大いに作用しており、環境対策費だけが唯一の要因ではないが)、現在の市場経済の原理が変わらない限りこの流れを食い止めることは不可能に近い。

 だが、問題はもっと根本的なものである現実を、エンデは「この悪循環の中では二つに一つを選ぶしかない。世界を破滅させることではあるけれども今のままの方向で進みつづけるか、それても大量の失業者と経済破局を覚悟するか。私が見ている唯一の克服の道は、本当に理性的な洞察によって、お金の制度自体がその内部ですっかり変わらなければならないことに、経済界の人たち自身が気づくことです」と叙述し、人間の消費欲求に応えるためではなく、利子を獲得するために現在の資本主義経済ではすべての経済活動が運営されていることを語り、その金融制度の改革案の一例として、「第二のお金」(利子をとることを禁止するお金)を世界恐慌時に取り入れたオーストリアのヴェーゲル(Woergl、ドイツ語を知らない人のために補足説明をするとoe=oウムラウト、チロル地方にある小都市)という町の話をする。「それ(第二のお金導入)以前には、地域の住民の半分が失業者でした。また町の金庫は空でした。第二のお金を取り入れて、公的なオーストリア通貨と並べて使わせだしたところ、奇跡のように聞こえるかも知れませんが、一年後には全員が職を得て、町の金庫が豊かになり、正規の通貨(オーストリア・シリングのこと)はなくなっていました。オーストリア政府はそのことを耳にしたときに、この第二の通貨のシステムをただちに禁止しました。つまり、大抵の資本家たちはそんな考えが世間に広まるのを妨げる方向に強く動いたんです」ここで明らかになった点として、資本家は現在の形式で経済が果てしなく成長してゆくことを強く望んでおり、いいかえれば資本主義経済の永続成長を信じて疑わず、利息を取らない経済が成立してしまうと今までの利息搾取経済が成り立たなくなってしまうためにそれを防ぐために万策を尽くそうとするのだが、東インド会社が成立して以来数多くの資本主義経済が破綻してきた例を、資本家をはじめとして多くの経済学者や企業家、つまり経済界の頂点にある人が直視しようとしていない現状こそが問題ではないだろうか(ヴェーゲルの「第二のお金」についての詳細は、こちらをクリックしてくてください)。

 そんな一見絶望的にさえ思われる現状に対し、エンデは意外と楽観主義者的な立場をとるが、それはある「尺度」さえ持てば、意外と簡単に現代社会が抱えている問題は解決すると信じているからだ。彼はこう語る。「私たち現代の文化がこれまでの過去のどの文化とも違う点について言いますと、これまでの文化はそのつど自己の尺度を、直前の文化、あるいはもっと以前の文化から得ていましたが、今日の私たちが持つべき尺度というのは、過去からくる尺度ではなくて、将来を見越して、そこから今の自分はどう行動すべきかと見ていく尺度です」つまり今まで危機が訪れた際に人類は過去の先例を探ることで解決してきたが、ますます広がってゆくばかりの貧富の格差や荒廃して犯罪の温床と化してしまった大都市、それに差し迫る環境破壊の危機など現代人であるわれわれが抱える問題は過去に先例を探ることよりもむしろ、将来に対して新たな展望を持つことで解決できる、ということだが、このあたりについてのエンデの考えについては、「オリーブの森で語り合う」の冒頭部分でより詳しく語られているので、そこを参照してもらいたい。

 この話のあとで、井上は(この話から)30年前に対処療法的な結核治療が行なわれた結果、この当時になって多くの人が肝硬変で亡くなっていることを話題にするが、それに対しエンデも「医学にとどまらず、すべてにおいて、現代では何でも、いますぐ、直接に効く対処療法を考える。しかし、その速効性というのがいったい何を代償としているのかということを考えない」と口を合わせるが、これは専門家を養成することだけに力を注ぎ、広い視野で社会を見渡す人間を養成してこなかった現代社会の傾向にその問題の根があるのではないかと私は思う。専門家は自分の専門に関してはその類希な知識で適切に対処できるが、その対処法は全般的な角度から見た場合むしろ対処法にさえなっていないこともあり、たとえば貧困層の増大によって犯罪が増えたからその犯罪を取り締まるために警官を雇ったとしても、犯罪の温床である貧困がそれで解決するわけではなく、むしろそんなことのために浪費するお金があればそれだけの資金を使って新しい企業を起こしてかれら貧困層を従業員として雇ったほうがよほど社会のためになるにもかかわらず、そういうようは発想は残念ながらなかなか出てこないのが現代社会の問題といえよう。

次に、演劇にゆかりの深い二人ならではだが、「ドラマの約束事」という話題が提起される。井上が演劇上の約束、すなわち王冠と髭をまとった男が「俺はリア王だ」と舞台上で宣言すると、あとはどんな格好でどんなことをしようが彼は舞台上ではリア王であり続けることを語ると、エンデもそれに応えるようにして演劇と映画の違いについて語りはじめる。その違いを端的に述べたのが以下のエンデの科白であろう。「映画では、たとえばカウボーイはほんとうの馬に乗らなければならない。ところが、舞台の上では馬の実物が登場してはなりません。馬だとわかるシンボルが出るべきなのです」そしてエンデは映画上ではすべてが写実主義的でなければならないのに対し、むしろ演劇はそれを嫌う傾向にあることに触れ、「見かけ上の現実らしさ、表面のリアリティーを諦めるとしたら、では舞台の芝居で本当にリアルだと言えるもの、確かな現実だと納得させられるものは、どこに現れることになるんだろう?」という問いを投げかけ、それに対し「精神世界のリアリティでしかありえません」と語る。だが、これは教訓じみたもの、たとえば「オセロ」を見て「嫉妬心を持つな」という教訓を得たというようなことではなく、演劇で重要なことはそれではなくむしろ「何か普遍的に通用する精神的なこと」だというのである。それからブレヒトの話になるのだが、「教訓的な芝居」を狙っていたブレヒトの理論に「非常に苦しめられました」とエンデは語り、「私は、およそ芝居くらい教訓に不向きなものはないと思うのに、ブレヒトの例の理論は正反対ですよ」と批判するが、彼の反ブレヒトの立場は「エンデと語る」で詳しく述べられているので、そちらの方を参照していただきたい。

そして最後にバイエルン方言で書かれた「ゴッゴローリ伝説」のことが言及されるが、ここでエンデはこの作品が(当時の)西ドイツ国内で成功した原因を、方言が流行していたからだとしているが、彼はそのような博物館趣味的な方言に対する好奇心をあまり評価していない。それよりも彼がもっと関心を寄せていることは、未来の芸術についてである。「現代のように人類全体がどんどん近づきあい、お互いの世界が一つになり、しかもともに成長していく度合いが増せばますほど、確かに何もかもが同じになって、個々のアイデンティティを見失う危険性があります」として国境を越えて画一化されつつあるマスカルチャーに批判的な態度を取り、「私は世界がうんと多彩な色を持つことを願っています」とはいうものの、「とはいえ、その多彩さを古い世界の、血縁的、遺伝的な関連性から取り出してこられるとは思わないのです」と語って、ただ先祖返りさえすればいいという姿勢にも水を差し、そうではなく「精神世界の認識が必要だ」と語る。「砂時計の砂が下に落ちたときにひっくり返しますが、かつての人間意識は本能によって精神世界を知覚しつつこの世に降りてきた。その砂が下りきって上方が空白になった今、正しく反転させるのです」、つまり自分たちの内面世界からそのような文化を探し出さなければならないと語っている。「アインシュタインロマン6」の中でも科学について同じようなことをエンデは語っているが、ここでは芸術面でやはり内面世界と外面世界とを調和させる必要があるとエンデは言いたかったのではないだろうか。

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(2)安野光雅との対談:黒い紙の上に描く画家

この対話では、エドガーの絵についての話題が中心となる。安野の語りの部分の方が多いのでエンデの絵画論はそれほど展開されていないが、活字になっている範囲でエンデの絵画論(もちろんこれは芸術論、さらには文化論一般にまでつながるものである)を追ってみよう。

まず、絵画におけるフォルムの歪みの話が出るが、ここでエンデはヨーロッパで16・17世紀からはじまった「イデアの芸術」にこれのルーツを求める。彼はミケランジェロがそれを始めたというが、「その傾向が今世紀に再び表現主義で取り出されました」という。彼はすべての絵画に見られる二つの傾向、すなわち「古典主義・・、つまり目に見える現実から出発してそれを精神化する方向」「ロマン主義、マニエリスムと言われていたもの・・、イデーから出発する方法」を指摘し、エドガーが後者の立場に属しており、「父は表現技術には比較的無頓着で、ほとんどどうでもいいような対しかたさえしていたことがあります」と語っているが、絵画の持っている役割を鑑みればこれはむしろ自然なことといえる。井上ひさしとの対談で話題に出た、演劇における「表面のリアリティー」「精神世界のリアリティ」という側面と絵画における前述の二つの傾向は、実際には芸術の表現する対象としては同じことではないだろうか。

だが、ミヒャエルはエドガーがシュールレアリスムの人間として扱われることを好ましいとは思っていない。「最初にパリで、アンドレ・ブルトンがシュールレアリスムの理論を打ち立てて、それに基づいてあのグループが発生しました。彼らは特定の制作方法に一致して創作した。フロイトの影響をもろに受けた、いわゆる「自動筆記」、意識下の領域から湧いてくるものをまったく吟味することなくそのまま描いていってしまうあのやり方に似ています・・これに対し、私の父はいつも抵抗しました」と彼は説明し、さらに「父は独特のテクニックを持っていました。一人でアトリエにこもり、意識をからっぽにして、それでいて醒めきった状態をまず作り上げます、醒めきっていると、その空の意識の中に絵が浮かび上がってきます。本当にはっきりした輪郭を持っていました・・」と長々とエドガーの絵画作製法を語るが、ここで重要な点は「そのときには何か思考が入ってきてはいけない」ということを強調していることである。シュールレアリスムがその規範としたフロイト(彼が「アインシュタイン・ロマン6」内の「文明砂漠」で聖人の一つとして「砂漠民」に崇拝されていることは決して偶然の一致ではない)は全ての意識を因果論で把握し、全てのイメージに対してその原因追求をしてやまないが、そういうような強迫観念にとらわれたような思考の介入を禁止することでイメージそのものをそのままの形で把握しようとしたのがエドガーの目指しているところで、その意味でエドガーはシュールレアリスムの人間ではないとミヒャエルは言いたかったのである。

話題は絵画論から、天使と悪魔の存在に移るが、ここでエンデは天使と悪魔の存在を信じていることを告白し、「この宇宙には、人間以外にいろいろな叡知存在が実在しています。現代のいわゆる啓蒙された意識を持つ人間にとって、このことは実は非常に重大です・・それは人間の五感では、とても知覚できないし、それが善なる存在か、悪なる存在かを見分けることもむずかしい。・・ただ人間は、見えない存在があることを知るにせよ知らないにせよ、見えない存在たちとしっかりかかわりながら生きている事実があります」と語り、そういう存在として天使も悪魔もいることを主張し、「(悪魔は)人間が人間であろうとするのを妨げている存在です」というが、そんなミヒャエルにとっての悪魔は必要不可欠な存在である。なぜなら、すべてを善と悪などという二分法で認識しようとする西洋思考に辟易しているエンデは「なぜ闇も光と同じように神聖なものではありえないんでしょうか。光と闇と両方がなければ色彩が生じえない。光だけで成り立つ世界というのは、闇だけで成り立つ世界と同じように、何も見えない、知覚できない世界ですよ」と闇の必要性を説き、さらに「古代の数学では1というのは最大の数でした・・一は結局すべての対立を、より大きな統一性、一体性、見える世界と見えない世界を全部包括する一体性の中に、非常に大きな調和の中に入れ込む数字です。この全体性が一で、これを神、最高の存在と呼んだわけです。二元性がすでに悪魔です・・悪魔は神に対立するものではなく、自分自身の中に二極対立が生じること、これが悪魔です」と語り、その言語学的な例証として「Zweifel(疑問)」という語と「Teufel(悪魔)」という語が昔のドイツ語では同一であったことや、ギリシア語で「悪魔」を意味するdiabolos(英語のdiabolic、フランス語のdiableなど)が「2」ということばからの派生語であることを指摘する。

そして最後に、断絶してしまった日本文化の伝統について語られることになるが、エンデはここで「工業、テクノロジーは結局はヨーロッパ思考の究極的な結末なのです。この容赦ない結末なるもの・・に取り組まなければならない度合いは、ヨーロッパ人のほうがずっと大きいのです」とまず、ヨーロッパ文化の自己破壊的な傾向に触れたあと、「日本は、工業化社会に向かうにあたって、固有の文化の発展を一度、断ち切らなければならなかった。ちょうど接ぎ木のように、日本の切り株を一回切って、そこにまるで違うものを接ぎ足そうとした。そういう内的な矛盾は、ヨーロッパよりも日本の方がずっと強いわけです」と現代の日本文化の中にある自己矛盾的な点を指摘し、個人主義的なヨーロッパ人と集団主義的な日本人とを比較し、「この人間関係、お互いに一緒にという原理と、工業化社会ということの原理とが、共存しうるものかどうか、そこに危険性を感じます」と語っているが、まさにこれは現在、企業でも終身雇用制という形態が崩れ、能力主義的な社会へと移行しつつある日本のことを予言した発言のように私には思える。日本文化の根底を成していた集団主義を崩そうとしている日本の文化の将来を誰よりも案じた人間こそ、他ならぬミヒャエル・エンデであったといえるのではないだろうか。

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(3)河合隼雄との対談:「普遍的な父」との闘い

この対談でもやはりシュールレアリスムのことがまず話題になるのだが、ミヒャエルはここで安野との対談のときに言及したシュールレアリスムとエドガーの絵の違いについて、もっとわかりやすい形で説明する。「ダリなどのフランス・シュールレアリスムは、意識下の領域でどろどろうごめいているものをさらしだすやり方でした。父の場合はそれと違って、神話の意識を現代のフォルムで再発見することなんだと考えていました。混沌としたものから出てくる偶然性、奇妙な偶然性を組み合わせて絵にするのではなく、確かなシンボルを出そうとしました」と語り、これをユング学者である河合が「シュールレアリスムというのは、まず意識−意識というのは、私から言うと、ヨーロッパの人が持っている意識−その意識がその下のどろどろしたところを見て描いたものであると。ところが、エンデさんのお父さんの場合は、普通の意識が下を向いているのではなくて、この普通の意識を弱めるともっと違う意識が上がってくる。これも意識なんですね・・お父さん(エドガー)のやっている意識は、フロイトの言う意識・無意識という分類じゃなくて、もっと下からずっと上がってきた意識ですね」と専門家の立場から解説しているが、フロイトの無意識が日常の意識の影響を被っている意識だとしたら、エドガーやミヒャエルのいう無意識はそのさらに下、日常生活ではその存在さえ知られ得ないような意識であるといえるのではないだろうか。

次に話題になったテーマとして、自然科学の問題がある。エンデはローマ近郊に住んでいたときにドイツのテレビ局が彼を取材にやってきて、オリーブの木にお供えをしている理由について彼が「私が執筆しているときに助けてくれる木だからです」と答えるとテレビ局の人が彼を「野蛮人」扱いしたことを話題にし、「ちゃんと頭の中にもう一つの目を持つ人なら、木は決して化学物質の合成品ではなくて、一つの生きた存在であり、私と一緒にこの地上に住んでいるという事実が見えるはずです・・環境問題を解決するには、・・自然に対して、私たちが本当に内的な関係を持たなければいけません」と語っているが、環境を考えるというときに、単に表面上の問題(酸性雨や熱帯雨林破壊など)を解決するのではなく、人間とそれを取り囲む自然環境との間でどのような関係が築かれるべきかという点を考察する姿勢が必要だ、とエンデは説いているのである。彼はさらに「自然は問いを受けたと同じやり方で答えを返す」というゲーテのことばを引用し、「自然に対して畏敬の念をもって問いを発したなら、やはり畏敬と尊敬から生まれる答えを自然は返してきます。けれども、私が自然界に歩み寄って、まるで金庫の鍵をグッと開けるようなやり方で対したなら、結果として犯罪的な答えが返ってきます」と、自然に対するときの人間の姿勢にも言及し、「私たちが本当に自発的で自由な洞察をしてこの変革を行わないと、悲劇的な結果がやってきます。それはこの上なく過酷な教訓になるでしょう」と結論づけているが、自然と協力して生活を築き上げるのではなく、自然を「搾取」(この表現は「エンデと語る」でエンデによって使われている)している文明は、いずれ自然からとんでもない反撃を食らうことになるのではないだろうか。

この会談ではさらに、「意識」と「無意識」に関わるテーマが多く話し合われた。たとえば夢の中の世界では現実世界と異なった意識を持っているマレー半島のセノイ族の例や、「(西洋で)人々が尊敬の対象にしている人がセックスの欲望を持たない人であった」ことで「セックスを諦めれば世の中で尊敬されることになる」と錯覚した西洋で、l実際にセックスの欲望を持たない人は「夢の中での男女の出会いの方がずっと(性的に)強烈だとすると、日常界での異性融合への関心なんか薄くなっていきますよね。夢の中でほど強烈ではないのだから。禁欲というのはもともとそういう意味だったんではないか」というセックスに関するエンデの指摘、また「モモ」の中で描かれている内的時間と外的時間についてなど、さまざまなテーマが話し合われるが、これらのテーマで大事な点は、人間の精神には意識と無意識という2つの領域があり、われわれ人間は本当は両方の世界の住人であるということではないだろうか。たとえば楽しいことがあったときには時間の経過が速く、逆に辛いときには遅く感じられるのは内的時計の進み方が外的時計のそれに比べてずれているからであり、日常界では性的に無関心を装う人はそれだけ夢の中で性的享楽に耽り、性的に満たされているから日常界でむきになって性欲を露骨にする必要がないだけであり、セノイ族の場合は両方の世界に精通することで自分たちの内的生活を豊かにしようとしているが、いずれの場合においても重要なことは現代の自然科学で認識できる世界だけを唯一の世界と考えるのではなく、それとは違うもう一つの世界(内的世界)についてのわれわれの認識を深めることではないだろうか。

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