モモ

(岩波書店、1973年)

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この本と映画について
第一部 モモとその友だち
第二部 灰色の男たち
第三部 時間の花


この本と映画について

イタリア・ローマ近郊を彷彿させる街で起こった、モモとその周りの人の、貧しくものんびりした生活を「時間貯蓄銀行」の「灰色の男」がめちゃくちゃにしてしまう、というストーリーのこの物語については、このページを読んでもらった人ならよくご存知だと思うので、あえて詳述はしない。イタリア語(エンデ自身「『モモ』はイタリアへの私の感謝の捧げものであり、愛の告白でもあります」と語っている)、英語、日本語のほか、アフリカーンス語(オランダ系を中心とした南アフリカ人が使っている、オランダ語の方言のような言語)、バスク語、ブルガリア語、中国語、デンマーク語、フィンランド語、フランス語、ギリシア語、ヘブライ語、オランダ語、アイスランド語、カタルーニャ語、韓国語、ラトビア語、リトアニア語、ノルウェー語、ポーランド語、ポルトガル語、スペイン語(スペイン版とアルゼンチン版があるらしい)、ルーマニア語、スウェーデン語、セルボ・クロアチア語、スロバキア語、スロベニア語、タイ語、チェコ語、トルコ語、ウクライナ語、そしてハンガリー語(以上、ドイツ語の原書による)と非常に多くの言語に訳されており(ただ旧共産圏では多少内容に変更があったが)、「はてしない物語」同様エンデの代表作としての評判が高い。

あと、エンデ公認の「モモ」という映画もある。ヨハネス・シャース監督、脚本をマルチェッロ・コスチャ、ミヒャエル・エンデ、ローズマリー・フェンデル、ヨハネス・シャーフが共同担当したこの映画では、原作の「作者のみじかいあとがき」の中で登場する不思議な男(映画ではエンデ自身が演じている)のシーンが、映画では冒頭に置かれている。「はてしない物語」でエンデはハリウッドと裁判を起こしたが敗れ、多額の賠償金を支払う羽目に遭った経験をしたため、エンデとしてはできるだけ原作を歪められないようにするために自分からその映画の製作に関わる必要があると感じ、自分自身が出演したりしたのだ。ただ、映画の「モモ」に関しては私も詳しいことは判らないので、メールで情報を提供していただけたらありがたい。

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第一部 モモとその友だち

月並みかも知れないが、まずモモがどのようにしてこの物語の舞台となる街に受け入れられたか、振り返ってみよう。

「モモの見かけはたしかにいささか異様で、清潔と身だしなみを重んずる人なら、眉をひそめかねません。彼女は背がひくく、かなりやせっぽちで、まだ八つぐらいなのか、それとももう十二ぐらいになるのか、けんとうもつきません。生まれてこのかた一度もくしをとおしたことも、はさみを入れたこともなさそうな、くしゃくしゃにもつれたまっ黒なまき毛をしています。目は大きくて、すばらしくうつくしく、やはりまっ黒です。足もおなじ色です。いつもはだしであるいているからです。冬だけはくつをはくこともありますが、でもそのくつも片ちんばで、しかも大きすぎてぶかぶかです。それというのも、モモはどこかで拾うか、人からもらうかしたもの以外には、なんにももっていないからです。スカートは、ありとあらゆる色のつぎぎれをはり合わせたしろもので、かかとまでとどくほどの長さです。その上に古ぼけただぶだぶの男ものの上衣をきて、そで口を折りかえしています。長すぎるぶんを切ってしまうのはいやでした。からだが大きくなることを、ちゃんと考えているからです。それに、こんなにたくさんポケットのついたすてきで実用的な上衣がまた手に入るかどうか、わからないではありませんか」

「モモ」の舞台となる街はおそらくローマ近辺であろうと思われるが、ヨーロッパでこのような女の子といえば、大概はジプシーの子どもである(モモ自身がジプシーかどうかはわからないが)。都市あるいは農村での定住生活を基本とするヨーロッパの人たちにとって、汚い外見で、しかも自分の家を持っていないような子どもは孤児として扱われるのがおちで、社会保護の名目のもと公立の施設に入れられることになるが、その窮屈な生活が嫌で彼女はそこを飛び出したのであり、何とかして自由な生活をしたいと思っていたのだが、そのモモが劇場下の地下室で暮らしたいと言うと貧しいなりにも思いやりのある街の人はあれこれして、テーブルだのいすだのかまどだの、生活に必要なものをすべて賄ってあげたのである。貧しいが故に他人に対して優しいこの気質を示しているのが以下の台詞だが、これを聞くとこのような気前の良さは金銭的に豊かになるにつれ失われてしまうものなのかどうか、自問せざるを得ない。

「おれたちのうちのだれかの家に世話になっちゃあどうかね。そりゃ、おれたちの家はどこもせまいし、たいていは、やしなわなくちゃならない子どもがわんさといるさ。でもな、ひとりふえたところで、どうってちがいはない。え、どう思う?」

 そのすぐあとに、「モモ」をきちんと読んだ人なら誰でも感銘するくだりがある。モモがもっている、「あいての話を聞く」というすばらしい才能の箇所で、その実例として、取っ組み合いのけんかを今にもしそうな剣幕だった左官屋ニコラと居酒屋主ニノが仲直りしたり、歌を忘れたカナリアがまた歌い始める様子が物語の中で叙述されているが、ここでモモがいったいどんな影響を彼らに与えたのかを見てみよう。

「モモに話をきいてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。彼女はただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたかとおどろくような考えが、すうっとうかびあがってくるのです」

「モモは大きな目でふたりを見つめています。ニノもニコラも、その目がなにを言っているのか、はっきりとはわかりませんでした。内心ではおれたちのことを笑ってるのかな? それとも、かなしんでるのかな? モモの顔からは、どちらとも読みとれません。けれどふたりはきゅうに、じぶんのすがたのうつった鏡をつきつけられたような気持ちがして、はずかしくなりだしました」

 ここで、両方の描写で「目」という共通項があることに注目したい。その目(以下眼と表記する)に睨まれたものはたちまち石化してしまうというとんでもない力を持った怪物がギリシャ神話の中に現れるが、この例を持ち出すまでもなく人間の眼から放たれる視線にはある種の特別な力があることはわれわれの中では半ば常識となっている。日本で伝統的に(最近はそうでもなくなってきているが)相手の眼を見て話すことが失礼にあたり、日本以外の国(西洋世界だけでなく、中国や朝鮮半島といった近隣諸国においても)では逆にそうすることが礼儀正しいこととされているが、どちらにしても相手の眼に対し直接視線を向けることである種の力(精神的なものであるだろうが)が相手に対して直接注ぎ込まれるわけであり、そのことを日本では「失礼」、逆に西洋世界や中国や朝鮮半島では「礼儀正しい」と解釈しているだけの違いであることは容易に知れる。相手の話を聞くという行為は一見受動的であるように思えるが、聞く人は相手に対して無意識のうちにそのような力を投げかけているわけであり、モモのばあいはそれが一際強いものであり、相手の心や知性(英語でいうmind)にまで直接働きかける効用を持っていたのではないだろうか。この次の章で未知の海を航海するという架空の冒険を楽しむ様子が描かれているが、そういう気にさせたのも、やはりモモの発する無意識的な力が子どもたちにその世界に浸るだけの知的活力(架空の世界を頭上に構築するには、それだけの想像力という知性が必要なわけです)を与えたと読むことができる。実際モモはそういう風にして相手の話を聞いていたのであり、その例として「ビビガール、完全無欠なお人形」をモモに与えて自分たちの思う壷にしてしまおうと企む灰色の男とのやりとりがある。「ところがこの男の話を聞くことは、これまであいてにしただれよりもずっとむずかしいのです。ほかの人の場合には、モモはいわばあいての中にすっかり入りこんで、そのひとの考えや、そのひとのほんとうの心を理解することができました。けれどこの訪問者があいてでは、それがまるでできません。いくらつとめてみても、からっぽの闇の中に落ちこんで行くような感じで、あいてがいないもどうぜんです」というのだが、目を通して相手の心に入り、その心の様子を覗き見た上で相手に投げ返す視線は、モモのmindを経由することで特別の力を持ったのだと思われ、この灰色の男の場合、その心がないために彼女は「からっぽの闇の中に落ちこんで行くような感じ」がしたのである。

 次にモモの親友である道路掃除夫ベッポとジジのくだりになるが、まずベッポらしい考え方についてちょっと考察してみたい。

「道路掃除夫ベッポは頭がすこしおかしいんじゃないかと考えている人がおおぜいいるのですが、それというのは、・・彼は質問をじっくりと考えるのです。そしてこたえるまでもないと思うと、だまっています。でもこたえが必要なときには、どうこたえるべきか、時間をかけて考えます。そしてたいていは二時間も、ときにはまる一日考えてから、やおら返事をします。でもそのときにはもちろんあいては、じぶんがなにをきいたかわすれてしまっていますから、ベッポのことばに首をかしげて、おかしなやつだと思ってしまうのです。/こんなに時間がかかるのは、彼がけっしてまちがったことを言うまいとしているから・・。彼の考えでは、世の中の不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている、それもわざとついたうそばかりではない、せっかちすぎたり、正しくものを見きわめずにうっかり口にしたりするうそのせいなのだ」

 私を含め、情報を流す人間全てに対する厳しい戒めの言葉である。インターネットという全世界を網羅する情報網がわれわれの日常生活の中にも浸透しているが、その情報がすべて事実に基づいたものであるかというとそうではなく、デマや事実誤認と思えるものも多い。その真偽をいちいち確かめていたら仕事にならないのが現代社会の悲しいところだが、その嘘に踊らされることも多い以上、少なくても他人にはそんな迷惑をかけないようにしようというベッポの頑ななまでの態度は、尊敬に値するといっていいだろう。もし世の中の人がみんなこの原則を共有していたら、犯罪(紙幣偽造や偽証などの犯罪は起こりえないだろう)の数もかなり減少しており、もっと安定した社会にはなっていただろうが、そうさせない何かが私たちの心の中にあることについて、反省するべきではないだろうか。

 それに対し、おしゃべりのジジはたまに訪れる観光客に、ありとあらゆる大嘘を並べ立ててはそれを本当だと信じさせて、彼らからガイド料を受け取っていたのだが、そんなでたらめ話を非難する人に対し、彼はあっさりとこう反論する。

「詩人だってそうじゃないか。詩人に金をはらう人たちは、むだに金を捨ててるって言うのかい? 詩人からちゃんとのぞみどおりのものをもらっているじゃないか! それにさ、学者の書いた本に出てくるか、こないかってことに、そんなにちがいがあるかな? 学者の本に出てくる話だって、ただのつくり話かもしれないじゃないか。ほんとうのことは、だれも知らないんだもの、そうだろ?」/「ほんとうだとか、うそだとか、いったいどういうことだい? 千年も二千年もむかしにここでどういうことがあったか、知ってるやつがいるってのか? え、あんたはどうだい?」「知らないさ」「ほらみろ! そんならどうして、おれの話がうそだなんて言える? ひょっとすると、ほんとうにそういうことがあったかもしれないじゃないか。そうだったら、おれの話は、正真正銘の事実だってことになるよ!」

 いかにも調子のいいラテン系の男の子の台詞であり、こういうあたりにドイツにはなくイタリアにあふれている、人生を謳歌しようとする哲学が感じられるが、ここでエンデの経済観が垣間見れる。詩人に金を払う人が彼から得るものは、そもそもいったい何であろう? 詩を鑑賞するということは、具体的に何かを得る行為ではない(詩集を買ったら本が手元に残るだろうが、それ以上のものは何もない)が、それでもその詩人にお金を払う人はいるわけで、それはその詩を鑑賞することを、ちょうど喉が渇いた人が水を欲しがるように求めているのであり、経済的観点でとらえるならば後者に飲物を売る売店の人と前者に詩を売る詩人の行為は完全に同一である。経済論については別のセクション(特に「オリーブの森で語り合う」)で詳しく取り扱っているためここでは深入りは避けるが、ジジは自分の紡ぎ出す物語は詩人のそれと同様にとらえており、要はそのお客さんがその話を楽しんでくれればいいわけで、その話の真偽は二の次なのだ。こうやってフィクションを楽しむあたりがいかにもイタリア的であり、ドイツ出身のエンデはイタリアのこのような陽気さを母国の人に伝えたかったのだろう。

 ジジはさらに、学者のいかにも権威がありそうな発言を茶化して、自分の発言が本当かも知れないじゃないかとかなり強引な論を展開しているが、歴史を振り返ればそれまで正しいと思われてきたことが誤りだった例が枚挙に暇のないことを思い出してほしい。それまでは神様が生物を創り損ねてできたゴミとして扱われてきた炭坑の中の化石が、実は何千万年も前に実際にこの地球上に生きていた恐竜の遺骨(の変わり果てた姿)ということっがわかったのは19世紀のことであるし、天動説に反対して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイの意見が社会的に認められるようになったのは17世紀に入ってからだし、19世紀には一流の生物学者でさえ黒人や黄色人種の知能は白人のそれよりも劣っていると信じて疑わなかった(もちろん現在はそれは否定されている)例などが挙げられるが、われわれが事実と信じて疑わない知識体系は、不完全(まだカバーできていない領域がある)であるばかりではなく、その内容が不正確である可能性もあり、われわれはそういうことがあることも思い出す必要がある。ジジの「嘘だと証明できない以上、本当かも知れないじゃないか」という論法はさすがに多少無理があるが、それでもそれを本当かも知れないと思うことでその古代世界を想像しては夢をふくらますということに人間がロマンを感じるのは確かであり、そういう楽しみを与えている以上、その報酬をもらって当然というジジの態度にも一理ある。たとえば1989年に日本で2世紀ごろの遺跡が発見されたが、この遺跡の復元模型を作って現地に展示したところ、見物客からは「夢がぶちこわされたようで残念」という意見が出た。つまり彼らが望んだのは、遺跡から出土したものなどを手がかりとして、古代の生活を自分で想像して楽しむことであり、その想像の部分を勝手に考古学者にされたのではたまらない。考古学者が当時の写真でも持っているのならともかく、そうでもないなら考古学者の描く復元図だって素人のそれと五十歩百歩であり、そんな余計なことはするだけ野暮だからやめておけ、ということだったのだ。

ジジの物語という点で、忘れてはならない点がある。「エンデと語る」でエンデ自身が述べているが、ロシア語や当時の東ドイツ版では、以下のエピソードが削除されている。第5章の暴君マルクセンティウス・コムヌス(明らかにカール・マルクスとその生み出した共産主義思想への皮肉)のくだりであり、地球を作り直したら結局は元の木阿弥だったという物語である。当時の共産主義国の版が現在どうなっているかはわからないが、もしそのあたりの情報があれば、私のほうまでメールで情報提供をしていただけるとありがたい。

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第二部 灰色の男たち

ここkらは第二部になるが、その冒頭で子安美知子さんが指摘している、「時間とはすなわち生活だからです(Zeit ist Leben)」というくだりが出てくる。ドイツ語のLebenは英語のlifeに相当し、「生活」の他「生涯」、「生命」、「人生」などといった意味があるが、私としてはここで、世間一般でよく言われる「時は金なり(Zeit ist Geld)」と比較して、このことばの意味をとらえてみたい。近代資本主義社会が成立し、さまざまな財やサービスが金銭で購入可能になったが、人間の日常生活にかかわることがらすべてが金銭を必要とするわけではない。たとえば図書館から本を借りる場合、友人と公園で雑談に興じる場合、港町に住む猟師が海で釣った魚を家族で分けて食べる場合など。だが、このいずれの場合においても、その行為を行うためには時間が必要だ、ということである。本を借りる場合でも、自宅から図書館まで往復し、読みたい本を選ぶのに当然時間が必要であり、友人と公園で雑談に興じる場合もそのための時間がないことにはできないし、猟師の例にしたって沖まで船を出して魚を釣って、それを調理してみんなで分けて食べるためには相当の時間を必要とする。だが時間に関していえば、金持だろうと貧乏だろうと1日24時間という条件は平等であり、その24時間(社会生活、という観点で見るなら1週間168時間という考え方も成立するが)をどのように過ごすかを決定することは、すなわち自分の生活(ライフスタイルといってもいいが)を決定することなのである。そしてその168時間の配分の仕方が、各人の生活であり、そのことを指したのが「そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです」という一文だと思う。

このあとで、床屋のフージー氏を「灰色の男」が訪れる場面になる。「灰色の男」はその鍛え上げた弁舌で今までのフージー氏の人生を数字で総括し、今までの人生から「浪費してしまった時間」を差し引くと0秒になる、と語る。もちろんこの弁舌は完全なる詭弁であり、それぞれの時間がなぜその人にとって必要だったかという側面をまるっきり無視してしまっているからこのような結論が出てくるのだが、ここで「時間の節約」ということを「灰色の男」は持ち出し、その必要性を説く。フージー氏は仕事をビジネスライクにしてしまい、必要以上に時間をかけない生活を送りはじめるが、それとともにどんどん怒りっぽくなってゆく。その現象はやがて彼だけではなく、街中の人たちに伝染してゆき、生活は「よぶんなもののいっさいついていない」ものになってしまう。その例として家の例が挙げられているが、「家をつくるにも、そこに住む人がくらしいいようにするなどという手間はかけません。そうすると、それぞれちがう家をつくらなくてはならないからです。どの家もぜんぶおなじにつくってしまうほうが、ずっと安あがりですし、時間も節約できます」というのがその理由なのだ。それぞれの人の家に求めるものが異なる以上、そんな画一的な家を建てることは需要に反するのだが、より多くの家を生産するためにはそんな違いなど言ってられない。一般受けするようなものだけを作って、それを売りさばいてゆくのが「効率的な」方法ではあるが、それでは各自の望む居住生活は達成できない。エンデはこの章を、「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせ細って、なくなってしまうのです」と結んでいるが、時間の節約にむきになるあまり、節約すべきでないものまで節約してしまった結果として生活がやせ細ってしまうことが述べられていると言ってよいだろう。

このような病魔に大人が取りつかれてゆく中、子どもたちの中でも異変が起きる。「自分で空想を働かせる余地がまったくない」子どもたちが増えてきたのである。彼らの持っているおもちゃは、確かに高価なものではあるが、「遠隔操作ではしらせることのできる戦車-でも、それ以上のことにはまるで役に立ちません」や、「細長い棒の先でぐるぐる円をかいて飛ぶ宇宙ロケット−これも、そのほかのことには使えません」、それに「目から火花をちらして歩いたり頭をまわしたりする小さなロボット−これも、それだけのことです」であり、どれにしても多目的では遊べないのである。子どもたちはそれらのおもちゃを手にして、それらが指示する遊びかたを忠実に守って楽しもうとするが、彼らはやがて自分が実際にしていることは踊らされること、すなわちおもちゃに遊ばれていることを発見し、退屈してしまうのだ。前より収入は増えたものの時間がない親は、子どもたちが退屈しないようにと思っておもちゃを買い与えているのだが、これこそが逆に子どもたちから自由な想像力を奪い、ただの社会のあやつり人形にさせられてゆく過程なのだ。その中で、自分たちが大人の誰とも一緒に過ごしてもらえない、つまり大人にとって時間を費やすだけの価値のない存在であることを知った子どもたちは必然的にモモのところへと集まってきたのだ。

そんなモモを不思議なカメのカシオペイアがマイスター・ホラのもとに連れてくるが、彼のことばに重要なものがあるので、引用したい。

「人間が、そういうもの(「灰色の男」のこと)の発生をゆるす条件をつくり出しているからだ。それに乗じて彼らは生まれてきた。そしてこんどは、人間は彼らに支配させるすきまで与えている。それだけで、彼らはうまうまと支配権を握るようになれるのだ」

時間を節約することで自由に使える時間が増える、と普通の人は思い込みがちだが、その節約した時間で人間はまた新たなことをするようになってしまい、結局その時間は手もとには残らない。科学技術のおかげで、移動や通信に時間がかからなくなったが、それが当たり前になってしまうとそれで節約したはずの時間のありがたみを忘れて、さらに時間を他のことに使い込んでしまい、本当に自分のためになる時間の使い方ができなくなる。結局そういった人間の態度が、「灰色の男」につけ込む余地を生み、自分のために使えるはずの時間を他人に使われてしまっているのではないだろうか。

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第三部 時間の花

モモがカシオペイアと二人の世界に浸っている間、モモの親友であったはずの二人に大きな変化が起きる。ジジは物語を語ることで有名になったのはいいが、分刻みのスケジュールに追われるようになり、やがては同じ話を繰り返すようになってしまう。一方、道路掃除夫ペッポはモモ捜索を警察に頼むのだが、彼の話を信用しない警察は彼を酔っ払いや精神病患者扱いし、その施設に放り込まれる。ここから出る見込みがないと悟った彼に「灰色の男」が現れ、モモをさらったと嘘をつき、彼から十万時間を奪ってしまう。モモの周りに集まっていた子どもたちも、「子どもの家」という施設に収容されてしまい、大人から与えられた遊びをするようにうながされる。

ここで私が注目したいのは、「施設」という社会機構である。こういう施設というと、フーコーの「狂気の歴史」での「阿呆船」が思い出されるが、「精神障害者」や「子ども」という、社会活動という観点では無益な人間を、施設に囲い込むことによって管理しようとする現代社会の側面があることを忘れるべきではないだろう。こういう者が街をふらついていると公安上の観点から好ましくないため、施設の中に入れることで社会から隔絶させてしまえば社会への影響を最小限にできる、という発想がこの根底にあるが、実質的にはこれらの施設に「監禁」してしまうことで彼らを抹殺することに成功する。だが実は、社会の中で成功した人間も、実質上は同じ立場に置かれているのだ。ジジは物語で大成功を収めたが、そのために仕事の依頼が殺到し、あちこちに行ってはその仕事をしなければいけないようになり、気がついてみると彼は秘書に自分の時間さえもコントロールされるようになってしまっていたが、これはすなわち「時間とはすなわち生活だからです(Zeit ist Leben)」という観点からとらえると、自分の生活そのものを他人の管理下に委ねてしまった男の見るも哀れな落ちぶれた姿だということができるだろう。

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