有栖川公園と大正天皇

有栖川公園は、正式な名称を「有栖川の宮記念公園」と云います。

今は南麻布5丁目と呼ばれていますが、子供の頃は盛岡町と呼ばれていました。
此は江戸後期に「常陸笠間藩浅野家の下屋敷(播州赤穂藩)」があったところです。
では何故、盛岡町なのでしょうか・・・・・・・?

 有栖川宮記念公園の表札?
 左側から書かれている事が昭和初期
 に作られた事を物語っています。
  公園内の案内図
明暦2年(1656年)芸州浅野家の分家播州赤穂の浅野匠守麻布下屋敷と当時赤坂にあった、南部盛岡藩20万石の下屋敷を相対替(等価交換)することになります。
当初の南部盛岡藩下屋敷は赤坂氷川神社付近(現在の赤坂二丁目)にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼んでいた様です。
しかし、相対替(等価交換)で浅野は赤坂へ、南部盛岡藩は麻布へ用地替えになりましたのが、相対替をした後も赤坂の南部坂はそのまま名称が残っていました。
屋敷替えになった麻布には、南部盛岡藩の名前から盛岡町の名称が残った訳です。
考え方によりますと、当時分家であった播州赤穂の浅野匠守の知名度は南部盛岡藩より低かったと考えるのは些か、穿った考えでしょうか・・・・?

陸奥盛岡藩南部家は、この他に上屋敷を外桜田に中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下等に所有していました。
盛岡藩は、最後の藩主甲斐守利恭が廃藩置県によりこの敷地を手放しますが、明治4年から29年の間はどの様に使用されていたのか明らかではありません。

屋敷内は、傾斜地を利用して渓流、セセラギ、中州、池等を配しており、現代に至っても林泉修景式大名庭園の面影を色濃く見ることが出来きます。
しかし、明治維新後には大名屋敷跡地が膨大な量、荒れ地となっていた様です。
時の有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、自ら志願して東征大総督となった江戸城に入ったと云われています。

その後、有栖川熾仁親王は住まいを神田小川町(明治2年4月)、数寄屋橋(明治3年1月)、日比谷(同年12月)、芝(明治4年3月)、霞ヶ関(同年8月)、と変更していますが、明治29年麻布盛岡町(現在の南麻布5丁目)に移転し落ち着きます。

しかし、この時すでに熾仁親王は逝去し弟の威仁親王が10代目有栖川家の総帥となっていました。そして跡取りの栽仁王は早世し、威仁親王も病により大正12年7月5日逝去してしまいす。
このため、有栖川の宮家は廃絶となってしまいますが、大正天皇は名家廃絶を憂ひ惜しみ、第三皇子光宮宣仁親王に有栖川の宮家の旧名称である高松宮を名乗らせて祭祁を継がせています。
因みに、高松宮様は昭和天皇の弟宮ですし、高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母親は、有栖川宮家出身と云う血縁関係にあります。
昭和9年1月5日、お屋敷跡は高松宮宣仁親王より東京市に下賜され、同年2月に工事が始まり11月に完成して、有栖川の宮記念公園として一般に公開されました。
広さは約11,000坪、総工費は当時の金額で86,500円と云われていますが、現在の感覚ではチョット想像が付きませんね。
その後東京都の管轄だった有栖川宮公園も、昭和50年4月1日港区に移管されます。
そして区立麻布テニスコ−ト、同麻布野球場を公園区域に編入し都立中央図書館施設を含めて港区立の公園として現在に至っています。
私が子供の頃は、火薬庫と同様に此処も遊び場の1つで「スルメイカ」と凧糸で”アメリカザリガニ”を取って一日遊んでいました。
また、ウシガエルのオタマジャクシも沢山いましたが現在では・・・・・?
       
久々に、晩秋昼下がり散歩がてらに・・・有栖川宮公園に行ってきました。
以前は、園内の池の周りに「釣り禁止」の札が立てられていましたが、全く無視されて釣り糸を垂れる人々に”呆れた”のか、上の様な2種類の警告に変わっていました。
しかし、池で釣りをしている大人の多いのには、今更ながら”呆れかえります”・・・・







平成15年10月25日 掲載