歌舞伎でお馴染み、仮名手本忠臣蔵から南部坂雪の別れ・・・・・
これと、有栖川公園が何処で関係しているのか・・・・って?
チョット長文ですが最後まで読んで頂ければ分かる事です。
まず、私も若い時は「歌舞伎座」に通った事もありましたが、歌舞伎に詳しい方が読んでいたら多少の間違いがあるかも知れませんが、その場合はご勘弁を願います。
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忠臣蔵の元になった、播州赤穂の浅野家と吉良上野介との争いがあったのは、元禄14年の事だと云う事は良く御存知の事でしょう。
1年後の元禄15年、忠義の義士47名による敵討ちが行われた後、この話題は歌舞伎・浄瑠璃・芝居等で全国的に広がりを見せます。
しかし、時の政府である幕府は、此の様な行為を”苦々しく”思っていた事は間違い無い事でしょう。
幕府としては、武家社会に都合の悪い事件を面白・可笑しく芝居などで上演されては、民衆の暴動に繋がると恐れたのかも知れませんが、講演中止を勧告する事になりますが、しかし、実際にあった事を戯作としている訳ですから、興行側からは簡単にあきらめる訳には行かないのが人情でしょう。
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当時の大阪竹本座の座長でもあり、浄瑠璃作家でもあった二代目・竹田出雲によって「時代設定のすり替え」と「登場人物の名前変更」と云う逃げ手を打つ事で現代に迄引き継がれる「仮名手本忠臣蔵」が書かれる事になります。
初公演は、寛延元年(1748年)八月の大阪竹本座にて初演されたとされています。
竹本座で講演された「仮名手本忠臣蔵」は、大衆の心を掴み大盛況となりました。
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此処で、「仮名手本忠臣蔵」はフィクションですょ・・・・と云う事を全面に打ち出した作品とするために、時代策定を変更して最初の場面である大序を鶴ヶ岡八幡宮社頭兜改めの場から始まります。
また、名称変更は大石内蔵助を大星由良之介とし、浅野内匠頭は塩冶判官に、吉良上野介は高師直と変更したという事で、赤穂浪士とは無関係ですよ・・・・・と云う訳です。
しかし、単にこれだけなら”こじつけ”と云われる事を考えたのか・・・・・時の政権に対して"当てこすり"をしたのかは定かではありませんが、戯作名を「仮名手本忠臣蔵」と云う名前にしています。
仮名手本は、”いろは四十七”文字と義士四十七名の掛詞ですし、忠臣蔵と云うネーミングも大石内蔵助の忠誠心厚い家臣を暗示させる「忠臣心の熱い内蔵助」を捩ったものです。
また、吉良上野介は当時の役職名が"高家"ですから、高師直と言い換えた所で直ぐに分かってしまいます。
ところが、今も昔もお役所仕事を良く心得た「御上の顔を立てつつ上手に商売をする」興行主の知恵とでも云えなくわないでしょうか・・・・
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因みに仮名手本忠臣蔵は、大序〜十一段目(討ち入り)まであり、現在では通し講演は時間的に出来ないのが現状でしょう。・・・・・と前置きが長くなりましたが、本題に・・・・
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此処で、登場する「南部坂」は現在の住所で云う所の六本木2−22、アメリカ大使館宿舎脇(北側)、氷川神社の側にあります。
目標は赤坂ツインタワーの南西側・首都高速谷町JKの側です。
しかし、都内の地図を良く見ると港区南麻布4〜5丁目の堺にある「有栖川宮公園」に隣接する道路にも「南部坂」の文字が認められます。
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忠臣蔵の舞台となった南部坂は、赤坂氷川神社側の坂である事は間違い無いのですが、南麻布の南部坂の方が現在では良く知られています。
何故、二ヶ所に南部坂があるのでしょうか・・・・・?
しかも、直線距離で1.5Km程度しか離れていない場所に同じ名前の坂がある事は不自然だと思います。・・・・・やっと、タイトルの説明が出来ます。
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調べて見ますと、これにはチョットした訳がありました。
(御下屋鋪相対替之事)と云う資料があります。
(有栖川公園のコーナーでも表示)
つまり、この資料によると理由は良く分かりませんが1656年に「浅野家」と「南部家」の間で下屋敷の交換をした事が分かります。
元禄15年(1702)に赤穂浪士の討ち入りがあったのですから、松の廊下の事件は元禄14年(1701)年と云う事になります。
歴史と云うのは、大変興味深い物で1656年に屋敷の交換をしていなければ、忠臣蔵の名場面である、「南部坂 雪の別れ」と云う名前は付かなかった事でしょう。
歴史に、もしもはありませんが・・・・・屋敷の交換が行われなければ、現在の有栖川宮公園は、当然「浅野家」下屋敷後という事ですから坂の名前も「赤穂坂」・・・なんて事になっていたかも知れません。
そうすると、忠臣蔵の「南部坂 雪の別れ」は「赤穂坂 雪の別れ」となっていた事でしょう。
ついで・・・・と云うと、叱られるかも知れませんが義士47名に関して載せておきます。
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有栖川記念公園の入口に建てられた
南部坂の名称表示 |

此方は、側面には「忠臣蔵」の南部坂
ではない事が説明書きになっています。 |
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