この本では30の不思議な内容の短編が、互いに関連しあっているでもあり、ただ脈略もなくつながっているだけでもあるような形で綴られているが、「モモ」や「はてしない物語」、それに「ジム・ボタン」と同じ作者の作品とは思えないような、一見荒涼とした情景が描写されているのがこの作品の特徴である。だがエンデに言わせれば、これは現代の人間の内面世界を外面世界に存在する概念で置き換えたものであり、あまり食わず嫌いしないせずにこの世界を体験して、その意味を考え続けることこそが重要であると思う。このページの内容はあくまでもエンデの文章に関する私の個人的感想以上のものではないが、鏡のなかの鏡に映った反響のひとつとしてとらえていただければありがたい。
「まったくからっぽの巨大な建物」の中に一人で住んでいる、自称ホルという少年の話である。この話の奇妙な点は、まずその空間にある。彼がときどき、「あちこちさまよっている残響」に出くわすのだが、これははるか昔に彼が思わず出してしまった叫び声の残響で、意味をもはや失ってただ不愉快なだけの騒音と化してしまったこの残響と出くわすと彼は「ひどい苦痛を覚える」のである。また、さらにこの空間は自由に伸縮するようで、初めて来た空間のはずなのにデジャ・ヴュ(既視感)を覚えることがよくあり、この空間で彼はいつまでもさ迷い続けるのである。
「鏡のなかの鏡」の冒頭に置かれたこの物語は、簡単な語彙が用いてあるのに反比例するかのように複雑な世界体系を描写する。私の個人的感想以上のことをここで記述できないのは残念だが、これはインターネットや図書館に代表される知の集積空間をさ迷う人間の内的世界を描写したものではないだろうか。こういう部類の話といえば、アルゼンチンの作家ボルヘスの「バベルの図書館」が有名だが、このブエノスアイレス生まれの博識が図書館の表象を描写しているのに対し、ここではそこをさ迷う人間としてのホルの様子が生き生きと語られる。残響ということばはインターネット上を徘徊するジャンクメールの類を私に思い出させ、氾濫する無駄な情報の拡大再生産にうんざりした現代人の様子が読み取れる。
誰に対しても極めて従順で、師匠の指導をきちんと守ることで翼を自分のからだの一部とすることに成功した息子は、迷宮都市を脱け出すための試験を受ける。「迷宮を去る者だけが幸福になれる。だが、幸福なものだけが迷宮から逃げ出せる」という条件の下で行われる試験の課題は受験者によって異なるのだが、この息子の場合は残念ながらその試験に落ちてしまう。なぜなら「服従しないことが自分の課題だった」からである。
迷宮から脱出するということは、すなわちそれまで彼を拘束していたすべてのものからの自由を意味する。彼は確かに迷宮を物理的に脱出することはできたかもしれないが、心理的に脱出することができなかったために合格しなかったのである。常に他人に服従する人間はまわりの人間にとっては「便利」な人間かもしれないが、本人自身は人間の特性である自由意志のもとで人生を生きようとしていないのであり、そんな人間が迷宮から脱出したところで自由という「幸福」を謳歌できるわけがない。だから彼は落第してしまったのである。
大家が死んだばかりの下宿に住んでいる大学生と、その下宿の管理人をしている老人との対話がこの一節の主題である。大学生は物理学を専攻しており、来週が試験なので勉強に集中したいと思っているのだが、自分が今の住まいを追われるかもしれないことが気になって仕方がない。そんな彼に老人はこの下宿を覆っているカオスの話をして、「始めることがじっさい無意味であるのなら、始めないことは有意味だということになる」、さらに「勝つ見込みのない戦い(カオスに対する)をする、それが生きるということなんです!」という。下宿はほこりまみれで、この下宿の相続人たちは硬直さえしており、今後どうなるか全く見当もつかない中で大学生は勉強を続ける。
この物語を読んで、私は「エンデのメモ箱」の中にある「発明しないもののへの賛歌」を思い出した。この物語についての私の解説はその欄を読んでもらうことにして、ここで大事なのは自然科学の発達が原爆や酸性雨のようなカオス的状況しか生み出さないのなら、逆にそんな科学を研究しないことのほうが価値があるのではないか、という問いである。この大学生が専攻している物理学はその意味ではカオス的科学の発展の礎を築いた学問分野であり、唯物論の中で硬直さえしており、それを克服するのが現代の課題であるといえる。
舞台は途中駅という名前の駅カテドラルである。ここで消防士がある女性と会話するのだが、この辺りにはたくさんの乞食がうろついており、そんな乞食に対して彼女は「だれも到着することはないでしょう!」と罵る。このカテドラルの祭壇では「奇蹟の金銭増殖」が絶え間なく進行しており、これに対し消防士は「すべての安全基準に違反している! まったく狂気のさただ!」と叫び、この狂気を食い止めようとするが、そんな彼を人は「不信心者」と弾劾し、彼にリンチを行う。
この話が現在の金融市場の狂気を描いたものであることはいうまでもない。この物語が描かれた後、デリバティブ(金融派生商品)の先物市場が自由化されるなど金融市場はかつてない繁栄を謳歌しているように見えるが、巨万の富を築く人がいる陰で投機に失敗して巨額の負債を出す人も続出していることをわれわれは見逃しがちである。エンデは金融に関しては幾たびも対談の中などで触れているためここでは詳述しないが、ここで印象的なのは「だれも到着することはないでしょう!」という女性のことばである。金を儲け続けることはできるが、その金で何をするというのだろうか。宝くじを買う人に「もし一等が当たったら何をしますか?」と聞くと時に「このお金でまた宝くじを買います」という答えが返ってくることがあるが、現在の株式市場もそれと大差はない。株で儲けた金でまた株に投資する。手持ちの財産は膨らんでゆくかもしれないが、いったいその増えた財産で何をしようとしているのか。結局彼らは金儲けが自己目的化しているのであり、そのお金を用いて目的駅までの切符を買うことは金輪際ないのである。
黒布が上がったら決められた通りに踊りなさい、と言われた男が舞台の開演を待っているのだが、いつまでたっても幕は上がらない。最初のうちはいつ開演しても大丈夫なように最初のポーズを崩すことなく待機していたのだが、やがて彼はダンスの振り付けを忘れ、なぜここでこんなこと(開演を待っていること)をしているかや、果ては何を今時分がしていることさえ忘れてしまい、ただ惰性で同じポーズをしたまま、ひたすら何かを待ち続けるようになってしまっていた。
人間は眼前のことにとらわれているあまり何のためにそれをしているかを忘れることが多々あるが、この話はその状況を短いながらも的確に描写したものであるといえよう。たとえば何のために会社で死にもの狂いになってまで働いたり大学で勉強したりしているのかわからず、ただ盲目的に与えられた状況に従っているだけの人がいるが、これはまさにこの男と同じ穴のむじなであるといえよう。自分が現在行っていることにはどのような目的があるのか。こんなごく平凡なことでさえ時に認識できなくなってしまうような社会にわれわれは現在生きているのである。
あるパーティに遅れそうなので急いで馬車を走らせている貴婦人が、ある隊列に巻き込まれて動きが取れなくなる。この隊列は奇妙な格好をした人間の一団で、貴婦人が話し掛けてみると彼ら自身が自分自身の人生における方向性を失ってしまっており、その事情を老人がこう説明する。「途切れることのない芝居をやっておったんです・それは太陽と月と星のための芝居じゃった。・・芝居は休みなくつづけられた。なにしろその芝居が、世界をひとつに結び付けておったのだから・・大きな不幸が起きたんです・・ある日のこと、あるひとつの言葉がわしらに欠けていることに気がついた。だれかに奪われたわけじゃない、わしらが忘れてしもうたわけではない。ともかく消えてしもうていたんじゃ。だが、その言葉なしでは芝居がつづけられなんだ」さらに彼は「この世界は断片だけからなりたっている。そしてどの断片もほかの断片とはもう関係がなくなっている。わしらのところからあの言葉が消えてしもうてから、そうなったんじゃ・・あらゆるものとものをもう一度結びつけるあの言葉がみつからなかったら、そのうち世界はすっかり粉々になってしまうじゃろう」という。
この章自体はもう少し続くのだが、この老人の言葉は私たちにいろんなことを連想させてくれる。この一節ではこの一団はあくまでもただの一劇団という設定だが、われわれ人間自身が神という偉大な脚本家の書いたシナリオを演じる役者でしかない、という観点から読めばこの劇団は現代のわれわれ自身を象徴している、とも考えられる。これと似たような話といえば、まず「はてしない物語」の幼ごころの君のくだりが思い出されることだろうが、ここでは名前ではなく言葉が失われたことで劇団員の内的秩序が崩壊してしまったことが描き出されている。名前がその人のアイデンティティを決定するものであるならば、言葉、さらにいうならその言葉で表現される概念がその人の人生における方向性を決定するものであり、そしてさらにその方向性は自分自身の存在だけで決定されるものではなく、「ほかの断片」、つまりこの実世界と緊密な関係を保つことによってその方向性は確立され、世界の中で意義を持った人生を送れるのである、という事実にわれわれは改めて気づかされるのである。
証人がある殺戮現場の様子を報告する。ある夜、草地に松明を持った一群と大鎌や鍬や長い斧を持った一群が円陣を組んでいたのだが、どこからともなく響いた「明かりをかかげている者どもを、殺せ!」という声とともに殺戮が始まる。松明を持った無防備な人間の肉体に手斧などが鈍い音を立てながら食い入り、彼らの流す血で一つずつ松明の灯が消えてゆく。やがてどこからともなく「痛い、痛い(ドイツ語ではヴェー"weh")」、もしくは「見よ、見よ(ドイツ語ではゼート"seht")」といううめき声が聞こえ出し、証人がふと上空を見上げてみると大地の上を横切るように張られたロープに、「ひとりの人間が十字架にかけられたような格好でぶら下がって」いた。だが、一本のロープに彼の両腕が括り付けられていたのか、それとも二本の別々のロープを彼が「接続部品」としてつないでいたのかは不明なままであることの証言でこの章は終わる。
無防備な人間に対する大量殺戮の例は、人類史上(特に20世紀になってから)数多くあるが、ここで明かりをかかげている者たちが殺されている、ということには重要な意味がある。自分たちの前途を照らす松明、あるいはそこでともっている命の灯火が殺戮者の行為によってどんどん消えてゆき、陰鬱な情景のみがこの場に残される様子は、ナチスが他民族に対して行った大量虐殺を思い出させる。殺さなかったらこの世界にさまざまな明るい未来をもたらしたものを殺し、アウシュヴィッツなどに見るも恐ろしい情景を残した彼らの行為がどんなに破壊的で、罪深きことであったかを「見よ」と、これらの被害者はわれわれに告発している。そこに登場した人間はイエス・キリストのことであろうが、彼を括り付けた紐が一本か(つまりはるか古代から現代、そして将来へと連なる人類の歴史の中の一章としての現代という時点において殺戮を繰り返した人類の全ての罪を彼が引き受けようとしているのか)、それとも二本か(過去と将来との間に起こった断絶の時代としての現代、多くの国が殺戮に走った現代の罪深さを彼が引き受けることでこの時代の過ちが将来にわたって繰り返されないように願っているのか)、それは証人にさえ、いや正確には誰にも分からないのではないだろうか。
天使がある裁判の開廷を待っている。この裁判はある申請者の「肉体化」、すなわち人間としてこの世に生まれ落ちる権利に関するものだが、実はこの申請者は当局による正式な許可を得る前に肉体化を開始してしまい、それをはげ頭の男が糾弾する。裁判では肉体化という権利と、それを実現した人間が時に悪の権化になってしまい世界に不幸をもたらす可能性が議論されるが、その間にも申請者の肉体化は進んでいたのだが、その肉体で鼓動していた心臓を誰かが奪い去り、この肉体から生命が奪われてしまう。
この章を読み進めながら、われわれは生命が本当に尊いのかどうか自問せざるをえなくなる。ポルポトやヒトラー、スターリンのような虐殺者でさえ、生まれたときは両親から希望の星として大切に扱われたことだろう。この世に生まれ落ちるということは何か、そして肉体化という権利を晴れて獲得してこの世に存在するわれわれは何をすべきなのか。われわれの思考はあちこちを巡ってやまない。
母と父、その間に生まれた二人の女の子とそのうちの一人と関係を結んだ男の話である。箱方大時計が後悔や祈りなどの時を告げながら、さまざまなことが起こる。2ページしかない短い章だが、女が他の男と関係を結ぶときに男(特に父親)がどのように思い振る舞うのか、考えさせられる一節だといえる。父親の血を引く娘がさらに後世へとその家系をつなげてゆくためには他の男、それも身内以外の男と関係を結ぶことが必要であるが、まさにその、性的結合を行っている場面は父親の目には衝撃的に映る。自分の娘が生まれたときと同じ姿で、どこの馬の骨とも知れぬ男に身を任せて、自分がこれまで手塩を込めて育ててきた大事な娘の肉体を彼が享受している、さらにいうならその男が自分の愛娘を手篭にしている様子は、娘の父に対するある種の裏切り行為にさえ父親には思えるのである。だがこの場面がなぜ衝撃的かといえば、その父親は性的結合をある種のけがわらしいもの、公共の場ではできる限りそれには言及すべきではないものと認識しているからであるが、そうやって性を隠匿すればするほどそれ(性)が人間の生において本来持っている役割が歪曲され、われわれは性というものを誤解と偏見の眼差しでしかとらえられなってしまったことをわれわれは忘れるべきではないだろう。
ところで、私が前段落で述べた情景描写そのものが人間の性的活動に対するあらゆる偏見を含んでいるのではないだろうか。もともと性的行為が両性の融合にあるならば、どちらかのみがもう片方の肉体を享受するなどということは起こり得ず、その肉体的結合の儀式を通してお互いの精神が交じり合うはずだ。だがこのような視点からしか性的関係をとらえられなかった父親は、自分の娘がそのようにして他の男へと奪われていくようすを見るのに耐えられなかったからこそ、父親は自殺という道を選んだのではないか。
丸テーブルが、それを包むような形で存在するドーム型ホールの中でゆっくりと回転しており、その中に「君」がいる。だがある日このドームを覆っていた石の壁が割け、それまで「君」が見慣れていたものとは全く異なった光景が展開される。そこで「血で契りを結んだ弟よ!」と呼びかける声が、全てを捨て、そして「落ちることを学べ!」と再三「君」に頼む込むいう。君は躊躇するが、このドームの破壊が進行するにつれて覚悟を決めて落ちることにする。
ここで興味深いのは、この声が「私たちは、おたがいでささえあうのだ」、さらに「真理ですら、真理どうしでささえあっていて、なにかにもとずいて立っているのではない」と発言していることである。上記の章では「落ち」たり「捨て」たりすることが必要だとなっているが、これは全てを自分自身の力でやってゆこうという傾向を戒めた発言であるように思う。人類は現在自然環境から独立して、自らの力だけで人類の生活に必要なものを全て(食料、エネルギーなど)賄おうとしているが、そのためにわれわれは自分たちを囲む周囲との関係を失ってしまい、何のために自分たちが生きているのかわからなくなり、それがやがてはニーチェのような「超人」思想を生む。ニヒリズムの代表者といえるニーチェはその哲学を自ら体現しようとしたが、そのために狂人になってしまったことは皆さんもご周知のことだろう。そうではなく、世界と自らの関係を再構築することこそ、これからの私たちに必要なことではないだろうか。自然の恵みに感謝しながら、自らもその自然に何らかの貢献をする。科学的真理でさえお互いに支えあっているのだから、人間だって自然環境に身を任せ(「自分を捨てる」を意味する英語はabandonだが、これは同時に「身を任せる」という意味も持っている。おそらくドイツ語でもそうであろう)てもっと安定した生活を送るべきだ、と私には思える。
ある男が、長年の放浪生活を終えて故郷へと戻ってきたのだが、その長い放浪生活という罪のために彼は自分の家の中に入ることができない。家に扉がないわけではなく、むしろ開いた扉だけで家ができているのだが、小さいためにせいぜいネズミぐらいの動物しかその扉をくぐることができないのであり、彼が小さかった昔ならともかく、大きくなってしまった今ではこれを通り抜けることは到底無理である。さらにその家には無数のネズミが住み着いており、この家にもし入ることができたとしても今度はこれらのネズミを退治しなくてはならない。彼にいつの間にかついてくるようになったオオカミとキツネに最後の別れをすると、彼の体の中に突然希望が湧き起こり、全身を駆け巡り、彼は「ようやくいま、帰郷がはじまったのだ」と気付く。
人間はその長い生涯の中で、自分の拠り所とする対象を変えることがある。所属企業を変えたり、愛する対象を変えたり、など。その果てに結局自分の「故郷」、つまり精神的原点がわからなくなってしまうが、そのときに昔自分が拠り所にしているものを頼ってそこに戻ろうとするのは賢明な策とはいえない。なぜなら自分自身の精神がそれ以降変化してしまい、昔の自分が「故郷」に求めているものと今の自分が求めているそれは違うのであり、昔の「故郷」に自分の今の欲求を突きつけてもうまくいかない。それに気付いて絶望していた男だが、本当の帰郷とはそうではなく、今の自分の精神の求めに応じて戻るべきところに赴くことを発見し、そこで新たな希望を見出したのではないだろうか。
ある谷の向こう側へと建築が行われている橋があるが、向こう側からも同様の工事が行われていない限りこの橋は完成することがない。この世界に生きる人間の中には向こう側の存在を疑う者(「一面派」)とそれを信じる者(「半分派」)がいるが、両者とも向こう側へ行くことは不可能だと認識している。しかしながら両者の間では交通は盛んに行われており、この商取引なしではこの世界の住民は生きてゆけない。そうはいうものの、この橋が完成していないことは事実であり、この橋を最後まで渡るという刑罰が実際に存在している。
この物語は、われわれに「この世」と「あの世」の関係を思い出させてくれる。「あの世」が属する精神世界とわれわれは強いつながりで結び付けられているにもかかわらず、日頃の生活でそれを実感するのは不可能に近い。世の中には死後の世界の存在を信じない者もいるが、多くはそうではない。だからといってあまりこの「あの世」の存在のことばかりいうと狂人扱いされ、社会から疎外される危険が待っている。だが、最も重要な点は「すでに何世紀も何世紀も以前よりわれわれの建設している橋は、けっして完成することはないだろう」という一節である。いくらあちら側との交流を望んでも、あちら側からこちらに対して積極的に働きかけがない限り、橋が完成することはないわけであり、向こう側とのコンタクトを求めすぎてはならないのだ。
砂漠でもある部屋で、北の扉から南の扉へとふたりの男が向かっている。一人は花婿で、衣装はもうぼろぼろになっている。もう一人は役人らしき人物で、几帳面な服装をしている。彼らは南の扉の向こうに待っている花嫁のもとに向かっているのだが、花婿が北の扉から南の扉までまっすぐ進むと言ったために彼はこれだけの苦労を強いられているのである。見た目にはほんの数歩の距離にしかないこの二つの扉なのだが、実はこの部屋の中では回り道をすればするほどより短い距離で進めるという規則があり、それを花婿が無視したために果てしなく長い行程を行くことになってしまったのである。そしてやっとたどり着いたかと思うと、そこにいる花嫁は彼のことが見えないらしく、逆に北の扉に向けて走り出す。
この一節は、モモの中にある「オソイホドハヤイ」小道を思い出させる。その道を通るとき、速く行こうとすればするほど逆に時間がかかってしまうのだが、ここでは回り道をすればするほど最短距離で目的地につくことができる、というメタファーである。人生でわれわれは目的地に到着することのみを考えるが、その目的地にどのようにして到達したかにまで考えを至らせることの重要性とも、これは関係あるのではないだろうか。一見回り道にみえても、その過程次第では、直線距離で到達した人以上の豊かさを得られることを、われわれは忘れるべきではないだろう。
ある城で行われた婚礼の席でさまざまな炎が舞いを披露するが、この炎たちが燃料としているのはほかならない城にある蝋なのです。蝋が燃え尽きると、炎はひとつずつ消えてゆき、全てが消えることで婚礼の宴は幕を閉じる。
私などには、この情景描写は現代資本主義のようすそのものに思えてくる。享楽主義的な饗宴を繰り広げるために地球上のあらゆる資源を浪費したいだけ浪費しているが、これは太った人が自分のお腹に溜まった脂肪を食べて生き延びている姿を思い出させる。お腹の中の脂肪があるうちはいいが、それが切れてしまったときにはこの元太った男は飢えに苦しむことは目に見えているのだが、それでも安楽な今の生活を変えようとはしない。現在の資本主義はデリバティブという名のもとに次々と珍奇な理論を編み出しては金回りをよくしてさらなる巨万の利益を得ようとしているが、その経済が浪費を加速し、破滅を早めているような気がしてならない。
スケーターが空の平面上で、さまざまな芸を見せながら文字のフィギュアを書くが、誰もそれに記された意味を理解しない、という短い一節である。
現在は電波に乗って、あるいはインターネット回線を通してとんでもない量の情報が交換される時代であるが、その情報がどのようなコードのもとで記されているかわからなければ意味がない。シニフィアンとシニフィエとの間に何の直接的な関係もないことは有名だが、たとえば言語にしたって、日本語というシニフィアンとシニフィエの関係を決定するコードとは別のコード体系(ドイツ語、英語、ロシア語、中国語など)で表現されたものを理解するためにはそのための勉強をする必要があることは私が言わずとも、みなさんのほうが何倍もご存知であろう。現代はさまざまな分野で専門化が進んだが、それは逆に言えば万人に共有された知の体系が減少していることの現れでもある。みんなが専門化している現在、逆にその知の体系の全貌を見渡す人が少なくなっており、個別化された知の各方面が暴走し始めたときにそれを食い止められなくなっている。そこまで考えを巡らしてしまった私は、考えすぎなのであろうか。
文字だけで構成されている紳士が、肉と骨からできている女友達と一緒に街に出て、そこで射撃台を見る。「撃てば、かならず当たる。/当たれば、おまけにもう一撃。/最初の一撃は、無料」という3つのルールしかない射撃台で、女がこのゲームをするよう紳士に働きかけるが、この標的は鏡に映った自分の鏡像であり、自分の現実性に自信のない紳士は自分と鏡像との区別をつける自信がないためにそれを拒み、結局はふられてしまう。
われわれが文字で書かれた文章を信頼するのは、その文章に現実が反映していると考えているからである。だが文章しか読まず現実との接触を持っていない人間(たとえば文章を読み漁ることには長けていても現実の社会情勢に疎い学者)の場合、その前提を時に忘れて文献至上主義に陥ってしまい、現実との接触を失ってしまう。そんな人間が実社会の中に放り込まれると自分の知識とは異なる現実に遭遇し、自信を失ってやがてこの社会からの脱落者となってしまう。このような種族の人間は、よほど自分の知識が現実離れしていないかどうかを注視する必要があるといえよう。
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