鳥人幸吉伝
・・・空にあこがれ鳥になることに一生をかけた男の物語・・・

第3話 表具職人・幸吉

 傘屋に引き取られた7歳の幸吉は、翌日から傘職人として働きはじめた。傘は竹を乾燥させ、適当な長さに切り、骨を作り、紙を貼るという工程を経て完成する。この傘作りの経験こそ、これからの幸吉の人生、そして幸吉の夢を実現するために最も重要な技術を修得するものであった。そして幸吉は、板前であった器用な父親の血を譲り受けており、傘作りの他に提灯張りなども経験し、徐々に腕を上げていったのである。

 しかし、幸吉はまだ子供である。家族6人で生活をしていた日々を思い出し、また離ればなれになった母、姉、弟達を思うと切ない気持ちであった。夕暮れに八幡宮の石段に座り、涙を堪えながら見上げた空には、夕陽を浴びて鳶がいつもの様に飛んでいた。鳶の様に空を飛べるなら広い内海を越え、山を越えて母や姉、弟に会えるのに、幸吉はそう思っていた。

 幸吉の腕が良いことを聞きつけた遠縁の万兵衛は、傘職人にするには惜しいと考え、自分が営む表具屋の職人になることを勧めた。幸吉は弟の弥作と同居できる事が大変嬉しく、表具職人へなるべく故郷の八浜から、弟が待つ岡山へ移り住んだ。幸吉が14歳の時である。

 万兵衛の店は、城の色が黒いことから烏城という別名がついている岡山城の城下町のほぼ中心にあり、通りに面する表は紙屋、奥が表具の工場であった。ここに弥作と住込みで働くことになった幸吉は、まず朝から夜まで糊を練る作業をすることになる。表具屋の糊は、寒糊といって、寒の内に生ふを煮て3年間ぐらい床下の壺にねかして、黄色味を帯びたものを使うのが最良のものであった。しかし、下紙などを貼るには新糊で十分であり、真夏でも長い時間かけて糊を煮て練る作業をしなければならなかった。この作業は、14歳の幸吉には最も辛い仕事であった。

 当時、備前藩の表具類は完成度が高く、池田藩主が幕府や諸大名へ屏風や掛け軸等多数を寄進している記録がある。従って、岡山城下のほぼ中心地に店を構える万兵衛の店は池田藩御用達であり、腕の良い先輩の職人が多くいたと考えられる。そして、幸吉は本来の手先の器用さと辛抱強さから、先輩職人の指導を受け、めきめきと腕を上げていったのである。そして、この表具師としての腕を認められることにより、後日、幸吉は己の命を救うことになるのである。