第2話 幸吉の誕生
江戸時代の備前国八浜(現在の岡山県玉野市八浜)は児島の内海に面し、漁港としてもまた、江戸や上方への商船の寄港地としても栄えていた。この八浜の港に近い宿屋の『桜屋』も港の繁栄と共に繁盛しており、主人瀬兵衛と女将由羅が営んでいた。瀬兵衛は板前としての腕前はなかなかのもので、『八浜の桜屋』の名前は多くの漁師や船頭達に広まっていた。
宝暦7年(1757年)、その瀬兵衛と由羅の間に男の子が誕生した。その子は幸吉と名付けられ、姉と兄とに子守をしてもらいながら育てられた。そして幸吉が2歳の時に、弟の弥作が生まれ、6人目の家族となった。
幸吉が生まれた八浜は、北に遠浅の内海が広がり、東と西には二つの小高い山がせり出している町である。そして、西側の小高い山にある八幡宮の近くに桜屋があり、瀬戸内海の温暖な気候に恵まれて、美しい海と山の季節の移り変わりを感じることができる町である。そして、澄み切った青空の中で小高い山の上空には、いつも数羽の鳶が弧を描いているのであった。八幡宮は、岡山藩の藩主である池田光政公が子供の誕生を祈願して寄進した社である。後に八幡宮の第5代宮司となる尾崎多門は幸吉より1歳下であった。幸吉と弥作、そして近所に住む多門の3人は、この豊かな自然と賑わう町・八浜を我が物顔で大声を出しながら走り回っていた。
幸吉にとって幸せな時期は、7歳の時に突然終わりを告げたのである。それは、桜屋の主人そして板前である父・瀬兵衛の死によるものである。長女が13歳、兄の瀬平11歳、弟の弥作が5歳であった。母は残された4人の子供達の行く末を考え、親族会議の結論を止むなく承知したのであった。その結論とは、長男の瀬平が成人するまでは、桜屋を八浜の一族が引き継ぎ、成人後は瀬平が営むとのことになった。
幸吉と弥作は、親族が世話をする事になったのである。弥作は岡山城下では由緒ある老舗の紙屋と表具屋を営んでいる遠縁の万兵衛に5歳で預けられた。姉は残念ながら記録がなくその後の事は不明であるが、当時の状況から薄幸な運命となったのではないかと察する。そして、幸吉は近所の傘屋に引き取られた。岡山へ向かって漕ぎ出される船に乗せられ、見送る幸吉の姿を振り返り、振り返り、泣きながら別れていく幼い弟・弥作の姿が八浜の港にあった。