アメリカ橋の由来・・・・何て大げさな物ではありませんが・・・・

山手線・恵比寿駅の目黒よりに掛かる小さな橋を、アメリカ橋と呼んでいます。
理由は、アメリカで開催された万国博覧会に出品されていた物を、旧国鉄が買い取って移設したと云われています。
現在は、平成ですから時代を遡って昭和から大正へ、さらに一つ前の明治時代・・・・・に
セントルイス万博は、アメリカが、フランス領だったルイジアナをナポレオンから買収して100年、それを記念する万国博覧会として、1904年(明治37年)に開かれました。

たった1台の「馬なし馬車」が展示されたシカゴ博(1893年)から11年、セントルイス万博最大の呼び物となったのは160台の自動車でした。
キャデラック、フォード、パッカード、オールズ、ノーザ−ンなどの各社が、新型車の様式と性能を競い合ったのです。
それまで、“発明博”の色合いの濃かったアメリカの万博に、もう一つの考えである“企業博”の性格が加わったと言われています。
自動電話交換機・5機の気球と飛行機・新しい食べ物(アイスクリーム等)の商品・・・・・・

しかし、セントルイス万博の最大の特徴は、アメリカらしさの強調でもありました。
それは、広大な広さを誇る巨大万博と云っても過言では無いでしょう。
総面積500万uを超える広大な敷地を利用した博覧会場だった事です。
これは第1回のロンドン大会の実に50倍に相当します。
だだっ広い敷地に展示館が1,576も立ち並び、21qの鉄道17の駅から構成されていました。
建物はその一つ一つがまた巨大で、農業館の中を見るだけでも何と15qも歩かなければならないほどだったと云われています。
悪い事に、この夏は猛暑で、広くて暑い会場では、新発売のアイスクリームやアイスティが飛ぶ様に売れましたが、パビリオンからパビリオンへの長い道程を歩いているうちに倒れる人も続出し、たまたま展示品の一つであったT型フォードの救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら駆けつける場面も多々あり、おかげて救急車のPR効果は絶大であったというエピソードも残っているそうです。

実はこの時、日本は日露戦争の真っ最中。
明治政府にしてみれば万博どころではなかったはずですが、前年7月から万博事務局長としてセントルイス入りしていた手島精一は、「こんな時こそ、国際的行事である万博に参加して、日本を世界中に認識させなければ、日本の誠意を示さなければ、‥‥‥。」と強硬に主張。
時の政府を説き伏せて出展し、金閣寺と日光陽明門を模した日本館建設しました。
一方のロシアは戦争を理由に参加を取りやめたため、アメリカでの日本の株は一気に上がったと言われています。

前置きが長くなりましたが、この時展示されていた鉄道用の陸橋を旧国鉄が買い取り、恵比寿に移設したと考えるのが最も自然な事だと思いますが・・・・・・・如何でしょうか?
一部には、年代が明治39年と云う噂が・・・・ありますが、此の前後の万国博覧会の開催記録を調べて見ますと、次の様になりました。
1900年(明治33年)  パリ万博 出品物、クジ付き入場券を発売 地下鉄、動く歩道
1904年(明治37年)  セントルイス博 出品物、気球・飛行機・アイスクリーム
1905年(明治38年)  リエージュ博 ベルギー独立75周年
1906年(明治39年)  ミラノ博

明治39年(1906)には万国博覧会の開催記録を見るとイタリア・ミラノ博となりアメリカでの記録が見あたりません。
最も近い開催は1904年(明治37)、セントルイス(アメリカ)が考えられます。







平成14年12月 1日 更新