| エンデと戦争・平和 | |
エンデが募金活動なども含めて平和活動を行った、あるいは平和について具体的に言及したということはどの著作にも年表にもいっさい記されていない。
だが、本サイト年譜にも記したように少年時代をナチの政権下ですごしたエンデは、累々と死体の横たわる街並みを見て何を感じ、何を考えただろう。それは私たち後世の者に残された「想像力という宿題」なのではないだろうか。
エンデが折々のインタビューで、平和や戦争、兵器についての考えを述べている箇所をピンポイントで紹介したいと思う。ご一読していただきたい。
(以下抜粋)
P35
子安美智子「エンデと語る 作品・半生・世界観」朝日新聞社 より
具体的に話しましょう。このあいだ、スイスのチューリッヒに招かれて、ラジオのインタビューを受けました。そのとき、「どうですか?チューリッヒの町は気に入りますか?どんな印象ですか?」と聞かれたから、私は答えました。「きれいな街です。清潔です。ただス
イスの兵器産業が世界中に生産している人間の死体を路上に想像してみるとすると、この街もそんなにきれいではないでしょうね」。だってチューリッヒには死体は見えませんよ。死 体はみんなよそに転がっています。南アメリカ、アフリカ、東南アジア、結果はそっちのほ
うに転がっています。われわれが生きている資本主義体制の結果がです。これが続くわけはありません。単にそれが道徳的によくないことだから、という理由だけではなくてです。そんな体制自体が、貫徹不可能なシステムだからです。この体制がいつまでも機能しうるはず
がないではありませんか。だから私は、もう今世紀が終わらないうちにも、人間は現体制の崩壊を経験することになるだろう、と思っています。そして、そこでようやく、ほんとうに決定的に私たちの目はさまされるだろうと。そのとき、心理への問いかけが、まったく具体
性をおびて、非常にアクチュアルによみがえってくるだろうと思います。
P82
全盛期には、体制の犠牲者の姿は、はっきり私たちの目の前、そこの路上にころがっていました。これが搾取された階級だ、というのがすぐ人目につきました。ところが現代では、その姿をテレビでしか見ない。ああ、南の方の貧しい国の人たちだ。ああ、子どもたちが飢
えている。あんなにおなかがぶよぶよして・・・・助けてあげなければいけない。薬を送ってあげよう。お金をカンパしよう。そういう同情心こそ起こしても、私たちのせいで犠牲になっているのだということが、直接にはわからない。あの人たちが私たちのツケを払ってい
るんですよね。その点こそが問題なのです。
「アインシュタイン・ロマン6 エンデの文明砂漠」NHKアインシュタインプロジェクト より
P106〜107
ナレーター
アインシュタインが1945年にヒロシマの原爆投下のニュースを知ったときに、“オー、ヴェー”と悲鳴を上げたと記録に残っています。
エンデ
“オー、ヴェー”というのは、ドイツでは財布を落としたときにも発する言葉なのです。これだけでは、あまりに少ないのです。この言葉は、大きな悲嘆でもなく、根本的な崩壊でもありません。この瞬間こそアインシュタインは自分が行ってきた科学とその結果に、因果関係があることに考えをおよぼさねばならなかったはずです。私は人が間違いを犯すということを責めません。しかし、それが間違いであるということがわかったとき、あるいはカタストロフィーが現出したときに彼は考え直すべきであったと思います。自分が行ってきた学問とその前提をもう少し深くとらえるべきだったのです。アインシュタインは、それ以降も、何ごともなかったかのように従来通り仕事を進めました。
ナレーター
しかし、アインシュタインは平和主義者として多くの活動もしています。死の直前にはバートランド・ラッセルと核廃絶に関する宣言を発表しています。
アインシュタインはプロフェッショナルな科学者としての生き方と、プライベートな個人としての行動に矛盾がないと信じており、個人としての倫理観から平和運動を進めました。そのことは、尊敬に値します。しかし、それを科学の場で追求したでしょうか?
ここに重要な分裂があります。これこそ、私たちが乗り越えなくてはならない亀裂です。この分裂は、近代の自然科学者たちからはじまりました。
(抜粋以上)
以上のような発言を見ると、エンデが平和や戦争についてひとかどの見解を持っていたことは否定できないであろう。しかし、ここで忘れてならないのは、エンデは決して陳腐な平和主義者ではなかったということだ。平和という言葉の後ろにある薄っぺらな幸福感を否定したところにエンデの発言の命がけの特異性がほの見える。
また、エンデは、ヤヌシュ・コルチャック賞を受賞した折、「子どもの心の危機を救った」ということを誇りとして、賞を受けることを決心したという。コルチャックはナチスの弾圧により、子どもたちとガス室で死を選んだポーランドの教育者であり、それを記念して作られた賞がそれである。そしてエンデはこの受賞を生涯で最も嬉しいことだったと後に語っている。これはエンデの心のうちを非常によく映し
たエピソードであろう。エンデは、ありがちな平和活動に身を投じることは行わなかったが、それは一作家として敢えてそうしなかったのではないだろうか。彼はあくまでも想像力によって読者の心を耕すことに生涯をかけたのではないかと私は考える。
彼が敢えてそうした理由は、安易に平和活動に身を投じることによるマスコミの喧伝など、リスクも鑑みたうえのことであったろうと思う。多くの平和活動家たちからの参加や寄付の依頼も殆ど断っていたという書簡が黒姫童話館には遺されているが、それはその裏にある政治的意図にふりまわされるのを避けるためだったのではないかと、早稲田大学の堀内美江氏は述べている。
被爆国である日本、しかも長崎の地に私自身は住んでおり、平和活動家たちの姿は日常的に目にすることができる。しかしエンデは非常に注意深いさまで、どんなインタビューでも、安易に平和活動を推進も批判もしていなかった。そこに私は、エンデが生涯を通じて述べた資本主義体制への批判姿勢を見る。安易に平和、または平和主義を口にするということは、良さとともに危うさも露呈しているのではないだろうか。
もちろん日本に限って言えば、原爆被爆国であると同時に、常にマスコミや、いわゆる平和活動家の口の端に上るように、靖国参拝の問題があり、日の丸君が代強制の問題がある。また最近では小さな流れではあるが、戦時中の強制労働や慰安婦という「隠された加害責任」も指摘され、諸外国との軋轢のひとつとなっている。
だが、その諸説をこの場で云々することは避けたい。なぜなら、それは平和についての一端でしかないからである。エンデが私たちに遺した課題はもっと大きく、もっと根深い。平和というのは、貧者がさらに貧し、富者がさらに富むといういびつな資本主義体制を根底から覆したところに新たに構築されるものだと、エンデは考えていたのではないだろうか。
いまでも私たちはエンデの批判した資本主義経済機構にのっとって、貧しい第三世界人たちを搾取し、その恩恵にあずかっている。そしてその搾取は巧妙に隠蔽され、スイスに実際には転がっていない死体のように、現実には私たちの目に見えない。 この事こそが、エンデを安易な平和運動へ駆り立てなかった要因ではないだろうか。
誤解を恐れずに言えば、一企業が第三国との雇用関係を結ぶことが悪いと言っているのではない。貧しい国々の人を直接支援する、フェアトレードなどの新しい機構も、草の根から生まれ始めているからである。問題なのは、その資本主義経済機構の主要なポストにあって、不労所得で利益の恩恵にあずかっているごく一握りのトップが存在することであろう。その影で貧困層は文字通り死に瀕している。エンデの言葉を借りれば、ハーメルンの死の舞踏に登場する「ゲルトシャイサー」、無限に金をひり出す大王ねずみ、そのものである。
第三世界の人々あるいは自然を搾取することで成り立っているこの資本主義経済、そしてその搾取された人々の苦しみは、支配層には何ら知らされないという事実。その不均衡を許す世界、すなわち資本主義のありかたを根底から見直すことが、エンデの遺言した平和への要ではないかと考える。パンを買うお金と投資に使われるお金は違うものでなければならない。そう考えれば、搾取されている第三国、500円にも満たない値段で労働力を買われた人々の作った服を着ながら、くちぐちに平和活動を喧伝することの浅はかさ、薄っぺらさがよく分かるのではないか。貧しい国の産出した肉を食べる同じその口で、フェアトレードの商品を宣伝し、平和募金を謳いかけるという行動の矛盾。この経済システムの矛盾に個々が気づかない限り、平和活動というものが非常に浅薄になってしまう危惧を私は抱く。日本の心の改革はよく口の端にのぼる話題であるが、そこにこそ、エンデが遺言した日本の資本主義経済体制の根底からの脱却という視点が必要なのではないだろうか。
現実に裏打ちされた空想の世界、空想に裏打ちされた現実世界、その交歓の中でエンデは生を送った。そのために彼は苦労もしたであろう。しかし正にそのことによって、彼は世相という物事を重層的に捉えることができたのではないだろうか。
エンデの経済論は、世界を現存する経済学の枠組みだけで捉えているものではない。いわば生きた経済学というべきものであろう。もしかするとそれは、文学者になりきれなかった文学者の悲劇でもあったかも知れない。だが、彼がただの学者あるいは童話作家であったなら、時代精神をこのように切実に生きようとはしなかったであろう。
著作中では何一つ明確に述べられていない平和についてのメッセージ。しかし、彼の数少ないインタビューの奥底から、沈黙の「アンゼラスの鐘の音」が響いてくる。 一体本当の平和とは、ポジティブなユートピアとは、どこからやって来るのだろうか?
文責:古山明男 森陽子(共著)
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国境なき医師団は、貧困地域や第三世界、紛争地域を中心に、年間約4.700人の医療スタッフが、世界各地70ヶ国以上で
活動している。災害や紛争に際し、どこよりも早く現地入りする緊急医療援助を得意とし、マラリアのような地域特有の
疾病の撲滅にも力を入れている。チェチェンやコソボの住民のような、公式な代表のいない人々に代わり、非人道的行為を
国連に対し告発している。メディアなどを通し、現地で見てきたことを伝える「証言活動」も重要な活動の一つと位置づけている。
(wikipedeiaより転載)
ペシャワール会
ペシャワール会は、パキスタンでの医療活動に取り組んでいた医師の中村哲を支援するために1983年に結成された非政府組織。
現在パキスタン北西辺境州および国境を接するアフガニスタン北東部で活動している。
中村は当初、主にハンセン病の治療に取り組んでいたが、2000年の大干ばつ時の赤痢患者急増をきっかけに、清潔な飲料水の確保
にも取り組むようになった。 また、自給自足が可能な農村の回復を目指し、農業事業にも取り組んでいる。
2001年の米軍によるアフガニスタン空爆の際には「アフガンいのちの基金」を設立、アフガニスタン国内避難民への緊急食糧配給を
実施した。日本の人々から募金が寄せられ、2002年2月までに15万人の難民に配給を行った。後にこの基金をもとにした総合的農村
復興事業「緑の大地計画」が実施されることとなった。
(wikipediaより転載)
平和省プロジェクト
私たちは、国家間の紛争から家庭内暴力にいたるあらゆる争いごとを、暴力を使わずに解決することを提案し推進する平和省を
日本に創設することを目的に活動を開始しました。同時に、この活動に関わる私たち一人一人が平和の文化の担い手となり、広げて
いくことも目的としています。その手段の一つとして、NVC(非暴力コミュニケーション)やピースアーミー法を学び、広めたりも
しています。暴力を減らしたい、戦争をなくしたい、もっと平和的に人と交わりたい、と願うあなたのご参加をお待ちしています。
(文責:きくちゆみ/平和省プロジェクト代表)
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