エンデが現代の金融について述べた論と、著書を紹介した連載をリメイク、再掲しています。
(このシリーズは、99年12月に連載終了しました)
連載させていただきましたメイタン・トラッディションのサイトはこちらです。
Robert Mittelstaedtさまが下記の第五回の連載を独訳してくださいました。
こちらで公開中です。
「お金ってなんだろう?」SNSコミュニティ立ち上げのお知らせ
ドイツの作家、ミヒャエル・エンデ(1929〜1995))をご存知でしょうか?
エンデは児童文学作家です。かつてベストセラーとなった「モモ」の作者といえば、
聞いたことがある方も多いと思います。
エンデは、作家とは別にもう一つの顔を持っていました。現代社会の経済システム、
環境エネルギー問題などについてさまざまな「意識変革」の必要性を訴え続けた人でもあったのです。
現代の賢者と呼ばれたエンデが、金融・経済について述べた見解を中心に、
著作を紹介してまいります。
第1回「三つの鏡−ミヒャエル・エンデとの対話」朝日新聞社 刊
この本はエンデと3人の著名人との対話を収録したものです。
劇作家・井上ひさし、絵本作家・安野光雅、心理学者・河合隼雄による3章からなっています。
今回はその第1章、“子孫にしかける戦争”をご紹介します。
「モモ」を代表とするエンデ作品は、現代の物質主義に対する批判だと、よく言われます。
お金で物が買え、物質文明という豊かさが買えるようになってから、
いっぽうで質の時代ということが叫ばれはじめました。
井上ひさし氏との対談で、エンデは精神世界の豊かさ、ということを取り上げています。
人々が「お金や物では完全な幸せは手に入らない」(18ページ)ことを知り始めたとき、
現代文明はどうなるのか、その真の豊かさの必要性についてエンデは語っています。
エンデは資本主義という体制がいま、壊れかけようとしていることについて、
「第三次世界大戦はもう始まっている」と表現しています。
非常に悲劇的な言葉なので、読む方はドキッとさせられますが、
資本主義が危うくなってきている現実をはっきり指摘したものです。
その理由について彼は、必要をはるかに超えた投資、暴走し続ける人の欲、
それにもとづく自然搾取などを挙げています。
危うさの中にそれを続けようとする現代人は「時間的な戦争」、つまり崩れそうな体制の中で、
赤字を子どもへ孫へとツケにする戦いに巻き込まれていると分析しました。
一企業や文明というものに、頭ごなしの批判を浴びせることは容易すぎる、
真の問題は別のところにあるとエンデは言います。
もしかしたら、自然搾取は続けられないかもしれない。いつまでも上がり続ける給与は、
幻かも知れない。この戦争を克服するためには、個々人が精神的な豊かさを基準に、
赤字をツケにしない未来をいかに具体的に想像できるかにかかっている、
というのが作家エンデの持論です。
対談の中では「物語で攻撃をしかける」というやや過激な言葉が使われていて、
突拍子もないような印象があります。しかしエンデは、社会を変える第一歩は、
「できっこない」という諦めを捨てることだと繰り返しています。
エンデは「貸し借りに利息のつかない第二の通貨」や、また別の本には
「病気治療費を医師が負担する」古代中国のシステムといった可能性を紹介し、
新しい経済を提案しているのです。
第2回「子安美知子 エンデと語る−作品・半生・世界観」朝日新聞社 刊
今回は、早稲田大学教授である子安氏とエンデの対談記録より、第4章をご紹介
します。この章でエンデは、経済成長というものに対する洞察を行っています。
資本主義の国にくらすとき、必要なものは何だろうか。エンデはそう問いました。
「お金、そして流通と需要」彼はそう答えつつ、いきなり核心を突きます。
それでは、資本主義が前提とし、私たちにつきつけているものとは何だろう、と。
エンデはそこに、経済成長の神話を見ました。この社会は永遠に成長しつづけ、
ものの需要はふえつづけるという前提、それが資本主義の理念だと彼は述べています。
発展と成長、それはひらたくいえば「消費し続けること」。私たちが毎日、
時代から強制されているのは、まさにこの消費という呪いなのだと彼は述べました。
こういう問いを投げかけたエンデが、経済学者たちから疎まれたのはいうまでもありません。
一部には「反資本主義者」としてやり玉にあげる動きさえあったといいます。
しかし、資本経済至上主義にかげりが見えはじめているのは事実です。
メディアは科学万能をうたい、エネルギーは無尽蔵、
欲しい商品はいつでも手に入るのが当然だと、私たちは思わされてきました。
それなのに最近の不況ぶりはどうでしょう。
なにがどう間違っていたのか、構造不況のなぞを解き明かせないジレンマは、
さまざまな歪みを生み始めています。
エンデは、経済成長の裏にはかならず「搾取される自然エネルギー」
が不可欠なことを指摘しました。使いつづけるには使われる対象、
成長には犠牲となる部分が必ずある、と彼は言ったのです。
自然のエネルギーはずっとなくならない。そう誤解したところが、
資本主義思想のいちばんの過ちだということは、
誰でも薄々気付いているのではないでしょうか。木々は枯れ、オゾンは侵され、
環境問題がさけばれる今、自然が無尽蔵だという神話を信じている人は、
もう誰もいないでしょう。
けれど悲しいことに、だれでもその経済システムの落とし穴に気付きながら、
私たちには解決するすべが見つかりません。それこそが最大の問題なのだ、
彼はそう言いました。
いま私たちにできることは何でしょうか。
一歩間違えば危険をともなう原子力をやめにして、太陽エネルギーにかえてゆくことでしょうか。
エンデはいいます。地球を汚さない運動や、発電方法はいくらでも考えられる。
けれど一番大切なのは、私たちが「よりわずかなエネルギーで」生きるのに、
慣れられるかどうかなのだ、と。
そしてさらに、彼はこう述べました。本当の問題はもっと深いところにある。
それはいまの経済が、こういう省エネルギー化を「不経済」
つまり経済後退とかんがえてしまうところに、悪循環の始まりがあると分析したのです。
「もっと利潤を」。この言葉をモットーとする成長システム、
その魔術のような呪いからのがれて、
マルクスからはじまった資本主義の誤りをただす時が来たとエンデは言います。
いつも今年より来年の方がモノが売れる、という前提でしか続けられない経済ではなく、
新しい経済のかたち、小さなシステムでもずっと破綻することのない未来をえがいていくことが、
今の私たちの課題なのだと彼は訴えました。
消費しつづけなければならない社会の「成長」システムを止め、
どんどんエネルギーを使いつづける今を改めていくこと。作ったものを捨てるための市場さがし、という強制にしばられる前に、どうやったら生産性がゆるめられるか。
それを見出す方法は1000年先、1万年さきの未来をみとおす、私たちの想像力にあるのだと、エンデは結論づけているのです。
第3回「オリーブの森で語りあう−ファンタジー・文化・政治」
エンデ,E・エプラー,H・テヒル共著 岩波書店 刊
この本はエンデと、ドイツ社会民主党の政治家エプラー、
そして演劇人として社会と演劇とをむすぶ活動を行うテヒルの3人によって、
ひらかれた対談の収録です。
この対談は、4日間にわたり、当時イタリアに居を構えていたエンデの自宅で開催されました。
今回はそのなかから、「第1日・金曜日の午後に」語られた、経済と文化、
そして学校のありかたについての会話をご紹介いたします(P63〜88)。
「成績を苦に自殺」「教師に暴行」。
こんな見出しの新聞記事も、最近は見飽きるほどの日常になりました。
いったい、日本の学校はどうなってしまったのか?
これは必ずしも親だけでなく、誰もが感じていることだと思います。
知識偏重といわれ、記憶量やスピードに遅れをとる子は切り捨てられる。
そういう風潮は、ちかごろだいぶ減ってきました。しかし、
文部省がようやく重い腰をあげて教育改革にのりだしたわりには、
校内事件は減る気配すら見せません。
1980年に行われたこの対談で、エンデはまず、
現在の学校のありかたについて痛烈な批判を行っています。今の学校は初めから、
プロ思考を叩きこまれる「専門教育の訓練の場」でしかない。
そう彼は嘆きました。
なぜ、学校がこんなふうになってしまったのでしょうか。真理をさがしもとめながら、
人として成長していく、そういう「古い大学の」ような機関は、
いつからなくなってしまったのでしょう。
エンデはここに、現代社会のシステムの欠陥を見ています。
言うまでもなく、資本主義の社会では、欲に対して「エゴむきだしで」
闘うことが求められます。子供たちも当然、 そのシステムの担い手として「訓練」されなければならない。
思いやりや寛大さが点数にならず、知識のつめこみだけが行われます。
それは、学校がシステムの訓練施設になってしまったからなのだ、と彼は指摘しました。
その結果、多くの子供たち、教師たちが、
いいようのない無力感にさいなまれていることが、対談の中で語られています。
が、これは何も教育現場にかぎったことではないに違いありません。
「多くの芸術家や知識人」にも、そういった無力感が広がっていると彼は言いました。
しかし、原因はそれだけではないとエンデは続けます。一番の問題は、
現在のシステムの中でお金が力を持ちすぎていることだ。学校にお金を出す国が、
発言力という権力まで買ってしまい、これが結果として「授業の官僚化」
を招いてしまっているというのです。
日本の教育制度のなかにあって、学ぶことへの欲求をふかく感じていられる学生は、
おそらく多くはないと思います。教育制度、そして教養というものが、
競争と成功・成績とに結び付いてしまったことで、
いのちをゆたかに生きることが阻害されてしまったからです。
進学すれば「評価と収入」が高くなる。そういう打算しかはじきだすことが出来ないのは、
学校が国の出先機関になってしまったからだと、
エンデは熱っぽく語りました。
では、そんな現状を、どうやったら変えることができるでしょう。
国にお金を貰うのをやめて、会社や自営業者から直接、
寄付をうけるような税金システムにすることでしょうか?学校は、
ほんとうに国の政治権力から自由になって、平等をかちとることができるでしょうか。
しかしそれは新たな制約にすぎない。政治家エプラーがそうもらしたように、
お金のでどころがいくら変わっても、お金の圧制的な力はもとのままです。
自治体ごとに大きな質の差がうまれ、地域からの圧力が強まることは、
だれの目にも明らかです。
お金を出すものが、必ず獲物も手に入れる。大切なのは、そういうお金の力、
つまり国力の横暴を削ぐことだ、とエンデは主張しました。
「国というパトロンがなければ」学校さえ満足にできない、
いわば金で文化を買うようなことをしなければ文化は根づかないという過ちが、
多くのものを枯渇させていると、彼は言っています。
たとえば、カリキュラムから学校の財政のことまで、父母と教師、
自治体が集まって決められるシステムづくり。
地域や学校の発言力と決定権をみとめさせることが、
国の絶対的な力をコントロールし分配を可能にするのだという主張が、
エプラーの口から提案されています。
これはまた、この社会に競争によらない自由な場を、どうやって実現していくか、
ということでもあるでしょう。自治体の中で学校がどういう目標をもち、
どんな位置にあるべきか、それがすべて自分たちで決められる状態を実現していくこと。
そのシステムをエンデは「ポジティブなユートピア」・・・進展的な未来と呼びました。
でもここには、実は大きな落とし穴があります。
いま学校で行われているような管理教育は、
簡易教育だという批判はよく耳にするところです。
しかし学ぶことの喜びを、生涯教育をと文部省がうたっても、
肝心の子供たちには無力感しか生まれないのは何故なのでしょうか。
思いやりや親切心に対し、例えばボランティア活動への出席を義務づけるなど、
無粋でお粗末な教育しか文部省は提唱できていません。見ての通り、
結局は味気ない、粗野な人間の未来しか描けないのでは話になりません。
これでは文化も精神もぶちこわしだ。エンデはそう言います。
お金の力で、精神を管理してはならない。その理論はとても簡単です。
が、そう言われてもどうしてよいか分からないほど、私たちの精神や文化は、
経済権力主義社会の考え方にならされてしまっています。
お金の権力、人生はすべて競争という理屈を取り払おうとしても、
その次に来る未来は何か?変えられないと思いこまされてきた国のシステムを変えるには、
まずこころの枯渇という病、文化はお金だという錯覚を一つずつ無くしていくところから、
始めなければならないとエンデは主張しました。
点数教育なしの学校とはいえ、精神論ばかり、
信仰で成立する教会のようなシステムを望みに出す人はおそらくいないでしょう。
逆に、自由だけでお金がないような学校にほんとうの文化やゆとりが生まれないことも、
私たちは感づいています。文化と経済が分離できないところに、
学校づくりの難しさがあるのは言うまでもないことです。
教養は、よい成績よい評価とイコールではありません。
スポンサーが運営に実権を振り回せば、文化はエリートの飾りにおちいります。
国家干渉とお金が結び付いた今の社会は、こういった「自由の危険」という危うさに、
たえずさらされている。エンデとエプラーは、この対談でそう分析しました。
経済も精神も枯れきって、文化が窒息するまえに、自由と、お金と、
力のバランスを自分たちの手で実現しよう。そう語ったエンデも、
すでに世をさって3年が過ぎました。私たちの心の病は、どこに向かうのでしょうか。
エンデの描いたユートピアは、まだ見えてきません。
第4回「モモを読む」子安美知子著、学陽書房 刊
今回は、シュタイナー研究者の視点から記された評論書
「モモを読む−シュタイナーの世界観を地下水として−」をご紹介いたします。
著者は前々回の連載で取り上げた「エンデと語る」の執筆者、子安美知子教授です。
この著書の第7章「時間とはいのちなのです−量で測れない世界」のなかから、
利子についての見解を取り上げました(P90〜95)。
「あなたの財産は5年ごとに2倍になるんです。
・・・もしあなたが20年前に一日わずか2時間の倹約をはじめていたら
・・・・269億1072秒になります」(「モモ」岩波書店刊より)。
この言葉をきいて、おや、どこかで聞いたような宣伝文句だな、
と思った方はおおいのではないでしょうか。
5年ごとに財産がふえる、20年後には40倍。
そんなにお金が増えたらどんなにいいでしょう。でも残念なことに、
このキャッチフレーズは証券会社が打ち出した、お金の利率のことではありません。
「モモ」のお話に登場する、「時間貯蓄銀行」の銀行員の言葉なのです。
「モモ」がベストセラーになったとき、日本もゆとりの時代を迎えていました。
仕事に邁進するのでなく、ゆとりの時間を大切にしよう、
ほんとうの時間とは日々の生活なのだ・・・・。
この物語のメッセージはそこにあったのだという意見が、大変話題を呼んだのです。
もちろん、なかには時間を大切にしよう、という意見のもと、
一瞬たりとも気をゆるめずに勉強へ向かった子供たちもいたかも知れません。
けれど、目標へむかって一直線に走ることが真のゆとりではないことは、
大人ならだれでも知っていることです。日々をもっと豊かに送ろうという時勢が、
この本の人気を後押ししたのは事実です。そしていま、確かに十年前よりも、
日々のゆとり、家族のだんらんは力を取り戻してきました。
しかしエンデは、あちこちのインタビューの中で、
ゆとりの復権だけをめざして「モモ」を書いたのではない、と述べています。
これはどういうことなのでしょう。冒頭にあげたせりふをもう一度見て下さい。
このせりふはほんとうに、時間のことだけをさしているのでしょうか。
時間なんて増えるはずがない。それと同じにお金が増えることさえ、
間違っている。エンデは生前、何度もそう漏らしては経済学者たちから煙たがられました。
5年ごとに増え続ける時間、これがそのままお金の利殖システムをさしていることは、
誰の目にも明らかでしょう。ためしに時間、という語を「お金」に置き換えてみると、
それがよく分かります。まったく狂いのない文章ができあがるのです。
「お金をケチケチすることで、本当は全然別の何かをケチケチしているということには、
誰一人気がついていないようでした。・・・・お金とはすなわち生活なのです。
人間がお金を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまうのです」
(原文は「モモ」より抜粋)。
ここだけを見ると、エンデの論はつねに危うさをはらんでいることが分かります。
「ゆとりという大義名分さえあれば、どれだけ時間やお金をさいても構わない」、
いわばいきすぎた豪遊主義と、紙一重であることは容易に想像できることです。
自分のやすらぎを大切にしないという点では、仕事人間とたいした違いはありません。
重要なのは、どれだけお金と時間を使うかではない。
それらに代弁されている自分のいのちの豊かさを、どれだけ近くに感じていられるか、
この物語の鍵はそこにある。エンデは生涯、その立場を崩しませんでした。
エンデは、貯蓄銀行の銀行員−灰色の男たちのことを、
計測できるものだけしか現実をもたない「計量思考の代弁」者だと位置づけています。
彼らの理論に魅入られた人たちが、どんどんすさんで行くようすが、
物語のつづきに描かれています。仕事はぜんぜん楽しくなく、祭りは廃止、
いつもくたびれた怒りっぽい顔。とげとげしい目つきでわずかな余暇も、
ムダなくせわしなく遊ぶようになってくる・・・・。私たちには、
思い当たることばかりではないでしょうか。
お金の節約、時間の節約は、
人間の将来のためになるのだと私たちは信じ込まされてきました。
けれど、ほんとうはその消費の仕方も、倹約の仕方も、間違っていたのではないか。
エンデの主眼は、まさにこの点にありました。
ここで、エンデが述べたひとつの逸話をご紹介しましょう。
西暦元年から毎日8時間、働き続けると、2000年には金の延べ棒1本分になります。
けれど同じ年数、5%複利で1マルクを預金するとどうなるでしょう。
何と、太陽4個分もの金塊が手に入るというのです。
エンデはいいます。「この大きな差額の勘定書は、いったいだれが払っているのか」と。
そして彼は、こういうお金の利殖システムがはらんでいる一種の「犯罪性」に言及しました。
資本主義経済システムが続きうる条件には、「植民地が必要だったこと」を、
彼は真っ先に挙げます。搾取するには搾取される対象、
利殖を生むには払う対象がいるというのが、エンデの持論です。
植民地が独立すれば、こんどは自然。自然がなくなれば、つぎは地下資源。
「悪魔の循環」というこの意見は、前々回取り上げた「エンデと語る」(P82)
のなかで語られています。
では、その搾取は、今はもうなくなったのでしょうか。少なくとも、
日常見わたす範囲には、そんな貧しい人たちは誰もいなくなりました。
たしかに、搾取される階級は目の前から消え失せています。しかし、
エンデはつづけます。西側諸国から借りたお金の利子を返すために、
自分の国でとれる肉を、ぜんぶ輸出にまわしている国がある。
これこそが私たちの経済システムの犯罪ではないのか。彼はそう指摘しました。
たしかに、その人たちが飢える理由に、
私たちが全く手を貸していないとは言えません。が、私たちちいさな個人、
一企業が肉の輸入を止めたとしてもこの悪循環はなくならないでしょう。
それでも、ツケを弱者にまわすようなシステムそのものが、
もう終わりに近づいているのは確かです。家をローンで買えば利子がつき、
お金を借りても利子がつく。知らず知らずのうちに背負わされている利子、
その経済システムの重圧はいまや誰の目にも明らかになってきました。
もし利子を払わなくてもいいシステムができたらどうなるでしょう?
エンデはそう問うています。膨大な利子に儲けをむさぼることもないかわり、
利子に苦しむこともない経済。エンデは物語のむこうに、新しい経済のかたち、
新しいお金のありかたを描き続けた、時代の賢者だったのです。
第5回「芸術と政治をめぐる対話」エンデ ヨーゼフ・ボイス共著、
岩波書店 刊
今回は、芸術家ヨーゼフ・ボイスとエンデの対話をご紹介致します。
この対談は1985年2月、ヴァンゲンヴァルドルフ学校で行われました。
二人の創作家が、ものを生み出すという観点から語った政治システム、
「お金に投影された価値」についての見解を取り上げました(P50〜60)。
お金で何が買えますか?よく子どもから発せられるようなこの謎かけ
に、あなたなら何と答えるでしょうか。
食べ物、着るもの、家。一番身近なものはやはり、衣食住でしょう。
なかには信用や愛、「地位と名誉」などという皮肉さえ聞かれるかもしれません。
むろん、お金でお金を買うこともできます。法的な善悪はともかく、
学歴や投票権まで買おうとする人まで出るほどです。最近は、
命さえお金に代える事件すら多発するようになりました。
今の日本は病んでいる。それは恐らく誰もが感じていることだと思います。
人とのつながりが薄くなった、あるいは自己中心的になったせいだなどと、
社会学者が精神を語ってみても、この病気はいっこうになくなる気配を見せません。
病んでいるのは、お金のシステムなのだ。
エンデはあちこちのインタビューのなかで、そう述べています。お金が発言力を買い、
教育という名の文化さえ買えてしまうことが問題なのだという姿勢を、
彼は生涯とりつづけた作家でした。
確かに、現在の経済が良いと思っている人は少ないでしょう。
金持ち優遇と言われ、給与だけに依存している所得のひくい層を8割も抱えながら、
満足な税制を日本は打ち出せていません。搾取を前提とする利殖システム、
貧しい者をさらに貧しく、富めるものをますます富ませるための経済政策は、
さまざまな歪みを産んできました。
普通に食べ物や衣服を買っているぶんには、お金はただの「仲立ち」
でしかありません。投資や株式の場合には、お金は商品になりますが、
ワイロという使い方になればお金が本来、買えるはずのないもの、
買ってはならないものまで買えることになります。
この対談で、ボイスとエンデは「お金の法的なありかた」について語りました。
お金というもので、あまりにも多くのものが買えすぎる現代、
そのお金の力をどう削いでいくか。エンデはその力を「お金の横暴」
と呼びました。
お金で何を買ってはいけない、という規定はありません。
むろん良識というものが、ある程度のことは防いでいるでしょうが、
いまやお金の権力はとどまるところを知りません。お金の力はなぜ、
これほどまでに強くなってしまったのでしょう。お金の力が、
日々の生活や精神はおろか、政治の世界さえ支配しているのは、
疑いようのない事実です。核を開発すれば発電コストが安くすみ、
国が豊かになる。それを後押ししたのはイギリスに始まる、西側の経済理論でした。
第三世界の人々が政治圧力にも屈せず自然搾取をつづけ、核実験を行う裏に、
軍事力でさえ抑えられないほどのお金の力が見え隠れしているのは事実です。
この対談の中で、芸術家ボイスはこう語っています。
政治が政治力だけで動かされる時代は終わった。個々の国の政治を決めているのは、
大資本だ、と。では、そういったお金の価値は、だれが決めたのでしょう。
一部の政治家や官僚たちでしょうか。それとも、経済のやり手といわれる、
わずかな投資家たちでしょうか。
お金とは法的には何なのか、お金の横暴を規定しているのは誰なのかという問いを、
エンデは経済学者や法律家に繰り返しました。にもかかわらず、
決定的なことは「わからなかった」と彼は述べています。
実際のところ、お金は法律ではまだ何の規定もされていません。
エンデだけでなく、その答えを出せる人は、おそらく今の世界には誰もいないでしょう。
まさにお金の力は暴君のように、私たちの生活を振り回しているのではないでしょうか。
金権至上主義はたしかに、多くのものをもたらしました。
欲しい物がいつでも手に入る豊かさ。しかしそれと同時に、
心の荒廃ということが取りざたされたのは周知のとおりです。
物の豊かさと引き替えに黙認したものがあるとするなら、
それはお金の権力であったのかもしれません。
日本が空前の赤字を抱え、不況が足元に押し寄せている今、
その力はさらに深刻になってきました。マイホームという夢はとうに遠のき、
子どもがほしいという夢、人並みの教育という機会にまで、それは及ぼうとしています。
そういうお金の横暴に対し、私たちができることは何でしょうか。
生活費のコストダウンを求めて、あるいは軍事につかうお金の削減を求めて
デモを行うことでしょうか。
ボイスはいいます。残念ながら、それではお金の根本問題には、
指一本触れられない。権力者たちからは「勝手にやっていればいいさ」
という批判しかなく、かえって耳を塞がせる結果をまねくと言うのです。
お金の横暴が、政治の力ですら抑えられない。そういう無力感に、
私たちはさいなまれている。ボイスは今の政治の矛盾をそう突きました。
しかし何よりの問題は、お金の病気が、私たちの想像力をむしばんでいることなのだ。
エンデは何度もそう指摘しています。
「これ以上、どんな経済方法がほかにあるというのか、
あったら私の方が教えて欲しい」。政治のプロである議員達が、いまそう漏らしていると、
先日の新聞は伝えました。なすすべがない、少なくともそう信じ込まされてきたのは、
国のトップである議員達ですら同じです。
ツケをどんどん先送りにするというお金の横暴をやめ、
「すっかり古くなったお金の制度」を変える時期に来ている。
それは誰もが痛感していることです。それなのに、
お金以外のものに誰も確たる価値を見いだし得ないほど、
お金の病気は私たちをむしばんでいる。エンデはくりかえし、そう語りました。
エンデは問います。そういう誤ったシステムが戦争などによって白紙にされても、
またそっくり同じ金融システムが出来上がってしまうのは何故なのか。
それは権力者、いわゆるやり手の経済人が、「新しいことには目もくれない」
からなのだと、彼は嘆きました。大切なのは、私たちが、
新しい経済のかたちを最初に想像することなのだ、と。
エンデとボイスはこの対談を通し、お金の健康なありかたをさぐっています。
仲立ちとしての価値しかもたない貨幣、つまり株式のない市場ということについても、
かなり深い議論がなされています。「お金を投資に用いない」ことが資本家の責任ではないか、教育の機会をお金で左右することが何とか法律で止められないものか。
そう語ったボイスもこの対談の1年後には亡くなり、エンデもまたこの世を去りました。
私たちはお金に使われているのではないか。
その恐ろしい問いの答えは、まだ出ていないようです。
第6回「賢治とエンデ」矢谷慈國 著、近代文芸社 刊
この著書は追手門大学の教授・矢谷氏による、
宮沢賢治とエンデとの共通性に言及した研究書です。社会学、農業芸術論、
現象学などからのアプローチで、やや骨のある内容となっていますが、
今回はこの中から第4章「生きられた時間と稀少財としての時間」
の一節をご紹介します(P232〜263)。
*この本は現在絶版ですが、追手門学院内の書店でのみ販売しています。
エンデ著作紹介のコーナーをご覧ください。
あなたは今の仕事を愛していますか。
急にそう訊かれたら、私たちは何と答えるでしょう。
ええまあ。それなりに。そういう人が大半かもしれません。
なかには面食らってしどろもどろ、そんなこと考えていられるかと怒る人も出ることでしょう。
聴いた相手が会社の上司なら、イエスと言わざるをえませんし、
家族からの質問なら笑ってお茶をにごす。この不況のさなか、
うっかり冗談さえ言えないリストラの恐怖は、誰もが感じています。
いったい、理想の仕事とは何でしょう。高給でしょうか。それとも、
管理職へ昇進することでしょうか。
仕事への愛、そんなものは、ファンタジーの世界だけのまやかしだ。
ボーナスは物品支給になり、たいして必要でもないものを、
あれやこれやと買うよう煽られる。そんな現状では、よりよい仕事、
よりよい人生のことなど考えていられないというのが本音でしょう。
そもそも、私たちは何のために働いているのでしょうか。家族のため、
自分のため、食べるため。答えは簡単です。そう、私たちは今よりも、
もっともっと豊かになることをめざして働いてきました。
将来の豊かな生活のためにお金を貯蓄する。そうすれば、
必ずいつか実りの時はやってくるのだと、誰もがそう信じました。30年前の話です。
しかし、エンデは言いました。お金が増えるためには、
利子という形でお金を払う対象が要る。搾取される自然や差別階級なくしては、
経済成長は成り立たない。矢谷氏はさらにこの弁を受け、こう述べています。
理論の欠陥が分かっているにもかかわらず、「新しい経済の枠組み」
を誰も提示できないのはいったい何故なのだろう、と。
エンデはそこに、明日の未来を想像できない、
今の経済システムが変化しえない心の足かせを見ました。
想像力が経済を健康にする。一見突飛に思えるこの言葉も、
そんなところから生まれた見解でした。実際、エンデは経済人たちの集う会合でその言葉を口にし、
文字通りつるし上げをくらったという逸話が残っています。
時間を貯めれば利子がつく。「モモ」に登場する灰色の男たちは、
そう言って人々を惹きつけました。貯めるために働けば、豊かな将来が手に入る。
この言が現代の資本主義経済の理論そのままであることは、
疑いようがありません。その言葉を信じて、私たちは日々の生活を切りつめ、
貯蓄へと走りました。何年も前から、何億、何兆のお金が貯蓄へ廻されました。
日本は豊かになるはずでした。
それなのに、今の日本の現状はどうでしょう。不況でリストラが進み、
財政は火だるま。約束されたはずの「豊かな生活」など、
やはり一握りの金持ちだけしか享受できない状況は、まったく変わっていません。
これが私たちの望んだ未来でしょうか。
働けば豊かになる、お金が増え続けるというのは、ひょっとして幻なのではないか。
私たちの経済は今、足元から揺らぎはじめています。
この本のなかで、著者の矢谷氏は、生活の現状を評してこう言いました。
私たちの日々の生活は犠牲でしかない。「将来の目標を達成することでしか」
今の私たちの生活は評価されていないのだと指摘したのです。
資本主義経済の現代にあって、この言はタブーに他なりません。
目標がいつまでも目標でしかない、決してたどりつけない幻なのだと人々が考えたら、
いったいどうなるでしょう。エンデが第三次世界大戦と呼んだ、
その恐ろしい経済戦争の修羅場がかいま見えるようです。
貯蓄と労働によって手に入るお金が増えても、
日々の暮らしに使うお金も同時に増大していく。そんな当たり前の理論に、
今までだれも気付いた人はいませんでした。
生活を切りつめることに、私たちは慣らされてきました。
今年より来年の方が必ず物が売れ、今日より明日の方が必ず豊かになる。
デカルトに始まる経済理論の欠陥を改める時に来たと、エンデは言います。
それをお金の病気と呼ぶなら、私たちもその病に冒されているのかも知れません。
けれどここで大きな問題があります。いったい、本当の「日々の生活」とは何でしょう?
切りつめることばかりに心血を注いできた私たちが、急にそう言われても、
私たちはどうしていいか分かりません。灰色の男たちに魅入られた床屋フージーのように、
「自分らしさを感じられず、いらいら、せかせかし、冷たく」なることも、
貯金のため将来のためならやむを得ずとしてきたのです。
矢谷氏はここで、モモのなかに登場する道路掃除夫、
ベッポの仕事ぶりを取り上げています。ベッポの仕事の仕方は、すこし変わっていました。
自分でなければできない、という大切さを抱きながら、一歩、一歩のほうきの動きに、
彼自身のいのちの糧を重ねていたのです。
「道路の掃除を彼はゆっくりと、でも着実にやりました。(中略)
ひとあし−ひと呼吸−ひとはき。」(岩波書店刊「モモ」より抜粋)
「数息観(すそくかん)という禅の理念にも通じる」と矢谷氏が指摘したこの動作は、
自分のペースで楽しみながら仕事をする、という行為の最たるものでしょう。
道路と書いてありますが、ベッポの姿勢を見ると、これはもしかしたら命という長い道の、
メタファーなのではないかとも思えてきます。
もちろん、これは会社の仕事を丁寧にやれ、という啓蒙でもなんでもありません。
丁寧にやるから時間はいくらかかってもいい、というものでもないでしょう。
この情報社会、そんな呑気にやっていたら、間違いなく日が暮れてしまいます。
今を大切に生きる。やや古くさい言い回しですが、ベッポの仕事ぶりは、
生きる姿勢を語ったものではないでしょうか。長い道路を急いで走れば、
途中で必ず息切れしてしまうもの。先ばかり見て進んでも、
次第に嫌になってしまうのは、ごく普通のことでしょう。
将来のために今を犠牲にするのはやめよう。エンデはこの場面で、
そう言いたかったのかも知れません。
自分のペースで命を生き、楽しむ一瞬を忘れないこと。
この姿勢は仕事だけでなく、遊びの姿勢への誘いでもあるでしょう。
貯めることの欲望に魅入られた人々は、仕事にも遊びにも、
将来へと駆り立てられてゆきます。「もうやたらとせわしなく遊ぶ」。
エンデは本のなかで、そう記しています。
子供には、将来の役に立つ遊びだけが選ばれ、それを大人が教える。
子供たちは自発的に遊ぶことがなくなります。物語のなかの世界とは言え、
今の日本の現状にいかに似ていることでしょう。最近の子供たちは、
「見立て遊び」ができなくなった、そのへんにころがる棒きれをロケットに、
石ころを発射台に見立てて遊ぶことができない。
そういう嘆きは幼児教育の場の、いたるところで噴出しています。
すべては想像力の枯渇が原因なのだ。エンデは生前、常にそう洩らしました。
大人も子供も、ほんとうに遊ぶということが出来ていないのではないか。
刹那的な享楽と、物に溺れる幸せ。私たちが「今」を生きない生活を続ければ続けるほど、
私たちの想像力は管理され窒息していく。
エンデはそう言い続けた作家でした。
子供たちの学校でいじめがなくならないのは、大人の世界が差別に満ちているからだ。
学校が生徒をがんじがらめに管理することをやめられないのは、
私たち大人が管理社会から抜けきれないからだ。
新聞や社会学者たちが現実をそう論じても、
根本的な学校のシステムは変わる気配を見せません。
それは私たちが、日々の生活を楽しんでいないからだ。エンデはそう語りました。
今を遊ばずして日々の生活を犠牲に貯蓄へ、将来へと駆り立てられる大人の姿は、
子供たちの未来の姿をも、代弁してしまっているのではないでしょうか。
子供は模倣の存在といいます。大人が楽しむすべを見せなければ、
子供も楽しむことを覚えないのは、当然かも知れません。今の経済システムの欠陥は、
実にこんなところにまで影を落としています。
私たちのいのちは、どこにあるのか。
変わらなければならないのは金融システムだけではない。
大切なのは日々の生活を生きる想像力なのだ。
25年の時を越えて読みつがれるエンデ作品の、
真の魅力はそこにあったのではないでしょうか。
第7回「サーカス物語」エンデ著、岩波書店 刊
エンデの語った金融を論じるこの連載もようやく後半部へさしかかり、エンデ本人の著作である作品群を取り上げることとなりました。
前半部で取り上げた対談集などと併せ、エンデ世界を味わっていただけると幸いです。作家として大成する傍ら、かつては俳優学校にも学んだエンデが記した戯曲を今回はご紹介します。
新しい経済法則が考えだせないのは、私たちの想像力が枯れているせいだ。エンデのこの見解を、前半6回分の連載でご紹介しました。
エンデは現代の賢者と言われ経済のことにまで言及しましたが、実に当然のことながら、エンデはその一方でふつうの人々の想像力の復権のために尽力した作家でもありました。
作家エンデは、その想像力の復権をどうやって描いたのでしょうか。いったい、想像力とは何なのでしょう。
その主張の表現として特に多いのが、戯曲の形式で書かれた作品群でした。1982年、エンデが53歳のときに刊行されたこの「サーカス物語」も、そうした舞台脚本の一冊です。
いきいきした想像力を取り戻し、現実へ立ち戻る勇気を勝ち得るにはどうしたらよいか。これが作家エンデの生涯をつらぬくテーマでした。
「サーカス物語」では全編をとおして、この想像力というものと現実の実利実用主義世界との対立が描かれており、そしてその力が現実社会を変えていく様が語られています。
王子ジョアンが治める明日国(あしたのくに)。王子の夢見る力で構成されたこの国は、「昨日はなかったし今日もないところ 明日にのみある」不思議な場所でした。自由があふれ暴力もなく、遊びが聖なるものと唱えられると記されたそこは、言うまでもなく心の内のユートピアでした。ところがある日、この王子は大蜘蛛アングラマインに騙され、国を追われてしまいます。国は蜘蛛の魔の手に落ち、夢の国はおそろしくひび割れて深い裂け目に覆われました。
文学に説明はナンセンスだとは思いますが、この想像の国の意義を説くなら、それはエンデにとっては人の心の内なる想像力だったでしょう。だとすれば、その対立関係にあるアングラマインは、さしずめその存在を許さない現代の実利主義、すべてを数値と金ではかり人の本性を暗黒へつきおとす理屈と言えるでしょうか。もっと突き詰めれば東洋思想と西洋近代化思想との火花さえ、そこに見ることができるかも知れません。
「何から何まで理路整然と」がんじがらめの民は笑いを忘れ、すべての人は「いないも同じ」。みなあやつり人形さながらで「意志も気力も」なくなってしまっている。蜘蛛の手に落ちた明日国がそう形容されているように、これは現代の私たちの生きにくさに対する警鐘とも取れます。「謀略と恐怖が蜘蛛の権力の基本なんだよ」。エンデ作品にはこういった社会風刺が多く、そのため出版を見送られた作品もいくつか存在する
ことが、後年本人の口から語られています。
ジョアン王子は自分の国を救うために立ち上がります。彼の供となったサーカス一座の人々、そして愛し合うエリ王女とともにアングラマインへ立ち向かう決心をします。しかし、ジョアン王子の最大の試練は、もっと内なるところへ響いていました。想像力の代弁である明日国が、なぜ滅んだのか。なぜ夢見る力は失われたのかと。「そりゃ、あんたが我を忘れてたからだよ」。かつての侍従であった道化師の言葉は、きびしく王子を打ちました。自分自身を忘れたのはお前だ、迫り来る物質文明に我を忘れ生きる楽しみが輝きを失った瞬間から、お前の作った自分
らしさは壊れ果てたのだ。自分があきらめた途端から欲しかったものは遠ざかり、持っている宝石もただの石ころと化す。やはり「願心の力」とは真実なのかと思わせられる瞬間です。
むろん、これは単に近代文明批判や自然運動回帰をうたう啓蒙ではありません。そんな思想は、この作品をいくらひっくり返してみても、ひとことも出てきません。
しかし近代社会文明というものが、今まさに障壁もなく、じわじわと体づたいに私たちの心の奥底を浸食しているのは事実です。エンデはそれを卑劣な蜘蛛の姿として描きました。それに相対する想像力は、いつでも私たちの内にある。「おまえには無とみえるものが実は力なんだよ」。この言葉はさきの連載で触れた、想像力こそが今の経済システムを脱して新しい経済を作るための試金石になる、という言葉にも通底するでしょう。
夢みる国、想像力の代弁である明日国の復権が終わった時点で、物語はエピローグを迎えます。ところが実はこの話、これでは終わりません。
つぶれかけたサーカス団が、有害な商品を宣伝するために買収されようとする、人間性か実利かという対立構造がひきつづいて描かれれているのです。つまりこれまでの劇は、お話の中のお話、左前のサーカス一座が夢見た「最後の舞台」だったのでした。
誰にでも大切なものというのが、たいていどんな人にも一つくらいはあるものです。そして、このサーカス一座にとって一番大切だったのが、知恵遅れの少女エリでした。明日国で世界を作り、想像力という人間性の復権に最大の力を貸したエリが障害者として描かれている、ここにはエンデのいろんな見解が凝縮しています。
「あんたがあたしたちを立派にし、慎重にもしてくれたんだわ」。お金では買えないもの、恩を受けたのはわたしたちの方。作品の中で登場人物がそう語っているように、エリは一座の誇りでした。お金のかわりにエリを手放せと迫る会社に対し、サーカスの皆は二の足をふみました。ジョアンか蜘蛛かという対立の図式はそのまま、お金をめぐる会社とサーカス団の対立、偽りの宣伝をとるかエリをとるかという議論へ重なっていきます。この戯曲は、心の内なる想像の国と現実の世界を橋渡しする、ふしぎな位置にある話です。つきつめて言えば物質至上主義で
ある現代社会の荒廃は、すべて心の病が招き寄せたものだという主張さえ読みとれるでしょう。
サーカス一座は夢見る力のほうを選択しました。彼らは想像力を勝ち得た後、会社の専属契約書を破り捨てます。エリひとりを守ることを選んだ彼らは、ブルドーザーの迫り来る工事現場で、エリを囲んで立ちはだかります。
想像力がいまの私たちをどれだけ変えていくのか。投げ出されたテーマは結論を見ないまま、私たちの今日の日常を照らす鏡となっています。ここがエンデ作品の恐ろしく、また秀逸なところです。世間はもっとどぎついもので麻痺させられちまったんだよ。劇中で語られるこの言葉がいっそう生きてくるのは、エピローグを迎えた後からです。
最後に、ジョアン王子の短い言葉をご紹介しましょう。
「愛と自由とあそびの三つを手にいれたものだけが、 しんから心おきなくふるまうことができるのだ」。
前回の連載で触れたように、せわしなく享楽的に遊ぶのでも金に溺れるのでもなく、本当に楽しむこと、遊ぶことができる人は本当に稀でしょう。しかし心から楽しむすべを今日、忘れた瞬間から、私たちは社会の住みにくさを自分一人分だけ容認してしまったのかも知れないのです。
第8回「遺産相続ゲーム」エンデ著、岩波書店 刊
この著書は前回と同じく、戯曲として記された作品です。遺産相続と
いう事件をめぐる相続人の争いを、非常に厳しく捉えたこの作品は、上
演当初酷評され、支離滅裂な「不条理劇」という批判を浴びました。
お金が心におよぼす影響について、エンデが呈した見解を今回はご紹
介いたします。
もし空からお金が降ってきたら?
おとぎ話の世界のように、あなたはそう思ったことがありませんか。
何百万、何千万のお金がある日突然手に入ったら。あれも欲しい、こ
れも欲しい、「庶民の夢」は今も昔も、心の中で花を咲かせています。
夢もお金も心がけ次第。しかし夢が現実になったとたん、我を忘れて
欲をむさぼる政治家たちの多さはご存知の通りです。拝金病へかかって
しまい、ただでも脆い夢の花を、黒く汚す人たちが全く後をたちません。
エンデのこの戯曲は文字通り、降って湧いた遺産相続をめぐる相続人
たちの夢を描いた話です。
知恵の木の実は刻印された金で出来、何百マルクの遺産があなたの前
に。遺産相続人に指定された人々が、ぞくぞくと屋敷に集まる所から、
この戯曲ははじまります。全部で十名の相続人たちは屋敷の調度に目を
うばわれ、興奮しながら語り合います。遺言書を十等分した単語の切れ
端を手渡された直後、彼らは有頂天で家を値ぶみしはじめました。
もし私が今日、何千万の宝くじに当たったなら、きっと同じ表情で当
選金の勘定にしばらく我を忘れるでしょう。いてもたってもいられずに、
ゼロの数を何度も確かめ悦に入るに違いありません。
不思議なことに夢が現実となったとき、私たちの心は逆に、夢のなか
をたゆたいます。家族に頬を叩いてもらっても想像がなかなか冷めない
ように、宙を舞う相続人たちの胸の内が手に取るようにわかります。
しかし夢はいつか醒めるもの。当選金のゼロを数え飽きたあと、突然
お金の怖さを感じるのが、ごく普通の人間ではないでしょうか。実に当
然のことながら、夢の次にやって来るのは恐ろしいまでの現実です。
宝くじにあたった結果、有頂天であれこれ用途を考えたあげく結局は
借金を返して終わり、という話を耳にして、あまりの現実味に苦笑して
しまった人は多いのではないでしょうか。
夢のなかを漂っていた相続人たちにも、その恐ろしさは思いがけない
形で降りかかりました。遺産は全員相続できるが、その配分は相続人た
ちの紙切れを持ち寄って考えよというのです。
委ねられたものの大きさに、彼らの心に暗い影がさしました。口火を
きった公証人さえ、とめるすべのない現実が彼らを襲いました。少しで
も多く、自分の分を増やそう。そう、彼らの心に疑心暗鬼が生まれてし
まったのです。疑いは疑いを呼び、とうとう彼らは自分の手を汚してし
まいます。全員が偽の遺言書をでっちあげ、遺産は全て我にありを主張
しはじめてしまいました。
エンデが提示した人の心の醜さは、観客にブーイングの嵐をまきおこ
しました。文庫版の前置きで、エンデはこう記しています。この戯曲の
主題は現代人の、お金に対する危うさを暴いたものだ。それを「自分の
未来の姿の前兆かも知れないと気付かせる」ことが最大目的だったと彼
は言いました。しかし当時のドイツでは、演劇は観客を啓蒙しなければ
ならないという風潮が主流でしたし、現代批判としての寓話を書こうと
したエンデの手法は失敗に終わりました。
現代でこそ、こういった演劇の手法は日本でも、寺山修司以降認知さ
れるようになりましたが、残念ながらこの作品は現代に到るまで、そう
いう主題をふまえて上演されたことは一度もありません。大勢の観客は
声高に彼を非難し、「時代に鏡をつきつけようとした怒りの阿呆劇」は、
理解されないまま捨て去られることとなりました。
「始まったのです。・・・・大増殖が、でございます」。
公証人のこの言葉を契機として、フィラデルフィアの館は恐ろしい変
化をとげはじめます。相続人たちが欲に駆られ偽の遺言書をでっちあげ
たその心の醜さを映すように、あらゆるものが価値を失いはじめます。
考えてみてください。一枚のお札に二十枚の偽札が出回れば、そのお
金の価値はどうなるでしょう?お金は信用貨幣です。信用がなくなった
ときお金はただの紙くずと化し、もとは一枚の遺言書が二十枚になった
とき、遺産相続人たる価値も失われます。ちょうど政治家がお金に使わ
れて汚職をくりかえし、嘘に嘘をかさねてやがては自分の権威を失墜さ
せてゆくように、彼らもまたお金に溺れる醜態を露呈していきました。
遺言書を持ち出さぬよう扉に鍵をかけたとき、その鍵は一夜で何百に
も増えてすっかり用をなさなくなり、家の窓は癒着したように開かない。
彼らの阿鼻叫喚のさまは、間違いなく私たちのお金に対する弱さ、愚鈍
さというものを暴いているに他なりません。心の醜さを暴き立て、悲観
の極みを書くことからエンデは現実へ立ち戻る力を得ようとしましたが、
残念ながらそれを見抜ける人物は、今現在でも僅かでしょう。
劇がすすむにつれ、相続人どうしの争いはどんどん卑劣になってゆき
ます。遺産の持ち主フィラデルフィアと十名の相続人とが、血縁的にも
まったく関わりがないことが明らかになると疑心暗鬼はさらに深まり、
お互いそれを隠そうとする陰謀が火に油を注ぎます。疑いの応酬が非常
に悲劇的な筆致で記され、やがて屋敷にどこからともなく火の手があが
って相続人を襲います。
家に囲まれ炎に包まれ、疑いという火炎に窒息していくこの悲劇の登
場人物に、一切の救いはありません。心を癒す救いもファンタジーへの
誘いも、そこにはかけらも存在しません。子どもの本の作家よ、自分の
分をわきまえよ。エンデは生涯、そう糾弾されました。まともな演劇な
ど書こうなど思うな、夢は所詮夢なのだ。これはエンデにとって、手痛
い非難であったでしょう。恐らく彼は、児童文学作家と呼ばれることに、
大きな足かせを見ていたに違いありません。
この作品におけるたった一つの救いは、実は物語の最初に隠されてい
ました。館の主の名、フィラデルフィアとはギリシャ語で「兄弟愛」。
もうおわかりでしょう。この屋敷とは私たちの住んでいる世界、そのも
のなのではないでしょうか。人々が争えば争うほど、世界の論理は粉々
になり、火の手が人を灼き尽くす。エンデはそう言いたかったのかもし
れません。「受け継いだ遺産」は過去の歴史や、あるいは地球の資源、
文化、思想、どんな解釈でもできそうです。
奪い合いと裏切りが、人の世界を狭くする。私たちに欠けているのは
愛なのだ。物質至上主義が社会を覆い拝金主義が跋扈するとき、いつの
時代も必ず反旗ののろしのように、精神や心を重んじる思想や宗教が台
頭してくる、そんな社会発達論があるといいます。私たちのいのちや心
も、そんな発達論の一過程に過ぎないのでしょうか。争いがなくならな
い、平和がここに来ないのではなく、それは空のオゾンのように、あっ
ても私たちに見えないだけなのかも知れません。
現代の社会は政治で動いているのではない。実権を握っているのはお
金の論理だ。エンデは生前、なんどもそう語りました。エンデに見えて
私たちの目に見えないもの、私たちがお金に使われないすべは、やはり
一人一人が探してゆくしかなさそうです。
第9回「はてしない物語」エンデ著、岩波書店 刊
今回はエンデのファンタジーの最長作を取り上げます。
この作品は1984年に映画化されるほどの人気を博しましたが、解釈の
違いから訴訟となり、結局エンデ側が敗訴したという経緯が伝えられて
います。
ファンタジーとは何か、現実とは何か、多くの児童評論家をまきこん
だこの著書の魅力。読む人ごとに異なる作品世界の多様性を、この機会
に手に取ってみてください。
恵まれない子供たちへ、愛の手を。
地雷で足を失った人へ、募金を。
街を歩くと、そんなスローガンがあふれています。実のところ、毎日
のように見なれてしまって、もうたくさん、なんて言う不届きな主婦の
声さえちらほら。私だってそんな主婦の一人です。
しかも最近は募金活動に名を借りたあやしげな活動さえ混じると聞け
ば、財布のひもはいよいよ固くなるばかり。募金をする人たちが一生懸
命でも、恵まれない子供たちの「恵まれなさ」は、ちっとも伝わりませ
ん。まるで空想アニメを見ているように、本当のことはいつも私の目か
ら覆い隠されているような、そういう距離感。
病気になったことのない人が健康の大切さを説いても、まるで説得力
がありません。なぜでしょう?自分の身にひきくらべて、語ることがで
きないからです。地雷で足を失ったことのない人が、彼らのかわりにス
ローガンを掲げても、そこには必ずある種の「嘘」がまざってしまう。
伝える側と受け取る側の「見えない壁」が、ここにはあります。
「はてしない物語」は不思議な物語です。ひとりの少年が本を読むう
ちに物語に取り込まれてしまい、想像世界を創っていくという話です。
現実世界と夢の世界の間には、明確な壁があります。それは、肉体と
いう「壁」。夢の世界のものは見えない、現実のものは見える。とても
簡単なことです。
しかし、それなのに、どうもおかしい。たとえ地球の裏側であれ、地
雷で足を失った人がいることは事実のはずなのに、なぜそれが「嘘くさ
く」感じられてしまうのでしょう。まるで見えない壁一枚へだてている
かのように、現実味がありません。歩けない彼らの代わりに、その募金
ポスターをそこへ貼った人がいたことは間違いなくても、そんなことは
私たちの頭からすっぽり抜け落ちてしまっています。
障害者の立場にたって考えましょう。そんなことを言われても、実際
に障害者になったことがなかったら、ろくに想像さえ出来ないもの。健
康な人の意識の壁がここにあります。身近に障害者などいませんし、知
り合う機会もない。障害も病気も、生も死も、私たちの目からは覆い隠
されています。健常者と障害者の間は本来「ちょっと逆立ちをする程度」
の視点の差であったかもしれないのに、今やその間の壁はとても厚い。
それを誰も乗り越えられないと思いこんでいるところに、最初の「見え
ない壁」があるような気もします。
もうすこし辛辣なことを言えば、健常者が障害者に対しこれこれを
「やってやっている」というのも、健常者の意識の枷の一つでしょう。
しかし障害者がそう言われる屈辱に耐えたら、地雷で失った足は戻って
来るでしょうか?また逆に、ごく一部であっても障害者のなかに「やっ
てもらって当たり前」という意識の枷があれば、その両者の壁はさらに
厚いものになります。こんな見えない壁は、いたるところに存在します。
「過去がなくなったものには、未来もない。だから連中は年もとらな
い」。はてしない物語の第23章に、こんな言葉が出てきます。
この言葉が現実の何かを模したものだとしたら、いったい何でしょう。
過去のことをすっかり忘れてしまった、痴呆症の老人たちのことでしょ
うか。それとも、過去の経済システムにどっかりあぐらをかいて、自分
の利益だけをむさぼっている、一部の政治家たちのことでしょうか。
ファンタージェンを侵食していく「虚無」のように、私たちの心はど
こかで盲目なのではないか。今の政治に対しても、もしかしたら、私た
ちは何も出来ないと思いこまされているだけなのかも知れません。
第三世界の人たちが飢えた原因は、西側諸国がその繁栄のために、森
林を伐採してしまったからだ。エンデは生前、そう指摘しています。
しかしそれはたとえ事実でも、誰も気づきたくない、または気づかず
にすませられることです。エンデはこれを想像力の欠損と呼びました。
現在の経済や政治が、弱者の犠牲をつけにして成り立っているなどとい
うことは、誰も認めたくありません。社会の病巣のありかに気づく想像
力がなければ何も変えようがないのは、当然のことです。
社会を支えているのは、国家の最小単位である家族です。昨日よりも
明日はすこしだけよくなるという仕事の展望、もしくは何らかの夢や望
みが、一人の人間を支えています。しかし現代は、肝心の夢が、家族の
心が、はげしく崩壊している時代です。
心の崩壊はストレスという形をとって、強者から弱者へ、健常者から
障害者へ、大人から子供へ、企業から個人へと押し付けられています。
その狭間で自殺していった人々が、去年は3万人。
私たちの救いは、いったいどこから来るでしょうか。私たちの命を培
う力はいったい、どこから生まれるのでしょうか。歪んだ経済を改める
としたら、誰が最初の布石になるのでしょうか。
それは、私にもまだわかりません。
第10回「ゴッゴローリ伝説」エンデ著、岩波書店 刊
今回は、ゴッゴローリという地の精を主題にした戯曲をご紹介します。
エンデが幼少期を過ごしたドイツ・バイエルン地方の方言で記されて
おり、オペラの形式をとっています。1985年にミュンヘンで初演され、
成功をおさめました。
畑の豊作と引き換えに生まれ来る子の運命を売り渡す、この話のモチ
ーフは、ドイツの民話だけでなく日本の昔話にも類似したものが多く存
在します。時代を超え、国を超えて描き出される親と子の姿を、ご一読
ください。
あなたの子供を売って下さい。誰かがあなたにそう持ちかけたら、一
体あなたはどうしますか。
お金でほぼすべてのものが買えてしまう世の中。売れるものは売って
しまおう、買えるものはみな買おうと、誰もが思っています。いのちだ
って、例外ではありません。
その秘密の取引も、真夏のある夜に行われました。肌にまとわりつく
熱気にうなされたのか、それとも欲にほだされたのか、貧しい農夫のイ
ルヴィングは、地の精ゴッゴローリを呼び出します。おれは金持ちにな
り楽がしてえ、この世の喜びとしあわせがほしい。彼はそう願いました。
ゴッゴローリが引き換えに要求したものは、何だったでしょう?
畑で最初に取れた作物と、最初にさずかった子供の運命でした。
豊穣と栄華の代わりに、娘を嫁にやろう。こういった類の話は、西洋・
東洋を問わずたくさん存在します。グリム童話にもありますし、日本民
話なら「猿婿」などが、これにあたるでしょう。
むろん、これはただのお話です。悪事をはたらく地の精など、現実に
いるわけがありません。誰かが不幸にならなければ自分が幸せになれな
いかも知れないなどというのは、ただの思いこみにすぎません。事実、
これだけ悪い世の中でありながら、死んでいく人はいつも新聞の向こう
の、見知らぬ他人ばかり。他人のことなど、知ったことではありません。
それに科学万能の世の中になれば、人間に恐れるものは、何もないはず
ではなかったのでしょうか。
街を見渡せば怪談話が花盛りです。夏だからでしょうか。闇の時代と
呼ばれる、今が世紀末だからでしょうか。
でもなんだか変です。そんな虚構の物語より、最近は、毎日の新聞記
事のほうがよっぽど恐ろしいではありませんか。強者が弱者を平気で殺
し、しかも死んだことへの感慨もない。まるで、静かな戦争が行われて
いるようです。何かが間違っている、なぜか暮らしにくい。でも何故な
のか。正体の見えないジレンマは、私たちの心身を確実に蝕んでいます。
ゴッゴローリ。この作品でそう呼ばれる闇の魔物は、その理由のつか
ない暮らしにくさ、そのものだと言うこともできそうです。
ゴッゴローリに勝ちたい。ひとつぶ種の娘を、ゴッゴローリに渡して
なるものか。
そう願うあまりイルヴィングの妻は、さらに恐ろしい賭けをします。
ある魔女に銀貨を払い、ゴッゴローリを凍てつかせるための「死の小壜」
を買ったのでした。ゴッゴローリへ投げたはずのねらいが外れれば、ペ
ストで多くの人が命を落とすというその呪いを、彼女は買ってしまいま
す。そしてその最後のねらいは外れ、彼女は悪疫で命を落とします。
わが子のため他人の死さえ願うのが母親の愚かさならば、出世のため
に娘の運命さえ売るのが、父親の浅はかさでしょうか。何百年の昔から、
お金に対する人の胸のうちは何ら変わっていないのかも知れません。
天国の幸福と地上の幸福、このふたつは決して一致することがない。
・・・・一方を他方で贖うことになっているからだ。
この作品のエピローグで、そんなくだりが出てきます。
金融経済のシステムの中では、誰かが儲かれば必ず誰かが利子を払わ
されていることを、エンデは指摘しました。
どんな闇にも、魔物が潜んでいると言います。すべて数字で割り切れ
たはずの金権社会のこの闇にも、見たこともない魔物が潜んでいたとし
たら・・・。いや、そんなことはありません。すべては夢物語、空想の
産物。夢と現実を混同するようになったら、それこそおしまい。事実は
どうあれ、私が誰かを虐げて生きているなどと言われるのは、誰だって
嫌なもの。
世界のことは知り尽くしたと思っている私たち。ふと外を見渡せば、
通りすがりの小学生の元気な笑い声が聞こえてきます。今が暗い時代で
あることを忘れさせるかのよう。私たちは小学生ではないという、そこ
には単純な事実があるだけ。それだけだった筈でした。教師の体罰事件
も児童虐待もどこ吹く風、遠い世界のお話だったはずでした。
一見平和な日常の落とし穴は、とうとう人の心の奥にまで達してしま
ったのでしょうか。戸棚のなかの暗がりに意味もなく怯えながら、母親
の隠したドロップの缶に手を伸ばした幼い日。あの一瞬、ルビーよりも
光り輝いて見えた赤いドロップは、本当に子供時代だけの夢だったのか
・・・。その答えは、一人一人が探す時代になったようです。
第11回「鏡のなかの鏡」エンデ著、岩波書店 刊
今回は、1985年に刊行されたこの本の中から、第4編を取り上げます。
この作品は児童文学ではありません。30の連作短編から成った異色作
で、文壇に発表された当初はさまざまな書評が飛び交い、嫌悪感を示す
読者も少なくなかったようです。画家であった父エトガル・エンデの絵
が作品を織り成すように収録されています。
ちょうどオムニバス映画を見るようなその構成は非常に印象ぶかく、
それまで児童文学者として名高かったエンデの評価に一石を投じました。
現在でも根強い人気を誇るエンデの代表作です。
ねえ、旅行に行かない?
電話の向こうから飛び込んできたのは、長い付き合いの女友達の声。
うん、行く行く。あんまりお金はないけど、近場の駅から電車に乗って。
おいしいイタリア料理の店があるのよと聞けば、心はふわっと体から離
れて、憧れいづる思いの旅が始まります。
いつも見なれた駅の建物の、景観の美しさに目が留まるのはこんな時。
時間に追われているうちは気がつかない、そこに見えるのは普段の自分
自身の余裕のなさです。なのにそのはかない夢の隙間にも飛び込んでく
る行きずりの人の言葉。これ、作るのに何億円かかったんだっけ。
駅のホームにうずくまる浮浪者たちや、黒いスーツのサラリーマンが
立ち枯れの木立のように寒々しく見える瞬間です。
エンデの「鏡のなかの鏡」にも、駅が出てきます。
その駅は、人々でごった返しています。至るところで、お金があふれ
ています。そこは普通の駅ではありません。建物全体が紙の札束で出来
ている。石壁も柱も、山積みの「紙幣のレンガ」から成っています。非
常に印象深いシーンです。
これはいったい、何の暗示なのでしょう。国民の知らないところで高
価な施設へ税金をつぎこむ、国家への風刺でしょうか。それとも経済機
構への警鐘でしょうか。ひとたび火がつけばあっという間に灰になる、
そんな現代の危うさを描いているようにも思えます。
けれどおかしなことに、その駅にいる人たちは誰も紙の建物に気づい
ていません。しかも、あふれるほどの紙幣を握りしめている彼らはみな、
ぼろをまとっている。お金があるのに貧しいなんて、なんだか滑稽です
が、軽く笑いとばせない。何故って、私自身もそうだからです。
お金を使わずに生きている人など、現代にはいないでしょう。洋服だ
って食べ物だって、値段のつかないものはありません。けれどそんなふ
うにお金づくしで考えていくのは嫌い。自分がどんどん貧しくなるから
です。それなのに容赦なく進入してくるお金の理論。お金は真理である、
全能である。現代人の醜さをあばきたてるように、作品のなかでエンデ
は語ります。
でも安心してください。書を捨てて街へ出れば、夢のように美しい人
が一人や二人はいるもの。おそらく鏡と何分もにらめっこをして出てき
たのでしょう、一分の隙もなく流行のファッションに身を包んだスリム
な女性。風のように人ごみをすり抜けていく、耳ピアスの彼。
中にはとがった表情の人もいるけれど、誰も私よりは総じて美しい。
ああもうちょっと美人だったらよかったなあと、たいした努力もしない
で都合よく反省する私がいます。
現代に不足しているのは想像力だ、とエンデは言いました。
なりたい自分になろうとするとき、人は鏡に向かいます。口紅をひく
ときに想定しているのは「夢のように完璧なライン」。他のことに気を
とられていたり、自分で自分をごまかすような要素があると、唇のライ
ンはあっという間にはみだして無残なシミにしかなりません。
何の事はない、年中ぼさぼさした格好でうろつく私も、想像力が足り
ないのです。経済理論だって同じかも知れません。今のシステムは変わ
らない、だれもがそう思っていますが、実のところ変えたくないだけな
のかも知れないのです。みんなが等しく豊かになると言われたのなら、
もういい加減、そうなってもよいはず。なのに変わらないのは何故なの
でしょう。
この鏡のなかの鏡」には、意識の迷宮、という副題がついています。
ふつうの鏡はいくらでも手に入ります。ただ残念ながら、心をうつす
鏡というのは世の中には存在しません。この本のあとがきで訳者の丘沢
氏は「本は読者を映しだす鏡」と述べておられますが、たしかにあらゆ
る人たちが、あらゆる知識で私たちをうつしてくれるのは事実です。
法律学が、経済論が、心理学が、社会学が、宗教学者が私たち人間を
論じます。体には体の理論、国には国の理論があります。しかし誰も彼
もが自分たちの理論が正しいと主張しあい、いがみあうとき、いったい
私達個人はどうしたらよいのでしょう。
テレビの中で難解な議論を重ねる知識人たちは、毎朝身支度を整える
鏡のなかの「わたし」を、見てくれているのでしょうか。ストレスにひ
きさかれ、味方と思った知識や学歴さえ信じられず、私たちはどんどん
細分化しています。いったい、ほんとうの人間はどこへ行ってしまった
のでしょうか。けもの同士のいがみあい、肌を刺す嵐のような不快から
いのちを守ってくれるのが、経済社会の砦ではなかったのでしょうか。
台風の季節になったようです。
第12回「モモ」エンデ著、岩波書店 刊
今回はエンデの作品群のなかでも最も著名な「モモ」をとりあげま
す。1973年に刊行され、日本でもベストセラーを博しました。ドイツ
の児童文学賞を受けた物語ですが、初稿はラジオドラマとして書かれ
あまりにも現実批判的であったために陽の目をみなかった、という逸
話が残っています。
あなたの人生の総決算はゼロ。なんにもありません。
誰かから面と向かってそう言われたら、人は何と答えるでしょう。
馬鹿も休み休み言え。普通の場合なら、きっと誰でも怒り出すに違い
ありません。ただでさえ世知辛い世の中、ぶしつけな人間と付き合い
たい人など皆無です。けれど、どうでしょう、もしそれを言ったのが
財テクに詳しい銀行員であったとしたら?
頭から冷水をかけられたように、きっと背筋が凍り付いてしまうに
違いありません。いくら金利が低いとは言っても、老後のこと、子供
の教育費のこと、お金に関する悩みは誰しも同じ。少しでも多くお金
を倹約しようと思うのは当然のことです。生きがいもお金もなしでは、
人はみな途方にくれてしまうでしょう。
「時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女
の子のふしぎな物語」。今回ご紹介する「モモ」には、こんな副題が
ついています。時間の豊かさと人間らしく生きることをテーマとした
この作品は、ゆとりの時代と言われた70年代後半に全盛を博しまし
た。
この作品には、灰色の男たちという、得体の知れない人々が登場し
ます。彼らが集めるのはお金ではなく「時間」。時間を貯蓄すれば利
子がつく。睡眠も仕事時間も食事も、あなたはすべてをムダにしてい
ると、彼らは言葉巧みに説得します。恐ろしい冷気に当てられて、人
々はどんどん余裕をなくし、映画をみることも、老いた母親の世話も
読書も忘れて貯蓄に走るさまが描かれています。虚構の物語といいな
がら、このありさまは、まるで現代の私たちの日常そのまま。この本
が児童文学の形態をとっていながら、大人たちの間にも大きな波紋を
投げかけたのは、言うまでもないことです。
人の最たる目的は、成功し金持ちになることだというすりかえが、
どこかでおこっている。エンデは生前、そう指摘しました。
お金と心の問題は、目に見えないものだけに、非常にやっかいです。
しかしエンデは、ファンタジーという枠を借りながら、現代に欠けて
いるものを如実に映し出しました。
現代のお金は、すべて株式を通して増えて行くお金です。西暦元年
に1マルクを預金したら、2000年には太陽4個分の金になる。エ
ンデは現代の貨幣原理の矛盾点を突きました。お金が永遠に増えてい
くものならば、この世の中のものは何でも増えつづけなければならな
いでしょう。去年より今年のほうが物が売れるという「右肩上がり」
の経済論が、次第に力を失っていることは、誰の目にも明らかです。
もしお金が増えるとすれば、今日買ったパンは明日には増えるでし
ょうか?増えません。家具は増殖して二つになるでしょうか?なりま
せん。時間も命も、へっていくだけ。過ぎ去った思い出をお金に換え
ることはできません。思い出は形のないもの。形のないものは存在し
ないのと同じです。
昨日、半分食べたのに、今日になってみたらパンが元通りの大きさ
になっていた。グリム童話の一話に、そんな増えるパンの話がありま
す。いったい、物語の魔法にかかっているのはどちらなのでしょう。
経済学者のほうでしょうか、それとも、私たちのほうでしょうか。
こと生活にかかわる部分に関しては、お金が増えるということはあ
りえない。エンデは生前、なんどもそう繰り返しました。経済人の反
対にあい、裁判沙汰の人生を送りながら、「いのちに優しい貨幣」を
遺言して、エンデはこの世を去りました。
ところが、その遺言が、いまこのとき、現実になろうとしています。
円と共存するもう一つの貨幣の可能性が、脚光を浴び始めています。
ごく一部の地域ですが、利殖を生まない地域通貨の試験的な導入がは
じまりまっています。交換のなかだちとしての貨幣、それ以上の意味
をまったくもたないお金。まだ小さな流れではありますが、草の根の
ほうから、少しずつエンデの遺言は脚光を浴び始めています。
モモは時代の遺棄児です。現代社会からドロップアウトし、年齢も
なく自分の名も知らない、浮浪児として描かれています。
エンデ自身も幼い頃戦争にあい、不遇な家庭に育ちました。文字ど
おり何もないところから立ちあがってきた彼の作品はどれも、いのち
を見据えるまなざしにあふれています。
人の心が拝金主義のストレスと言う魔物に取りつかれて、数十年が
はやくも過ぎ去りました。
お金も時間もあるのに、この心をふきすさぶ空しさに気づいたとき、
そこには灰色の男たちがしのびよっているのかも知れません。
第13回「ハーメルンの死の舞踏」エンデ著、朝日新聞社 刊
エンデ作品のご紹介も、おかげさまで最終回を迎えることとなりま
した。今回は1993年に刊行された戯曲をご紹介いたします。筆ののり
きった晩年に記されたこの作品は、グリムの「ハーメルンの笛吹き男」
を下敷きとしています。人さらい伝説の逸話を意趣ふかく読み解き、
現代のお金の病巣にせまるエンデの想像力は、妖しい輝きさえ湛えて
今の社会のありようを描き出しています。
「常識」って何でしょう?
これは、今に生きる多くの人が感じていることではないでしょうか。
わずか20年ほど前、ただのテレビドラマでしかなかったような子殺し、
親殺しが、すでに日常となってしまいました。
ごくふつうの日常が、こんどは逆に、物語のなかにしか存在しない
という矛盾。あらゆる学問は結集され、すべての人智が開かれたに等
しい時代なのに、常識を覆すような犯罪が多発しています。
虚構と現実の違いは、いったいどこにあるのでしょう。
死の影という名のねずみ。木一本、草一筋はえないハーメルンの町
が、この作品の舞台です。ぼろをまとった人々は死を怯え、支配者の
投げ与える硬貨によって飢えをしのいでいました。
民衆は、ねずみがこの町を襲う理由を、まったく理解できぬままに
日々をすごしています。エンデはこの人々の姿に、現代の私たちの像
を描き出しました。たとえば大きな事件が起きるたび、マスコミや多
くの学者たちが、テレビの向こうでいかにも知ったような意見を繰り
広げます。しかし、だれもあたりさわりのない見解に終始し、ことの
本質を見極められる人はほとんどありません。
私たち現代人には恐ろしさばかりが先立って、事の本質が見えてい
ないきらいは常にあります。本質とは一体、何でしょうか。今の世の
中で、悪の代表格のような対象があるとしたら、それは誰でしょうか。
エンデはその見えない魔物のことを、「大王ねずみ」ゲルトシャイ
サーとして描きました。本書の解説によれば、金をひり出すこの怪物
は中世のころから知られたイメージと述べられています。いわば空想
上の生物、というところでしょうか。さまざまな人間の思惑が複雑に
からみ、事態がもつれて見通しのきかない状況、それを「大王ねずみ」
と表現する。現代の政治や経済システムを、エンデは狡猾で醜いねず
みの姿へ具象したのです。
現代の賢者と言われたエンデは、生涯を通じて、お金に支配された
精神の解放を訴えました。確かに、何もかもお金中心に考えてしまう
傾向は、この世界に住む私たちの誰にもあります。
1マルクを2千年の間預金した人は、太陽4個分の金が手にはいる、
それなのに毎日8時間の労働をした人では2.5メートルの金塊しか
買えない。エンデはお金が商品になってしまうことの矛盾を指摘し、
投機に用いられる貨幣とは別の、利子を生まない「いのちのための」
貨幣の共存を唱えました。すでに死没して5年を経たエンデの「ポジ
ティブなユートピア」が、今、小さくはありますが確かな足取りで、
人々の夢を暖めています。
モラルに裏打ちされたエンデのファンタジー世界は、かつて、モラ
ーリッシュ・ファンタジーと呼ばれました。目に見えず、証明するこ
ともできず、お金でも物でもはかることができない。あらゆる虚構が
語り尽くされてしまったこの世紀末に、子供のための空想物語という
夢のように不確かな世界が、「常識」の概念を支えようとしています。
「無は力」と述べたエンデの遺した夢が、一人歩きをはじめました。
この作品では、笛吹き男の結末だけが、ふつうのグリム童話とやや
異なっています。
ねずみ退治による正当な報酬を受け取れなかった笛吹き男は、笛の
力で子供たちを招き寄せ、異世界へといざないます。が、男はもう笛
で子供たちを導く力を残していません。集まった子供に引かれるよう
に歩き、扉の向こうへ入る前に、最後は石になって砕け散ってしまい
ます。子供たちが歩みさるカルヴァリーの丘の裂け目、彼岸の世界を
どう読むかは、この作品には記されていません。おぞましい死の世界
と取るか、それとも桃源郷と読むかは、読者個人の自由に委ねられて
います。
砕け散った笛吹きは、ファンタジーの復権を見ないまま逝ったエン
デ自身の姿なのでしょうか。文字通りこの世界には、エンデ、終わり
という名の墓標だけが残され、彼自身の肉体はとうに滅びさってしま
いました。しかし生前の彼の声は、本の扉の向こうにいまも変わらず、
生き永らえています。
とうに死にかけた世界と、死んだ作家の墓標。そこに次なる新たな
いのちをふきこむのは、他ならぬあなた自身かも知れません。