| ミヒャエル・エンデ 年譜 | |
年齢は満年齢。ドイツの学校は9月で進級する。エンデは11月生まれなので、
進級当時の実年齢は表記より1歳下になっている。
1929年 0歳 11月12日午後5時15分、南ドイツ・バイエルン州ガルミッシュ・
パルテンキルヒェンにて、父エトガー、母ルイーゼの長男として誕
生。ミヒャエル・アンドレアス・ヘムルート・エンデと名付けられる。
高齢初産であった為帝王切開で生まれた。難産であったという。
父は画家、母はレースアクセサリと宝飾の店を開いていた。
出生体重は4.5キロ、高価なアラビア・レースの洗礼服が小さくて
入らず、両親は教会での洗礼式を断念した。
1931年 2歳 ミュンヘン郊外パージングへ転居。父の絵の売れ行きがよく、
一家の経済状態が安定する。
近所に住むブーフナー家の子供たち、そしてそこに住む画家の
ファンティに出会う。ファンティは子供たちに様々なメルヒェンを
語り、スケッチをえがいて見せた。
ミヒャエルは彼から、メルヘンを語るということを自然に倣い覚えて
ゆく。
1932年 3歳 ミヒャエルをモデルにしたデッサン画をエトガーが素描。
彼は退屈して泣き顔の肖像画が出来た。
1933年 4歳 貧しいサーカス団がブーフナー家で冬越しするさい、子供たち
に綱渡りの芸や手品を披露する。サーカスやその芸人たちへの愛
情が培われた。
1934年 5歳 いたずらっ子であったミヒャエルはブーフナー家の息子とふたり、
退屈紛れにタールを燃やし、裏の森が全焼。
父エトガーがナチスの文化政策をこばみ、「帝国文化会」の会員に
ならなかったため、芸術活動を制限されて経済状態が悪化し始め
る。
1935年 6歳 費用の安いミュンヘン市内のカウルバッハへ転居。
第三帝国時代へ突入し、徴兵制度が義務化される。
ミュンヘン近代美術館で、エトガーの絵が帝国文化省御用達の評
論家から「無用の長物」と断じられる。
1936年 7歳 ヴィルヘルム小学校入学。学業のほうはふるわなかったらしい。
家庭では経済事情の悪化からいさかいをくりかえす両親の仲裁役
であった。1年生の教室で、アントロポゾフィー思想の持ち主であ
るリーゲル先生に出会う。
父エトガーが帝国文化院より絵の具購入許可証の購入を拒否さ
れ芸術活動の停止を命ぜられ、作品の展示も禁じられる。
1937年 8歳 ウィリーという幼ともだちが肺炎で死去。初めての友の死にミヒャ
エルは号泣したという。ふとって茶髪のこの少年は、のちに「はてし
ない物語」バスチアンのモデルに再現された。
魚やカメ、トカゲなどの小動物を飼うようになり、バイエルンにある
友人の家で夏休みを過ごすのが以後4年間つづく。この時に見た
バイエルンの習俗と衣裳がのちに「ゴッゴローリ」をうみだすきっか
けとなった。「ドリトル先生」全巻を熟読、その世界に魅せられる。
「頽廃芸術」措置により美術館と画廊所有のエトガーの作品没収
される。ルイーゼ、医療体操とマッサージの免許を取って家計を支
えた。
1939年 10歳 第二次世界大戦開始。生活状態悪化。
わずかに絵を買ってくれる人々の好意で辛うじて生活する。
州立美術館の館長が、重要絵画疎開のおりにエトガーの作品も
疎開させ、戦火を免れる。ミヒャエルは父とともに「蝋人形のよう
な」ヒトラーを目にした。
父が古い衣裳戸棚に「4つの悪徳」の絵を描きミヒャエルへ贈り物
とした。
1940年 11歳 マクシミリアン・ギムナジウムへ入学。2月、父エトガー召集され、
高射砲部隊へ。
1941年 12歳 ギムナジウム1年生で落第。留年となり、イザール川で自殺を思
い詰める。
1942年 13歳 ヒトラー・ユーゲントに入るかわりに乗馬訓練の許しを得て、
馬との生活にいそしむ。サーカスの調教師だった老教官から荒っ
ぽい訓練を受けた。
1943年 14歳 ミュンヘン市内の空襲が激化し、学童疎開。疎開先は奇しくも
生まれ故郷のガルミッシュだった。ミヒャエルはクラマー館に学
び、優等生の学友・ボカリウスに刺激を受け詩作を始める。
7月末の夏休み、ハンブルクの伯父を訪ねて大空襲にあう。
1944年 15歳 カウルバッハ通りの住居が爆撃され、エトガーの油絵ほか800
余点がすべて焼失。7回におよぶミュンヘン集中攻撃で、13万個
の爆弾が炸裂した。
1945年 16歳 終戦まぎわの召集で、友人たちが国防軍に徴兵される。一日
訓練ののちヘルメットと銃だけで前線に送られ、初日に学友3名が
戦死。召集令状を受け取ったミヒャエルはそれを破り捨て、ガルミ
ッシュからミュンヘン郊外プーラハに疎開していた母のもとまで、
約80キロを夜だけ歩きつづけ逃げ帰る。
「バイエルン自由行動」という反ナチス抵抗組織と接触し、3月の
終戦まで伝書係りとして爆撃の町を駆け抜けた。
エトガーはアメリカ軍の捕虜となった後解放されて復員。画家で
あるリヒャルト・シュミッツのすすめで、シュヴァービングのレオポル
ト通りに住まいを提供され共同生活が始まる。
シュタイナーの思想に基づく「キリスト者共同体」の集まりに出会う。
1946年 17歳 ギムナジウム授業再開。シュタイナーのキリスト者共同体に出入り
する日々が続く。3年年上の少女と恋しあったが彼女の結婚を期
に、彼女の両親が二人の中を裂くためシュタイナー学校にエンデ
を送り、授業料を負担してくれた。
戦時中の強制収容所の実態が次第に明るみに出はじめる。
1947年 18歳 4月15日、シュトゥットガルトのシュタイナー学校に転入。
クロプシュトック下宿に居を構える。演劇に傾倒し、アメリカンハウ
スの屋根裏を借りて仲間たちと「屋根裏劇場」をつくる。
コクトーの「オルフェ」を翻訳上演。広島に捧げた処女戯曲「時は
迫る」を書く。
1948年 19歳 6月、通貨改革で40マルクを得、念願のギターを購入。
卒業試験を前にシュタイナー学校を退学。ミュンヘンのオットー・
ファルケンベルク演劇学校を受験、合格する。
演劇の道に進む理由をきかれ、本来は戯曲を書く勉強をしたい
が経済事情から俳優を志したと述べたところ、合格したばかりでな
く授業料は免除され、月200マルクの2年間の奨学金を得ることが
できた。
1949年 20歳 ラジオを通して、のちの伴侶となるインゲボルグ・ホフマンの朗読
を初めて耳にする。ジャズ・カンタータ「黙示録」の初演であった。
ブレヒトの演劇論に出会うが、舞台への障害もまた感じはじめる。
エトガー、絵画展への出品が許可される。ミュンヘン芸術の家美
術館の館長となるが多忙を極め、絵の作成が思うようにはかどらな
くなる。
1950年 21歳 3月、演劇学校を卒業。適性を「夢想家肌の恋人役」と記される
が、仕事の口が舞い込んだのは9月も終わりになる頃だった。レン
ズブルク市の劇場で1シーズンだけ舞台に立つ。称号とは関係の
ない端役ばかりだった。第2作目の戯曲「サルタンの二乗」執筆。
父エトガーは後の愛人、美大生ロッテ・シュレーゲルと知り合う。
1951年 22歳 レンズブルクでの契約が切れ、ミュンヘンに戻る。わずかな給料
の残りでウイスキーとコニャックを買い、父のアトリエに演劇評論家
などを招いて「サルタンの二乗」を朗読するが、戯曲には何も関心
を示されなかった。
大晦日の夜、年越しパーティーで8歳年上のインゲボルグ・ホフマ
ンと知り合う。
1952年 23歳 インゲボルグの口利きでミュンヘンにいくつもあったカバレット
(寄席)のために歌や小劇を書き、わずかな収入を得る。
1953年 24歳 父エトガー、息子とほぼ同じ年頃のロッテ・シュレーゲルと同棲
を始める。母ルイーゼは絶望し、絵に切りつけたり自殺を図ったり
した。ミヒャエルは母に絵を描かせて精神的なささえとなり、乏しい
収入で母を養った。ルイーゼはやがて個展をひらくまでに回復し、
ミヒャエルはイタリアのサン・アンドレアに取材の旅にでかける。
1954年 25歳 バイエルン放送局で以後6年間、定期的に映画評の番組を受
け持つ。この仕事もインゲボルクの口利きであった。
黒沢明などのすぐれた日本映画に接し、目を開かれる。
1955年 26歳 ストリンドベリの作品を研究し戯曲「醜い者たち」を脱稿。
1956年 27歳 父との和解。文学や美術について夜を徹して語り合う日々が
続いた。
1957年 28歳 ブレヒト理論による演劇脚本執筆方法に絶望し作家への道を
諦めかけたとき、グラフィックデザイナーとなった学友に自宅近くで
出会い、絵本の共同製作を持ちかけられる。
1958年 29歳 絵本のつもりで筆に導かれるままに書いた作品がいつのまにか
原稿500枚の大作にふくれあがり、10ヶ月後には「ジムボタン」と
なり完成。本屋の店頭でチェックした児童書出版者宛に原稿を送
っては返送される日々がはじまる。
1959年 30歳 ラフカディオ・ハーンの独訳作品集を通し日本の怪談に魅せ
られ、「牡丹灯籠」をもとにラジオドラマを書くが採用されない。
1960年 31歳 完成後2年を経て、原稿がティーネマンス社に認められる。
2冊に分けるための多少の手直しを条件に、出版が決定。
1961年 32歳 7ヶ月の家賃滞納によりアパート立ち退きの訴訟を起こされてい
たところへ、「ジムボタンの機関車大冒険」がドイツ児童文学賞を
受賞したとの連絡をうける。受賞後6週間に渡る巡業朗読、人形
劇としてのテレビ放映などで生活の安定を得る。ヘルツォーク通り
のアパートへ転居。
1962年 33歳 アインミラー通り13番地のアパートに転居。
1963年 34歳 生活の心配がなくなり執筆に専念する。戯曲「遺産相続ゲー
ム」執筆開始。
1964年 35歳 インゲボルク・ホフマンとローマで結婚。
1965年 36歳 12月27日早朝、2度目の心臓発作のためエトガル急死。64歳。
1966年 37歳 「遺産相続ゲーム」脱稿。
西ドイツ放送局の依頼でテレビ・ドラマ用の構想として「モモ」が生
まれるが、余りに現実批判的だという理由で採用されない。
1967年 38歳 「遺産相続ゲーム」フランクフルト市で初演。演出家が戯曲の
内容をまったく理解せずひどい出来で、ブーイングの嵐が続いた
という。新聞や雑誌でも酷評された。
1968年 39歳 ミュンヘン南方約30キロの村ファライの村の、法廷だった建物
を住居として改造し、転居。
1971年 42歳 南イタリア、ジェンツァーノに移住。「モモ」完成を決意。
1972年 43歳 「モモ」完成。ティーネマンス社の当時の社長は難色を示した
が、社長の息子(現社長)のとりなしで出版が決定。
センダックの挿し絵を望んだが果たされず自筆のペン画を挿し絵
とする。
1973年 44歳 6月25日、母ルイーゼ・エンデ死去。81歳。
1974年 45歳 「モモ」が1票の差でドイツの青少年文学賞に決定。
1975年 46歳 作曲家マーク・ロタールのために、オペラ台本「モモと時間どろ
ぼう」を執筆。
1976年 47歳 「サーカス芸人のメルヘン」初稿が完成。原語での出版にさき
がけて、「子どもの館」1978年1月号福音館書店に翻訳発表。
1977年 48歳 訪日。東京・京都中心に約半月滞在。能や歌舞伎鑑賞、弓道
場訪問、禅寺での老師との対談などが物語の構想に強い影響を
与える。佐藤真理子氏が旅の伴侶をつとめた。
1979年 50歳 「はてしない物語」3年がかりで脱稿。秋の発刊と同時に大好評
を博す。
1980年 51歳 「はてしない物語」「モモ」がベストセラーとなる。国内外の文学
賞授与、各方面からのインタビューや朗読会の申し込みが殺到。
彼はこの騒ぎをかえって負担に感じ、精神的・物理的に深い痛手
をこうむることになったという。
1981年 52歳 10月末「はてしない物語」が、ヤヌシュ・コルチャック賞受賞。
授賞式のためワルシャワを訪れる。賞金は彼の意思で当地の児
童施設に寄付された。
この賞は、ナチス・ドイツの迫害の犠牲になった子供たちのため
に自らの脱出の機会を見送り殉死したポーランド人教育者を記念
して設立された賞で、彼はこの受賞がことのほか喜びだった。
1982年 53歳 「はてしない物語」映画化の権利を巡り、制作者がわの意図に
気づかず契約書にサイン。彼の承認した監督と脚本が斥けられ、
別の監督が別の脚本で撮影を始めていたことを知ったエンデはミ
ュンヘンに駆けつけるが、撮影所への入場を拒否される。
1983年 54歳 10年来書きためた短編に加筆し、さらに新たに書き足して「鏡
のなかの鏡」完成する。
1984年 55歳 抗議を無視して制作された映画「はてしない物語」公開。
エンデは原作とかけ離れているとして最終シーン削除のために訴
訟に踏み切り、原作者の名を削るよう要求。
1985年 56歳 裁判がエンデ・ティーネマン側の敗訴に終わる。
2月、バイエルン方言によるオペラ「ゴッゴローリ伝説」がゲルトナ
ー劇場で初演。3月27日、肺浮腫により妻インゲボルグ逝去。
「はてしない物語」のローマ上演を参考のために見ていた折の発症
だったという。享年64歳。
6月、14年間住みなれたイタリアを離れミュンヘンへ戻る。
7月22日、朝日ジャーナルのインタビューの場となったミュンヘン
で子安美知子氏と対談。
1986年 57歳 映画「モモ」完成。
8月、国際児童図書評議会(IBBY)東京会議出席のため1週間、
日本に滞在。12月16日、伯父であるヘムルート・エンデ逝去。
84歳。
1987年 58歳 11月24日、「エトガー・エンデ展」ミュンヘン市立レンバッハ美
術館で開催。
1988年 59歳 1月16日、プリンツレゲンテン劇場にて「スナーク狩り」初演。
同時期に「エンデ・ヒラー展」がゲルトナー劇場で開催。
1989年 60歳 3月〜4月、エンデ父子展のため来日。9月、佐藤真理子氏と結婚。
1990年 61歳 3月、NHKスペシャル「アインシュタイン・ロマン」撮影。
7月、夏期大学講師としてマドリッドに滞在。
1991年 62歳 「アインシュタイン・ロマン」撮影。8月、ミヒャエル・エンデ展示室
を常設する信濃町黒姫童話館が開館する。
1992年 63歳 3月、定期健康診断で食道炎の診断。10月〜11月、「モモ」百
万部記念で日本滞在。これが最期の訪日となった。滞在中、黒姫
童話館訪問。
1993年 64歳 6月、ウルム大学病院で胃潰瘍の診断。入院。退院後バード・
テルツで療養。
1994年 65歳 6月、ウルム大学病院でガン細胞発見。ミュンヘン大学病院で
手術。2週間入院、カトリック系私立病院ヨゼフィスムに転院し2週
間療養。8月、抗ガン剤治療開始。
1995年 66歳 1月、抗ガン剤治療終了。副作用で全身に湿疹ができ、皮膚科
に入院。
4月、抗ガン剤が効かず、これ以上治療法がないことを主治医から
宣告される。
5月、シュトゥットガルト近郊のフィルダー病院で人智学的療法に
よる長期治療開始。
7月末、食事がとれなくなる。フィルダー病院再入院。
8月28日午後7時10分(日本時間29日午前2時10分)永眠。65歳。
9月1日 ミュンヘン市「森の墓地」に埋葬される。別れの音楽はゴ
ッゴローリのフィナーレの混声合唱であった。「生は短くじきに死が
くる、にもかかわらずそれは天の恩恵」と歌われたという。
11月12日 ゲルトナー劇場で追悼式。
*傍注*
ペーター・ボカリウス 1929年生まれ。ジャーナリスト。エンデとは43年以来
の学友であり、作家・音楽評論家などの多彩な活動を行っている。
エトガー・エンデ 1901年〜65年。画家。暗室のスケッチと呼ばれる独自の
創作活動から、多くのシュールレアリスティックな作品をえがいた。第二次
世界大戦時にはナチスによる頽廃芸術の烙印を押され、活動弾圧の憂き
目にあった。
ルイーゼ・エンデ 1892年〜73年。旧姓バルトロメ。9歳年下のエトガーと
1928年に結婚、同年にミヒャエルを出産。エトガーとは後に離婚している
が、息子の薦めで60歳をすぎてから絵を描き始めた。ナイーブで幻想的
な画風で、個展などもひらかれるまでになったという。黒姫童話館には彼
女が息子のために描いた小箱が展示されている。
ルドルフ・シュタイナー 1861年〜1925年。人智学の創立者。オースト
リア=ハンガリーの生まれで、プラトン哲学・アリストテレス哲学・ゲーテ自
然科学をとおし人智学を樹立した。
スイスのドルナッハのゲーテアヌムに人智学協会を設立し、教育・医学・
農業・芸術・社会論などの分野で活躍。日本にもその支部がおかれ、さま
ざまの活動を行っている。
ゲーテアヌム
ゲーテの業績と世界観から生み出され、アントロポゾーフ
(人智学信望者)へ捧げられた建造物。完成当初はヨハネス建築と名付
けられた。スイス・ドルナッハのそれは相互に組み合わさった二つのドー
ム(丸形屋根)からなっており、思想の姿が体現されている。
森林墓地(Cemetery Waldfriedhof Muchen)
ミュンヘンU6 lineの、
Holriegelskreuthの駅より右へ500mのところにあり、徒歩10分程度。
墓の番号は:Old Part Field 212 - Waldgrab Nr. 3。ブロンズの墓碑
で、比較的見つけやすいとのこと。なお本情報はMunich_Tourist_Office
より入手していただきました。
このページの作成においては、黒姫童話館発行「童話の森通信」vol.1および
vol.10、ペーター・ボカリウス著「ミヒャエルエンデ物語の始まり」(朝日選書)、
安達忠夫著「ミヒャエル・エンデ」(講談社)、画集「エンデ父子展」(朝日新聞社)
以上5冊を参考と致しました。
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