学校教育とエンデ作品


現在の学校教育界へ寄せて〜モモのように〜

 現在の教育界の状況を考えると、どう見てもエンデの作品はおろか、読書そのものさえ
二の次、三の次の扱いだろうと思えます。学級崩壊、殺傷事件などが多発する中、教育
現場で落ちついて本を読むことなどほぼ不可能に近い、というのが真実のところでしょう。
 気弱で大人しい子が我慢に我慢をかさね、大人の機嫌をうかがいながらすごし、ある日
突然暴発する。ある子は教師を刺し、ある子は発作的に自殺する。あるいは学校と親との
板ばさみになった教師が、心のバランスを崩してドロップアウトしていく。
 ストレスを押しつけあう弱肉強食社会の縮図が、教育現場に噴出しています。


 エンデ作品でベストセラーになった「モモ」、その少女のように、いのちの声に聞き耳を
立てることを、もうだれもしなくなりました。大人は大人同士で無関心を装い、それをそっ
くり鏡に映す形で、子どももそれぞれの生に無関心になってゆきます。
 どんな高等な理論も、ディベート慣れしない日本人の間では、ただの体を張ったのの
しり合いにしかなりません。力まかせに暴言を吐いたほうが勝ってしまうことが、あまりにも
多すぎる。これは議論ではありません。ただのケモノのいがみ合いにすぎません。
 対策の結論も見ないままの、「からっぽ言葉」でのやりとりは、私にはケモノの咆哮にし
か聞こえません。ストレスの押し付け合いは、何も生みません。そしてその犠牲になるの
はいつも決まって「弱者」。弱い子が暴発して教師を刺した瞬間、その子も強者になり代
わります。もの言わぬ何万の「モモ」たちが、今日も咆哮の犠牲になっていのちを縮め、
心を枯らしています。


 本は子どもの頭を殴るための道具ではありません。知識を読むためのものです。
 人権やモラルは言葉で説くものではありません。家庭で育まれて当たり前のものです。
 水や土と同じです。強い雑草だけが幅をきかせれば、土は痩せます。雄弁で健康で金
欲づくしの政治家が日本を牛耳れば、心の大地の枯渇は見えないところで侵攻します。
 親は我が子を殺されたいために学校にやっているのではありません。殺人者にしたくて
育てるのでもありません。大人と大人、教師と親の責任のなすり合いの狭間で、子どもは
無関心にさらされます。泣くのはいつも子どもです。子どもの姿をしたいのち、大人のなか
の子どもです。子どものなかの子どもです。胸の底のもの言わぬ花です。

 「モモ」は孤児です。時代の遺棄児です。モモは、私たちです。
 遠い昔おさない頃、小さな冒険と孤独の恐怖、親の叱責のなかから次第に社会を知り、
友を知り、失敗をも喜びとし、相手のいのちを重んじつつ自分で行動する喜びをつかんで
いった日のことは、とうに誰もみな忘れてしまいました。
 晴れた日には輝く子も、雨の日にはしおれて咲く。晴れた日の花を誉めることは容易で
す。陽のささない心の根元で痛んでゆく魂の空腹と荒廃は、モモの死を招きます。

 子どもが異界に住んでいるのではありません。子どもたちのささいな悪戯にさえ険悪に
なり、わずかなユーモアにさえ疑心をまねくほど、荒んでしまったのは大人たちの心のほ
うではありませんか。みどりの草がどこにでも咲くように、ファンタジーの入り口、心の
オアシスはどこにでもあります。モモはどこにでもいます。
 目の前で殺されていく子どもは、もう一人のモモです。あなたのそばで硬く乾いた表情
をした大人も、時空をこえて存在するモモです。盲いているのは私たちの心です。
 子どもたちも、大人の童心さえも、地球ではない遠い何処かへ追いやってしまったのは
誰でしょうか。子どもが一人もいなくなる日、それは明日かも知れません。
 荒れ果てた夢の奥地を再建するために、モモの住まう円形劇場へ足を運んでください。
(文責:森陽子)




中高生感想文


<中学校の部>

「モモを読んで」  長崎県長崎市 私立活水中学校3年   福冨 貴子

「モモ」        熊本県天草郡 有明西中学校1年   住吉 春菜

<高校の部>

「はてしない物語を読んで」   長崎県長崎市 私立活水高校2年  米川 真代

「自由の牢獄を読んで」     長崎県長崎市 私立活水高校1年  矢島 香里



高校生の学習ノートより

 長崎の私立高校 活水高等学校に置いて、国語科の授業の一端として
「はてしない物語」を通年で読み込むという試みが行われました。
 この授業は高校2年生を対象とした国語表現グループ(通年全40時間、
2単位、選択授業)18名により行われたものです。国語科の岩永克子教諭
のご協力により、当時の資料の掲載許可を戴きました。尚、文中の表現や
生徒の学習ノートにつきましては割愛・抜粋を行っております。
ご了承ください。
 学習の流れなど教材的なことを知りたい方は、こちらをご覧下さい。

 本項は教育者のための研究、読者のための資料として設けております。
記述内容などをみだりに転載/濫用することはおやめ下さい。


*ファンタージエン国の危機とは具体的に何をいうのか
 国のあちこちが虚無に支配されていき、その虚無が何か反抗できない引
力を持ち、その場所が広がれば広がるほどその力も強くなること。また、幼
ごころの君の原因不明の病による衰弱。

*イグラムールは現代社会のどんなことと似ているのか
 多くの腹黒い政治家達の集まり。私利私欲に走りあらゆる政党に変わり、
 より自分のためへと動く。

*虚無の恐ろしさはどういう点にあるか
 虚無に侵されることに慣れ、虚無に飛び込みたい欲求に強く襲われるよ
 うになること。つまり人間を盲目にする虚偽や間違った考えが氾濫する中
 で、 いつしかそれに慣れ気づかぬ内に染まっていってしまうという恐ろし
 さ。

*「汝の欲することをなせ」とはどういうことを言っているのか
 自分の真の意志を持たなくてはならないということ。往々にして自分が本
 当に望むことは無意識下にあることが多く、また表面的な快楽の伴うよう
 な欲望が多いため、真の意思に気づくことは難しい。
  あらゆる欲求の中で多方面に渡って有意義なこと、また正しい欲求つ
 まり自分の良心に基づくような事を私利私欲だけにとらわれることなく行
 うこと。

*アイゥオーラおばさまの頭の実の意味と、おばさまが枯れた理由
 バスチアンがファンタージェン国にやってきた瞬間、アイゥオーラおばさ
まは、(それまでの)枯れていた姿から新しい芽を出し始め、今のアイゥオー
ラおばさまの姿になったのだと思う。
 アイゥオーラおばさまの頭についているたくさんの種類の果物は、バスチ
アンがこれまで生きてきた中での思いや、望みであると思う。例えばそれは
「期待」であったり何かへの「憧れ」であったり、「悪い望み」や「善い望み」、
家族皆で旅行したときの「想い出」など、バスチアンが抱いた色々な気持ち
や望みが形となって現れているのだと思う。
 そして、それらの果物の味が一つ一つ違う味をしているのは、それを経験
した時にそれぞれ違った思いがあったからだ。アイゥオーラおばさまが頭の
「果物」を食べなかったのも、そういう理由だと思う。
 アイゥオーラおばさまが必要だったのは、自分がつけた実(自分が芽を出
すきっかけを与えた人間の色々な思いや望み)を貰ってくれる人だった。そ
して、バスチアンの今までの望んだことや、感情や思いなどがアイゥオーラお
ばさまが枯れないために必要なものなのである。
 ところが、バスチアンが「愛すること」という最後の望みを見つけだした時、
バスチアンはもうこの望み以外の望みを持つことはなくなり、おばさまは枯れ
てしまったのだと思う。そして誰かまたファンタージェン国にやってきたとき、
枯れてしまったアイゥオーラおばさまは新しい芽を出して、その人が彼女の
「実」を食べに来るのを待っているのだろう。

*アイゥオーラおばさまはなぜ枯れなければならないのか
 アイゥオーラおばさまと変わる家は、私たち一人一人のこころの中にあると
考えています。私たちは、自分の道を歩く途中多くの困難に出会い、自分を
見失うことがあります。そんな時、私たちは自分の心の「変わる家」へと帰り
休むことができます。では、そのアイゥオーラおばさまは私たちにとって、何
を意味するのでしょうか。
 おばさまはたくさんの花や実で出来ています。その実や花とは、私たちが
今までに経験して学んだものなのです。今の自分に必死で、今のことしか見
えなくなると自分の在り方がわからず、どうしようもなくなります。そんな時、今
まで自分が経験したことによってできた実を食べるのです。そして、とても新
鮮な気持ちになったり、懐かしく感じたり、心が温かくなったりするでしょう。そ
うしてまた見失っていた自分を取り戻すことができ、自分自身を支えることが
できると思います。
 しかしいつまでも過去に捕らわれていてはいけません。自分の道が見つか
ったのなら、過去は過去の経験として考え直し、またいつでも帰ってこれるよ
う新しい経験をし、実をならせなければいけないのです。おばさまが枯れなけ
ればならない理由は、いつまでも過去の経験を引きずるわけにはいかないか
らです。しかしまた新しい体験をすればおばさまの芽が出始め、たった一人
の訪問者である私たちを待ち続けるのです。

*ファンタージエン国へ行ってまた戻ってくる人たちが、人間世界を健やか
にすることができるわけ

 バスチアンがもとの世界に帰りたいと思い、アイゥオーラおばさまに会った
とき、彼は愛される喜びを知った。それと同時に自分も人を愛したいと思う
気持ちが芽生えた。これは今まで自分の欲望のままに行動していたバスチ
アンに大きな変化を与えた。そんな時彼はアトレーユの友情を知った。友を
信じることとその難しさを知った。ファンタージェンでの辛い経験により、愛す
ることには勇気と強さが必要だという事もわかった。
それは、ファンタージェン国=物語と、人間界=現実とを同時に愛するた
めに必要なものであった。ファンタージェン国から人間界に戻ることができ
た人は、この真の意志を自分の物として持ち帰ることが出来た人である。そ
の意志を、愛することのすばらしさを伝えることで、心の潤いと純真な心を、
夢をなくした人々に呼び戻すことができる。人々がファンタージェンの存在
を信じたとき、人を嫌ったり苛めたり、お互いに争い戦争をすることのない
平和な世界ができるのだ。
 ファンタージェンに行った人は、その世界のすばらしさを気づかせる存在
であり、人間界を豊かに出来る存在である。




中高生読書感想文より


「モモを読んで」  福冨 貴子


 私は、この本を読み終えたとき、時間には二つの種類があることを知りました。
一つは目に見える時間です。例えば、時間がたつと食べ物が腐敗したり、動物が老いていく
ことがそうだと思います。それは、目に見える物が、変化していく時間です。
 もう一つは、目に見えない、心が変化していく時間だと思いました。私たちには、常に過去
に失敗したことや、成功したことを、現在に活かしている部分があると思います。そうしながら
自分を高めていきます。それが心が変化していく、心の時間だと思います。そして、自分の本
当に好きな事、大切なことをする時間、又、自分の生き方や、進んでいく道、つまり目標を決
める時間でもあると思います。

 生きていく上で、目標があるということはとても大切なことだと思います。「モモ」に出てくるフ
ージー氏は、床屋です。その仕事を始める前には、フージー氏なりの目標があったと思いま
す。でもそれがしっかりとしていなかったために、「おれの人生は失敗だ」と、後悔しました。
この時、灰色の男が現れました。しっかりとした自分の目標をもっていないとき、灰色の男達に
一番時間を盗まれやすい状態です。でも、私はこの時に、後悔することも新しい自分のみちを
見つける上で大切なことなのではないかと思いました。その時に、何も考えずにただすごして
いるということが良くないのであって、自分がどういうふうに生きていくか悩んでいるときは、決し
て無駄な時間をすごしていることにならないのではないかと思います。

 私はこの物語を通して、心の中の時間がどんなに大切なことかを知りました。周囲や、他の
人にまどわされない自分の時間、目標を持つことはとても大切なことだと思います。しかし、そ
の目標ばかりにあこがれて、その日を無駄に過ごすことは良くないと思います。私も、自分の
目標を見つけて、それに向かって一生懸命生きていきたいと思います。




「モモ」  住吉 春菜


 私はこの本を読んで「時間」とは私達の心の中の、人間らしく生きるためのものだということを
教えられたような気がした。
 モモという女の子。この子は、名前も自分でつけ、生まれも知らない。でもモモと話をすると
だれでもが不安がきえ、たのしくなる。モモにはそんな不思議な力があった。

 周りには子供達がたくさんいて、毎日毎日自分達で遊びを作っている。私は(こんなことが
現代の子供にできるだろうか)と考えてしまった。
 今の私達は、遊びを考える前に、テレビがある、ゲームソフトがある、パソコンがある、ほか
にもいろいろな道具がある。テレビでは、映像が出てくる。これで私達は話を聞くと想像しなく
てすむ。それで想像することを忘れてしまう。テレビに出てくる映像はだれか一人の人が想像
したイメージなのだ。だから本当は5人が話を聞いたら、5人ちがったイメージが頭にうかんで
こなくてはいけないと思う。

 私は遊びに道具なんかいらないと思う。遊びというものは、自分達が楽しめればいいのだと
思う。しかし、ゲームソフトなどの、作られた遊びでは、本当の楽しさ、を感じ取ることができな
いと思う。もっと自分たちしか知らない遊び。頭を使って想像し毎日毎日楽しく、おもしろく変
わっていく。こんなふうにしていけば、道具は自分の頭だけで充分だと思う。けれどやっぱり
自分達で遊ぶことも、想像することも忘れていくと、灰色の男達が来て、時間はどんどんぬす
まれていくのだ。そしてゆとりがなくなってくる。

 毎日毎日、いそがしく働いている。そんな時、モモは「時間の花」を見る。「時間の花」とは
人間が一人一人もっている殿堂なのだ。それは、人間が心をもっているからである。しかし、
灰色の男を入りこませてしまうと、どんどんとうばわれていってしまうのだ。
 私は読んでいるとその花が頭の中にうかんできた。それはとても美しく、ちょうの羽のような
色で、言葉では言い表せないくらいだった。そして美しいメロディーが流れてくる。・・・・人々
を安心させてくれる幸せのメロディー。モモはそれを歌うことができたのだ。私はとてもすばら
しいことだなと思った。心を幸せにしてくれる。モモにしかできないことだった。

 モモはこんなふうにたくさんの想像と、どこまでもきれいな心で灰色の男達をたおした。だが
本当は、人間が自分達で灰色の男達をつくったのだ。ひまがない、ひまがない。といいながら
大事なことは何一つしていない。灰色の男達はこう言っていた。
「時間節約こそ幸福への道」
「時間節約こそ未来がある」
「君の生活を豊かにするために−時間を節約しよう」。
 こんなことは大変おかしい。時間は後からなんて使うことのできない、今しかない時。節約な
んて、できないものなのだ。けれど人々は灰色の男達の言う通りになってしまう。それで彼らは
いつも不機嫌で、とげとげしい目つきをしていた。

 現代の私達にも、lこれに近い人がいるのではないだろうか。
 こんなふうになってしまうと、楽しい祭りができなくなり、本当の祭りもできなくなってしまうのだ。
私達人間には、いったい何のために時間があるのか、どうするために時間があるのか。それ
は、人間が人間らしい心を育てるため、おたがい教えあって生きていくためなのではないか、
と思った。また、灰色の男達が来ないように。大人になっても、いつまでもいつまでも、夢見るこ
とを忘れず、豊かな心をもっていたいと思う。
 この本を読んで、すこし今の私達に欠けていた、心のぬくもり、思いやりや、やさしさ、きびしさ、
そんなものが、取り返せたような気がした。教えられるのではなく、自分で探し、学んでいくことも
大切だと思った。私も、いろんな想像と、どこまでも、きれいな心を持った「モモ」のようになりた
い。そう思う。




「はてしない物語を読んで−虚無の正体について」  米川 真代  


 去年の十二月、英語の授業で“Is these a Santa Claus?”という題がついた章を習った。
これは、ヴァージニアという小さな女の子が「サンタクロースは本当にいるんですか」という手紙
を新聞社へ送ったという有名な話である。私は「はてしない物語」を読み、何を考えるでもなく、
一番にこの話が頭をかすめた。それくらい、サンタクロースの話が、頭の奥に根づいてしまって
いて離れないのだ。そしてこの実話と「はてしない物語」との間に簡単な、共通点を見つけた。
 ヴァージニアは新聞記者に言う。
「クラスのみんながバカにするのです。サンタなんているわけがない。あれはパパとママの仕業
だって」。
 サンタなんて、いるわけがない。ほんの小さな子供たちが、口をそろえて言うのだそうだ。何て
悲しくて色のない世界だろうか。
 私には、ヴァージニアとバスチアンが重なって見えた。いつもからかわれ、ばかにされている
バスチアン。違う世界を夢見ている彼をクラスメイトだけでなく先生まで、たいくつしのぎをする
かのようにからかっている。「いじめだ」そう思った。結局、おっとりしていて物語を信じようとする
バスチアンを笑いものにしているのだ。「そんなもの信じてんのか。いるわけねぇだろ、おまえバ
カなんじゃないの」そんな声が、今にも聞こえてきそうな気がする。

 人が目で見たことのないものを「存在しない」と断言するようになったのは、いつからだろう。
なぜ、これほどまで多くの人たちが、夢を信じることをやめてしまったのか。それは、きっと人が、
目で見て、頭で考え、仕組みや存在を“証明”するようになったからだ。その幅を広げたのは
文明の力“科学”にほかならない。
 今、日本の社会は、豊かで物に満ちあふれている。科学の力が発達し、不可能だったことが
可能になった。それにつれ人が想像を働かせたり、夢を見たりする必要がなくなってきたのか
もしれない。例えば、ライト兄弟の「鳥のように空を飛べたら」という夢は、今では現実のものとなり、
夢でなくなってしまった。生活の便利さと引き替えに、空想や物語の世界をなくしてしまっている
のかも知れない。

 虚無とは、まさにこれだろうと私は思う。ファンタージェンは、人間の空想の世界だ。人が物語
を持つことによって初めてそこに存在する国なのだ。ところが、人間は今や空想の世界を忘れて
いる。物語のシナリオが削除されるのと同じように、そこには何もない虚無が現れる。
 ファンタージエンに住む人は言った。
「最近、人間がこなくなった」。
それは、人が物語を捨てたからだろう。物語を持っている人が多かった昔には、きっとバスチア
ンのように多くの人がファンタージェンへの旅に出たのだと思う。どうして、バスチアンが幼ごころ
の君にお名前をつけるだけで、ファンタージェンは救われるのか。それほど人間に物語を持っ
てほしかったのだ。バスチアンに空想と夢の世界である物語を信じて欲しかったのだ。人間の心
の中から“ファンタージェン”を消さないように。
 考えてみれば本当に恐ろしい。ここでバスチアンがもし幼ごころの君にお名前をさしあげていな
かったら、ファンタージェンは消滅する。ファンタージェンの消滅は、人間の心の中の“物語”の
消滅をも意味するのではないか。形のないものの存在を理性から突き放して、消してしまうのだ。

 ヴァージニアに、新聞記者は答えた。
“目に見えないけれど愛情や友情があるように、見た人は誰もいないけれどサンタは存在します。
永久に。目に見えないものこそが真実です。サンタはこれからも多くの人達に夢を与えてくれるの
です。”
 その通りだとうなずかずにはいられない。サンタは私に大きな影響を与えてくれた。思い出すと
暖かい気持ちになるのは私だけだろうか。
 物が豊富な社会が、全ての“物”を失ったとき、そこに残るのは何だろう。作者は、警告している。
虚無から物語の国を救ってくれ、このままではサンタクロースもいなくなってしまうぞ、と。




「自由の牢獄を読んで」   矢島 香里  


 “自由”と聞くと、何かしらよい印象を受けます。「自由にグループを作ってもよい」とか「自由
に遊んでよい」、「自由に選んでよい」などと言われると、普通たいていの人は嬉しいでしょう。
しかしこういう場合には必ず何か束縛するものがあるはずです。例えば「自由に遊びなさい」
と言っても、何時までとか、どこの範囲でなどといった時間や場所などの制限が付け加えられ
ます。こういう制限のない、束縛されない“完全な自由”は、私達のまわりにないのではないで
しょうか。だからこそ、自由は素晴らしいという印象が強く私達の間にあるのではないでしょうか。
というのも「自由の牢獄」(ミヒャエル=エンデ)の“完全な自由とは完全な不自由なのだ”という
言葉に私自身が納得させられたからなのです。

 たくさんの扉がある中からあなたの自由な意志だけですきなように選んでよいと言われた主
人公の乞食は、「どの扉を開くべきか」と戸惑います。私がその状況にあったとしても、多分同
じように戸惑ったでしょう。自分の自由な意志だけで決められるということは、一見とても簡単で、
自分にとって一番都合のよい条件のように思われます。しかしそれは、とても苦悩なことなので
す。扉が一つしかないという時、又はこの扉を開けなくてはならないなどという束縛された場合
よりもはるかに不自由なことなのです。

 自由というものは完全であってはならないのではないかと私は思います。自由が完全であれ
ばある程、決断力や行動力が必要となってきます。しかしその決断力や行動力が欠けていると、
自由という牢獄からはずっとずっと出ることができない。そうすると、またずっとずっと苦悩しなけ
ればならない。というふうに、自由であるがためにどんどん不自由に閉じ込められてしまいます。
自由が完全であるがために、不自由も完全になってしまうのです。しかし束縛された中での自
由では、こういうことは起こり得ないでしょう。なぜなら自由が完全でない場合、どこかに“他人
に決められる”という束縛された逃げ道が存在するからです。
 自由が自由であるためには、完全な自由であってはならないと思います。束縛された中にあ
る自由こそ、本当の自由なのではないでしょうか。



「はてしない物語」を丸ごと読む−国語表現のとりくみ−



(はじめに)
 高校生のあいだにどうしても読んでほしい作品の一つに「はてしない物語」
(M.エンデ作)が挙げられます。この作品は「自分探し」をテーマにした作
品で、青春の彷徨のただなかにある高校生にとってこそ、大きな意味を持
つ作品だと言えます。そうは思っても600ページにわたる長大な作品を教
室に持ち込むことは簡単ではありません。なぜなら、この作品はどの部分が
欠けても全体の重要な意味合いが薄れてしまうために、どうしても丸ごと扱
う必要があったからです。
 (中略)おそらくは一年間のほとんどを費やしてしまうことになるだろうと覚
悟し、また念願の教材を扱うわくわくした気持ちも感じながら、学習を始め
ました。教材をプリントしている時に、カウンセリングの担当の同僚の教師
が「読ませるだけでもたいへん意味があると思いますよ」と激励してくれた
ことも忘れられません。

<学習の記録>
・第1次
 (学習の目的)作品に読みひたり、読んだ内容を要約しまとめる。
 (主な学習活動と指導)プリントに従い各章ごとに読んだ内容をまとめる。
・第2次
 (学習の目的)寓意を読む。
 (主な学習活動)課題に従って寓意を考え、読み解く。
・第3次
 (学習の目的)レポートを書く。
 (主な学習活動)テーマを選んで600字程度のレポートを3回作成する。
・第4次
 (学習の目的)新聞を作る。
 (主な学習活動)A〜Zの章から7つを選び、個々に記事を構成。
  レイアウト印刷する。
・第5次
 (学習の目的)合評会
 (主な学習活動)適切な話し言葉で評する。お薦めのベスト記事や、
  自分が個々の記事をどう読むかといった観点からの批評・評価。


<学習の流れと時間配分>
 導入(2時間)→第1次、第2次(20時間)→第3次(3時間)→
 第4次(11時間)→第5次(4時間)


<学習の資料>
(第1〜2次学習ノートより、テーマ例)
章ごとに要点を箇条書きにして作品の内容を押さえさせた。

*ファンタージエン国とは何か
*ファンタージエン国の危機とは具体的に何をいうのか
*幼ごころの君はどのような人物か
*アトレーユはどんな人物か
*アトレーユの使命は何か
*バスチアンの家族について判ったことは何か
*太古の媼モーラは、危機をどう受けとめているか
*太古の媼モーラからアトレーユが入手した手がかりは何か
*群集者イグラムールとはどのような生き物か
*アトレーユとフッフールはどんな方法で南のおつげ所へ行ったか
*小人のエンギウックの生き甲斐はなにか
*危機を救うためにはどうすればよいのか
*何が一番の困難だと思われるか
*ファンタージェン国を冒している虚無の恐ろしさはどういう点にあるのか

(第3次学習ノートより、テーマ例)
*イグラムールは現代社会のどんなことと似ているのか
*虚無の恐ろしさはどういう点にあるか
*「汝の欲することをなせ」とはどのような意味だと考えられるか
*バスチアンが「常泣虫」を常笑虫シュラムッフェンに変えたことを、あなたはどう考えるか
*太古の媼モーラと幸いの竜フッフールとの違いを論じよ
*サイーデはバスチアンにとってどのような役割を果たしたのか
*女王幼ごころの君はなぜアトレーユを使者に選んだのか
*アイゥオーラおばさまの頭の実の意味と、おばさまが枯れてしまった理由
*アイゥオーラおばさまはなぜ、枯れなければならなかったのか論じよ
*ファンタージエン国へ行きまた戻った人たちが、人間の世界を健やかにできるのはなぜか


(第4次資料・新聞作り)
 手許の資料では、高校生がつくったもののうち3点が紹介されている。
いずれもウィットに富んでおり楽しい内容だが、手書きで印刷も荒く残念
ながらお目に掛けられない。以下にいくつかの記事とテロップを紹介する。

1)「はてしないかもしれない新聞」
 *詐欺容疑で救い主を起訴
   常泣虫のアッハライが常笑虫のシュラムッフェンになった事件で、バス
  チアン・バルタザール・ブックスを詐欺の罪で幼ごころの君に起訴。(中
  略)シュラムッフェンは「初めは確かに愉快だったが、確かなものも決まり
  もなくてウンザリしてきた。救われたどころか騙されたのだ」と話し、もとの
  姿に戻すことと慰謝料1千万ファンタージ円を要求しています。
 *太古の媼モーラ死去
   ファンタージエン一の物知りで最年長者(幼ごころの君を除く)である
  太古の媼モーラ=(たいこのおうなモーラ)が,昨日のファンター時82フ
  ァンタージ分,憂いの沼の水を誤って大量に飲み窒息死していました。
  (中略)年齢不詳。葬儀・告別式は明日ファンター時、エルフェンバイン
  塔で行われ,喪主はアトレーユです。
 *「悩み相談室」B.B.Bが乱暴になってしまいました(草海原A&F)
  回答者アイゥオーラおばさま(変わる家在住)
 *企業広告 変わる家に住んでみませんか!(写真のデザインは変わっ
  ている場合があります)
   期間:アイゥオーラおばさまの枯れている間
 *企業広告 エルフェンバイン塔8日間の旅 超人気コース!
   限定300名全食事付 46万ファンタージ円より


2)「エルフェンバイン通信」
 *恐怖!グラオーグラマーン逃走
 *今日の人スペシャル(インタビュー)
   −バスチアン、アトレーユ、フッフール編−
 *(告知版)ヒンレックお願い戻ってきて! オグラマール
 *今日の天気 エルフェンバイン塔周辺は晴天なり
 *新刊案内 エンギウックの自叙伝「ああ我が人生」


3)「FANTASTIC NEWS」
 *女王”月の子”誕生! 聴き手/救世主バスチアン
 *アイゥオーラおばさまインタビュー
 *芸術の旅/ヨル美術館 入場条件・音を立てないこと
 *NOW ON SALE「ウユララの声」いよいよリリース! ¥900
 *住宅情報 大きな手のような形のマンション 警備体制抜群

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