カシオペアに乗ってエンデのもとへ
-伊藤靖さまによる「エンデお墓参り」の記-
99年5月に(株)MOMOの伊藤さまから、エンデのお墓参りに行かれた、というご報告メールを頂きました。とても素晴らしい旅の様子が描かれた日記と、エンデのお墓の写真が添えられていました。 早い内に当サイトで公開させていただく旨の約束をしながら、当方の都合でこれまで伸ばし伸ばしにしてしまいました。伊藤さまにはこの場をお借りして深くお詫び申し上げます。 |
1999年3月23日(火)、朝から冷たい小雨の降るあいにくの天候の中、ぼくらはこの旅の最大の目的である「エンデの墓参り」に出かけることになる。ずっと時差ぼけの治らない子供たちはやはりこの日も3時くらいには起床していたらしかった。ぼくも同じく3時半には起きていた。それは時差ぼけというよりは、8年間の夢を今日果たせるという興奮のせいだった。「エンデに会える」そのことが、連日のハードスケジュールで疲れて眠たいはずの自分を眠れなくさせていた。「墓参り」の工程についての不安はさしてなかった。それは以前調べていたインターネットで森さんが主管する「ミヒャエル・エンデ年譜」に、エンデが眠る森林墓地(Cemetery Waldfredhof Muchen)へのアクセス方法を入手していたからだ。それによると、この情報は「Munich Tourist Office」から入手していただいたとあった。 エンデは1995年8月28日午後7時10分(日本時間29日午前2時10分)65歳で永眠、9月1日にここに埋葬された。別れの音楽はゴッゴローリのフィナーレの混声合唱であった。「生は短くじきに死がくる、にもかかわらずそれは天の恩恵」と歌われたそうだ。11月12日ゲルトナー劇場で追悼式が行われている。 さて、そんな前情報をもとにぼくらは、社名の由来である「モモ」の作者、ミヒャエル・エンデのもとへ詣でるわけだが、冒頭にいったようにこの日は朝から雨だった。昨日から宿泊しているミュンヘン市内、駅のそばの「ドライレーベン・レジデント(DREI LOWEN RESIDENZ)」でバイキングの朝食をとり、用意周到でかけることになった。出発前に念のためフロントに場所を確認すると、意外なことにエンデの名前を知らなかった。この後さまざまな人に道をきくことになるのだが、ことごとく現地の人はエンデの名前を知らなかった。ゲーテやアインシュタインといった世界的有名人に比較すれば無名なのはわかるが、なんだか寂しい気持ちになった。もっともぼくの聞き方も説明不足だったのかもしれないが。さて、フロントで森林墓地の場所を聞いてみると、ちょっと前情報とは違う説明が返ってきた。前情報には「ミュンヘンU6 lineの(Holriegelskreuth)の駅より右へ500mのところにあり、徒歩10分程度。」とある。しかし、ホテルの方の説明では、中央駅(Hauptbahnhof)からだとU1(ちなみにUというのはUnderground with Stopの略で地下鉄のこと)で次の駅の(Sendlinger Tor)で乗り換え、U6に乗り4つ目の駅(Harras)で62番のバスで(Wald なんとか、字がよく読めなかった)に行けばいい。との説明。調べてみると前情報の(Holriegelskreuth)という駅は、正確には(Hollriegelskreuth)で、U6ではなく、(Harras)でS7(SはRapid transit train with stopでたぶん普通の電車のことだろう)に乗り換え、6つ目の駅であることもわかった。ぼくたちはとにかく向うことにした。(Hollriegelskreuth)の駅より右へ500mのところにあり、徒歩10分程度。という前情報をたよりにとにかくそこまでいってみることにした。途中、いろんな方たちの親切に触れた。チケットの買い方から、進行方向ホームの確認など、何度もぼくの「エクスキューズミー……..」に笑顔で応えてくれた。特に(harras)での青年の親切は忘れられない。お礼に日本から持っていった風景画のグリーティングカードを差し上げた。あたたかい心に触れる喜びこそ旅の大きな収穫である。そんないろんな人のお陰でぼくたちは、当面の目的地(Hollriegelskreuth)の駅にたどりついた。小さな田舎を思わせるホームに降り立つと、朝方の雨は細かい雪に変わっていた。右へ500mのところにあり、徒歩10分程度。子供たちは相変わらず元気にはしゃいでいた。雪をさけてヤッケのフードを上げた。ぼくの手にはアルトサックス黒い重たいケースがあり、ここまでズーっと旅のお供をしてきたわけだが、やっともうすぐ待ちかねた出番を迎えることになる。今回の旅にあたってこの「黒い箱」を除いて、ぼく個人の荷物は、3日分の下着と洗面道具、それにパソコンだけである。東京に1泊の出張にでるより身軽な出で立ちだった。 話をすすめよう。案の定改札のない駅(ドイツもスイスも大きな中央駅ですら改札がない)だったが、ぼくらは電車をおりて右側の出口をでた。出てすぐのところに店があった。外にちょっとしたジュースやお菓子をおいていて、中は小さなコーヒーショップのような感じで、地元の人が何人かいた。店の人は若い青年で、子供たちのリクエストに応えてチョコレートやジュースを売ってくれた。そして、ぼくは「森林墓地はどこか」尋ねた。「あっ、それはそこを右側に500m先ね」という答えが返ってくるはずだった。ところが、青年は店中のお客さんにまで聞いてくれたにもかかわらず、「わからない」と言った。雪はますます強くなり、風も出てきた。黒いケースを持つ手が赤くなっていた。不安がよぎった。お礼を言ってそこをはなれると道路の向かい側に地図があった。地図をくまなく探したが、(Cemetery Waldfredhof Muchen)という文字は見当たらなかった。誰かに道を尋ねようとしても、そもそも人がほとんど通っていないのだ。しばらく思案していると、ホームの方に人が歩いていった。後を着いていって同じように尋ねてみた。きれいな身なりのマダムだった。彼女は一生懸命考えていたが、墓地の場所もエンデのこともわからないと言った。そこへ若い学生風のおにいさんが来て、しばらく考えながらこう教えてくれた。「それは右じゃなく左へ曲がって次の信号を右に歩いていけばいいよ。」確認のために「それは500m先?」と聞くと「ヤー」と言ってくれた。そうか、やっぱりこれでいいんだ、不安は吹っ飛び、にわかに全員足元が軽くなった。意気盛んに足取り軽く、目指せエンデ!の5人の行進は続いた。しかし。かれこれ500mは十分歩いたぞ、という地点にきても一向にそういった標識や案内板はなかった。かなり大きな墓地のはずだから、そういったものはあってしかるべきはずだった。ぼくらはさらに1kmは歩いただろう。もちろん通りかかる人には聞こうと思っていたが、誰も歩いてないのだ。自転車で寒そうにやってきた老婦人の足を止めて聞いてみた。この方は英語が通じない。ドイツ語なまりもきつかった。でも、何とか行きたい場所は伝わったみたいで、一生懸命考えてくれた。さかんに「アブダブブー」みたいな言葉を言っては悩んでいた。こっちも「アブダブブー」だった。そこへ、犬を連れたおじさんが通りかかった。このおじさんは自分の方から近づいてきてくれ、ぼくと老夫人との間に割って入り、ああでもない、こうでもないと、ドイツ語でしばらく相談していた。老婦人の鼻からは寒さで鼻水が流れていた。本当に親切な人たちだった。申し訳なくもあった。それにしてもこれはいったいどういうことだろう。近所の住人がものすごく近いはずの墓地の存在を知らない。もう、八方ふさがりの状態の中で、この犬を連れたおじさんは「OK、じゃ、とにかくぼくのうちに来るがいい。ぼくは日本人の友達がいる。彼に聞いてあげよう」そう言ってくれた。この方との出会いがここから始まる劇的な筋書きの導火線となることは、この時点で知ろうはずがない。この方の名前は、「ウイル・シリング」さんといって、犬の名前は確か「ロニー」だったと思う。ぼくたち5人を連れて彼は100m先の自宅へ到着した。すぐさま電話帳で電話をかけてくれた。「友人の日本人で(みのぐち)というジャーナリスト」ということだった。しかし。つながらない。彼は、意を決したように「1km歩けるか?」と言った。すでに2km以上は歩いてきたが、子供たちも大丈夫そうだったので、彼について1km先の(みのぐち)さん宅まで行くことにした。ウイルさんといろいろ話しながら歩いていたが、ぼくのなかにまた不安がよぎった。常識的に考えて電話をしてつながらない場合家にいるのだろうか?でももうそんなことはかまってられなかった。とにかく非常に足早なウイルさんについて(みのぐち)さん宅へ着いた。ピンポンを鳴らすと、しばらくしてみのぐちさんは玄関先に現れた。50くらいの頭の少し薄くなった方が、関西なまりで登場した。完全にくつろいでいたようで、シャツとパンツいっちょうの出で立ちだった。面食らいながらぼくたちを部屋の中に案内し自分は慌てて2階に着替えにいった。家の中にはたくさんの楽器やアンプ類、また自作と思われる油絵がそこらじゅうにあり芸術一家を思わせた。子供の写真も飾ってあったが、中学生と小学生の下の子はうちの2番目といっしょの5年生、まりこちゃん)2人兄弟だった。みのぐちさんは、パソコン(SONYのBaioだった)でインターネットをやっていたところだったらしい。突然の訪問者に対して、例の関西なまりでみのぐちさんはときおり冗談を言っては子供たちを笑わせながら、対策を考えてくれた。「今、おかあちゃん、おらんのや、じき帰ってくるけどな、帰ってきたらおかあちゃんにゆうて、きいてみるさかいな」間もなくおかあちゃんは帰ってきた。すごく素敵できれいなドイツ人の奥様だった。 なんでもこの方が、絵画や音楽をやっているということだった。ウイルさんもそのバンドの仲間で、彼はギター、奥さんはボーカルとのこと。今アニマルズの「朝日のあたる家」をやっているそうだ。それはそれとして、この後みのぐちさんは、ぼくら全員を自家用車に乗せて森林墓地まで10km連れていってくれることになる。途中、みのぐちさんが、かつてエンデの自宅に取材に行ったときのことをいろいろ教えてくれた。(凄いはなしがいっぱい聞けた。たとえば、エンデは日本とスペイン(イタリアだったかな?)でもっとも有名でドイツではさほどじゃない、とか、彼は「通貨経済」に深い洞察をもっていた、つまり貨幣を水と同じように流通させるため、利息をかけないという経済理論の強烈な支持者だった。奥さんのインゲボルグさんのなくなった後のインタビューだったそうであるが、このころには佐藤真理子さんがいっしょに住んでいた。「あのおっさん、しっかりしとるでえ」とか、取材後エンデはみのぐちさんに「フルーツの焼酎」を出してくれ、みのぐちさんの言葉を借りれば「あのおっさんといっしょに飲んだんや、わし。紳士的で落ち着いたいいおっさんやったで」ということなどなど、普通聞けない話をいっぱい聞くことができた。ちなみにみのぐちさんの取材記事は、当時日本で「あさひ新聞」で紹介されたそうである。もちろん、ゴシップはカットしただろうけど。そんなこんなしてるうち、みのぐちさんは目的地への経路を間違えて「アウトバーン」へ入りそうになってしまった。慌ててかろうじて戻った場所が「ガーミッッシュ・パーテンスキルヒェ」という出口だった。「しもうた、間違えてしもうた」そしてUターンしようと止めた。実はその止めた場所こそ森林墓地そのものだったのである。「うわあ、怪我の功名やな」まさにそうであった。公園の中に入り広大な墓地の地図を立て看板で確認した。212の場所を確認した。止めた場所からわずか100mくらいのところにエンデは眠っている。なんという偶然なんだろう。8年間の想いが、今カシオペアの背中に乗ってエンデに引き付けられるかの様にそこに向かっている。何ということだ。夢が本当になっていく。みのぐちさんはじめ今日会えた全ての人との「縁で」(しゃれ)「エンデ」に会えるのだ。もうすぐだ。そこにエンデはいる。ぼくらを待っていてくれる。 もう、外の寒さなど気にならなかった。さまざまな墓標(そのものが個性的でいかにも日本のそれとは異なる)の間を通りぬけて212の場所に着いた。近くを走るアウトバーンの車の喧騒の中、エンデは静かに眠っている。もうそこにいる。6名は手分けするかのように「その場所」を探した。しかし、なかなかエンデは現れない。以前、インターネットで墓標のイメージはあった。本を開いた格好の墓標にふくろうとカシオペアがとっまっているユニークな形をしていた。いかにもエンデというその墓標にもぼくは憧憬をもっていた。前情報にも「比較的見つかりやすい」と書かれていたが、6名血眼になって探すもののなかなか見つからない。ふと不安がよぎった。212のフィールドを一巡しかけた時、ぼくは祈るような気持ちでつぶやいた。「エンデ、エンデ、エンデ.......」そのとき、なんと目の前のそれこそが、捜し求めた「エンデの眠るお墓」だった!! 「あった!会えた!」ぼくは思わず叫んでいた。「あった、あったぞ」そこは他の墓標と違和感なく調和した、非常に目立たないごく普通の場所だった。みのぐちさんもかつて「ゲーテ」のお墓に行ったことがあるが、そこの非常にシンプルだったという。お墓に見栄でお金をかける日本人(もっとも関西人は違うといっていたが)とは、「死」に対する考え方が違うのだろう。エコノミックアニマルと揶揄された日本人の人生観とはまったく違うテーゼなのだろう。そんなことを考えているうちにみんなが小走りに集まってきて、「わ〜」という歓声を上げた。「みのぐちさん、ありがとうございました!」みのぐちさんも喜んでくれていた。さっそく、小雪のちらつく幻想的な空間のなかで、エンデとの魂の対話をしばしの時間楽しんだ。「日本からやってきました。エンデさんに会いに。8年前「モモ」という会社をつくって頑張ってます。「わくわくする時間の創造」をテーマにこれからも、世の中に役立つように生きていきます。どうか、お守りください。そして、安らかにお眠りください」そんなことを話していた。「一生懸命おやりなさい」そんな言葉をもらったような気がしていた。 ぼくは、サックスを出して、静かに即興で演奏をはじめた。あまりうまく吹けなかったけど、気持ちは伝わったと思う。そんな時間が過ぎ、心の中が暖かく満たされたぼくらは、静かにその場所を去った。墓地を出てアウトバーンの側道を歩くぼくらに風が心地よく火照った頬をなでていた。もう雪は止んでいた。清清しい気分だった。 まさにカシオペアの背中に乗って、エンデの導きに引き寄せられるように実現した出会いに感謝していた。 スタッフにも来てもらいたい。そう思いながら、本当にお世話になったみのぐちさんに近くの駅まで送られてぼくらの冒険を刻んだ「エンデとの出会いの物語」は終わった。 |