神社のご案内

天津神社は、第12代景行天皇の御代の創設にして第36代孝徳天皇の勅願所と寛文2年 (1662) 改築の拝殿(5間×7間)棟木に記されている。尚幣殿 (3間×3間) が天明2年 (1782) に増築されている。
並んで祀る奴奈川神社は延喜武内社頸城十三座の一社であり、併せてこの地方の大社である。

天津神社本殿
 天津神社本殿
天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (あまつひこひこほににぎのみこと)、左が天児屋根命 (あめのこやねのみこと)、右が太玉命 (ふとだまのみこと) の三柱で伊勢神宮外宮相殿の祭神と同じである。
天津神社の本殿 (2間半×3間) は、寛政九(1797)年に改築されている。欄間の彫刻や縁下の組物などは見事である。建物は、総欅造りであり、棟梁は糸魚川の住人、相馬十郎左衛門昌信である。
奴奈川神社本殿
 奴奈川神社本殿
奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命を合祀した。
天津神社本殿と並んで、西にある奴奈川神社本殿 (1間4尺×2間) は、寛政十(1798)年に改築されている。
糸魚川市蓮台寺の奥・柳谷にあったが、元暦二(1185)年 秋に山崎の地に移り、その後現在地に移ったと伝えられる。
子聖社 (ねのひじりしゃ)
 子聖社(ねのひじりしゃ)
天津神社の末社 (1間×1間2尺) で創設などは不詳であるが、足腰など下半身の病に霊験があると言われ参詣者が多い。
 一の宮の 『けんか祭』
一の宮の 『けんか祭り』
近年は 『けんか祭』 として知られているが、近郷近在では、昔から 『十日の祭り』 と呼ばれ、毎年この 4月10日の日を待って祭り見物にドッと押しかけた。春はこの祭りを境にかけ足でやってくる。
10日午前零時太鼓を打ち、祭りの始まりとなる。4時頃神輿堂より出された二基の神輿は舞台に安置される。9時頃、潔めた身にハッピを羽織った、押上 (おしあげ) ・ 寺町 (てらまち) 両区の若衆が鶏爺を先頭に一の宮へと登社する。やがて神輿は舞台を離れ、押上・寺町の白丁にかつがれ、お練りという行列をつくって神苑を巡幸する。先頭は寺町の露払いで葉つき大竹の鶏爺で、鶏のかぶりものに赤い面をつけ、赤絹の小袖・タッツケで大小刀をさしている。警固の人々、払いヌサの神主、一の神輿、警固の人々。ついで押上の露払いで葉つき大竹の鶏爺、警固の人々、次が面箱で古い舞楽面が納められている。ついで肩車にのった美しい稚児たちが続く。払いヌサの神主、二の神輿、警固の人々となっている。このお練りが神苑を1回半まわると、神主と稚児はそれぞれ拝殿、舞台へ上がる。それと同時に二基の神輿は猛然と走り出す。いよいよ神輿の競合が始まるのである。勝てば、その年が豊漁・豊作であるといわれている。押上は緋色のハッピ、寺町は萌黄色のハッピの手引にひかれ、神輿は走る。やがて太鼓の音につれて、二基の神輿は、ガップリと組むのである。若い衆の力と力の競合で、神輿はきしみ、方々がこわれてくる。観衆も熱狂する。これが 『けんか祭り』 である。激烈な 『けんか』 が数回くりかえされ、疲れ切った頃合いを見計り、舞台に押上・寺町両区の代表が上り、その合図により、太鼓の音がドンデンドンに変わり、御走りとなる。一の神輿が弊殿に上がるところを二の神輿が見つけると一の負け、二の勝ちとなる。やがて 『けんか祭り』 の 『動』 から、神苑は、舞台上の 『舞楽』 の 『静』 へと変わっていく。

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