第7話 真夏の夜の飛行
決行の日、幸吉は長屋の者が床につくのを待って、弥平の用意した大八車に翼を乗せ静かに店を出た。折しも、空には明るい月が上っていた。京橋の前で、幸吉と弥平は大八車にもたれながら橋を渡る人が切れるのを一刻ほど待っていた。五ツの刻(午後8時)を知らせる鐘がなる頃には、人も通らず旭川の上流から涼しい風が吹いてきた。弥平が「兄ちゃん、ほんまにやるんか。怪我をせんよ−になあ。」と幸吉へ尋ねると、幸吉は「今度こそ飛んじゃるけ−な。よ−見とけよ。」と翼を組み立てながら弥平にその決意と自信の程をみせつけるように答えた。組み立てが終わり翼をつけた幸吉は、まるで怪鳥そのものであった。
月明かり照らされた橋を巨大な鳥がおぼつかない足取りで歩いている。弥平は幸吉の指示で、橋中央の北側の欄干に大八車を寄せると、幸吉はその上に乗りさらに欄干に上った。弥平は幸吉の腰に結んだ紐をしっかり後ろから握って、不安定な格好の幸吉を支えていた。この姿勢で幸吉は、頃合の風を待っていた。数分間待つと、サ−と川面を駆けてくる風を感じ、幸吉は欄干に仁王立ちとなり「弥平、いくけ−な。ええか。エエイ!」と声を出し、足を力強く蹴った。
宙に舞った幸吉は頭を前方にして、川面に突っ込んで行くように見えた。その時、幸吉は胸を前に突き出し、頭を上に持ち上げ、前方の岡山城を見た。すると、体は急に水平になった。飛んだのである。自分の体は川面と平行になっている。顔に風が強く当たり、幸吉は瞬間の幸福を味わった。ところが、徐々に水面が近づいてきたので、右手につけた紐をぐっと引き左旋回を試みた。そして、大きく左に翼が傾き、川原に頭から着地した。飛行時間は僅か10秒足らず、飛行距離も30m程度であったが幸吉は満足であった。橋の上から見ていた弥平も幸吉が飛ぶ姿を見て、嬉々として興奮していた。
ところが、幸吉が飛ぶ姿を見ていたのは弥平だけではなかった。夏の終わりといえども瀬戸の夕凪の暑さから逃れようと旭川の川原で夕涼みをしていた二組の老夫婦が、幸吉の飛ぶ姿を見て驚き「天狗が現れた!」と大きな声を出し、土手を上って逃げ去った。弥平は大急ぎで大八車を土手に回し、幸吉の翼を運び上げに行った。幸吉は、興奮して、弥平が早く逃げようといっても、 「弥平、見たか。ちゃんと見たか。わしゃ、飛んだんじゃ。飛んだんじゃ。」と繰り返し話しているだけである。ようやく、大八車に翼を積んだ弥平は、夢の中を歩く様についてくる幸吉を振り返り振り返り見ながら急いで長屋へ帰っていった。
その夜の幸吉は、一睡もせず自分の体が中に浮き、顔に風が当たる感触を何度も
思い出していた。幸吉、28歳、天明5年(1785年)8月21日の事であった。