鳥人幸吉伝
・・・空にあこがれ鳥になることに一生をかけた男の物語・・・

第11話  旅の果てに

 安部川での飛行に成功した幸吉は、人生の目標を満たした喜びに満ちていた。しかし、町奉行からの呼び出しは次の日の昼過ぎにあり、空飛ぶからくりや川越え人足の証言等があり、即刻入牢となった。駿府は徳川家のおひざもとであり、その城下で天狗のように空を飛び回ったことは、どこかの外様大名の命を受けた間者ではないかと疑いがかけられことのほか厳しい調べを幸吉は受けることになった。その調べの中で、かって備前藩で空を飛んだ者がおり、それがこの幸吉だと分かった。備前藩で所払いになったものを同じ罪に対して死罪にすると、藩のありかたが問われる等の議論により、府中の町奉行小野田三郎右衛門より今回も府中城下を所払いとなった。

 この話を聞いた見附宿(現在の静岡県磐田市)の香具師の親分大和田友蔵はかねて幸吉に入れ歯を作ってもらった恩義もあり、幸吉を見附に呼び寄せることにした。見附宿は東西に坂があり、一里塚がある東の坂を登ると富士山が目前に見えるということから名付けられ、西に天竜川が控えている東海道29番目の宿場町であった。

 幸吉は東海道を府中から西へ下り、見附に住み着いた。50歳を超えた幸吉ではあるが、大和田の親分の世話で所帯を持ち、小さいながら一膳飯屋を営んだ。見附宿から北へ8里程の所に天狗を祀る秋葉神社があり、見附宿は天狗信仰で栄えていた。また、東の樋ケ谷沼は今でもトンボの群生地として有名である。幸吉がこの地を選んだことは天狗とトンボには無縁とは思われない。

 幸吉が見附に来て約40年経つ弘化4年(1847年)8月21日、幸吉は91歳の天寿を全うした。奇しくも、命日は幸吉が岡山の京橋で飛んだ日から62年後であった。幸吉は見附の中心にある浄土宗大見寺の墓地の南西に葬られた。幸吉の墓標には『演誉清岳信士』と刻まれ、富士山よりも高く飛ぶことを演じた旨の戒名である。

 そして、翌年1848年見附よりはるかに離れた欧州ドイツに、オット−・リリエンタ−ルが生まれた。

磐田・大見寺「幸吉の墓」
鳥人幸吉のスカイカブUを供える