鳥人幸吉伝
・・・空にあこがれ鳥になることに一生をかけた男の物語・・・

第10話  駿河の風

 府中に開いた備前屋は幸助の働きにより益々繁盛したので、幸吉は店を幸助に託し、自分は好きな研究に没頭しようとした。それは、飛行の研究であった。幸吉は岡山を所払いになった後も、飛行の事を一日たりとも忘れてはいなかった。あの、体が宙に浮いた瞬間、顔に当たる風の感触は今でも、すぐに蘇ってくる。幸吉は、備前屋の隣に狭い間口ではあるが名古屋時計を扱う店を出した。表面では時計屋であるが、実は飛行のからくりを研究するためであった。そして、幸吉は名を『備幸斎』と改めた。備は備前から、幸は幸吉からとったものである。時計屋の備考斎は精密な細工ができることから、入れ歯も扱う様になった。備幸斎が作るツゲの入れ歯は有名になり、本来の時計の修理・商いよりも歯医者の方に多くの時間が必要になった。

 また、幸吉は暇を見つけると安部川の川原へ出向き子供達に交じって駿河凧を上げていた。駿河凧はかって今川義元の時代に上げられたことが由来となっていたが、江戸時代においては府中城下の若衆や子供達が凧揚げ合戦等をして盛んに行なっていた。駿河凧はイカ凧とも呼ばれ中には大張りの大凧も出現していた。幸吉は、子供達に凧の揚げ方を教えながら、この凧も研究の対象としていた。より安定してより高く飛行するには凧の技術が必要であった。

 幸吉が駿河に来てから二十年近くなり、年も50歳となった。幸吉は、決心をした。もう一度空を飛んでみようと。幸吉はこれまでの自分の人生を振り返り、これからの人生を考えるならばもう一度挑戦できるのは今しかないと思ったのである。そして、これまでの研究の成果を集大成した設計図を描いた。その一つは上下・左右の方向制御を小さな力を使ってできる様に歯車と滑車を使って翼を動かずからくりを採用したこと。もう一つは、高い場所から飛び降りるのではなく、平地から紐で引っ張り上空へ飛び立つという曳航方式を採用したことである。この曳航するというアイデアは凧から得られた。図面に従って作られた空飛ぶからくりは、翼は7間(約12m)、四角い胴体は1間(1.8m)にもなる大きなものとなった。幸吉は四角い胴体の中に腹這いになり、左右の手で紐を引くと歯車が回り翼の後部を動かすことができた。また、足を伸ばすと尾翼の先端が上がり空飛ぶからくりは上方向に向くことができた。

 完成した機体を夜間に安部川の川原へ運んだ幸吉は川越え人足達にたんまりと手間賃を払い、機体を曳航させる様に協力させた。折しも、月夜であり適度な風が吹いていた。幸吉の合図により川越え人足達は一斉に風上に向かって走っていった。機体は、ふわっと宙に舞い上がり、数十秒間 滑空していた。人足達は、空を飛ぶということは最初から信じていなく、どこから気違いがやろうとしていることだが金をはずむというのでやってるだけという気持ちでいたのだが、実際に飛ぶ姿を見て腰を抜かす者や口を開けてただ見ている者、天狗が来たといって頭を抱えてうずくまっている者がいる。幸吉は、その人足達を気に止めず、はるか先に月明りでうっすら見える富士山を見ていた。飛んでいる、岡山での飛行の時よりはるかに長い時間、高く飛んでいる。幸吉が岡山で飛んでから22年の月日が経っていた。