「朝香」宮邸と庭園美術館

「朝香」宮家を創立された鳩彦殿下は、明治20年(1887年)10月2日、久邇宮朝彦親王の第8王子として御誕生されました。
鳩彦殿下の父君である朝彦親王は「伏見」宮家の御出身で、幕末の政局に大きな影響力を持たれた宮様(青蓮院宮、中川宮)でした。
朝彦親王は御子様が多いことでも知られており、鳩彦殿下の御兄弟には戦後の混乱期に総理大臣を務められた東久邇宮稔彦王や、梨本宮守正王がいらっしゃいます。
また、崩御された香淳皇太后(昭和天皇妃)もこの「久邇」宮家の御出身で、鳩彦殿下は叔父にあたります。
明治39年(1906年)3月、鳩彦殿下は明治天皇の特旨によって宮家の称号を賜り、一家を創立されました。
鳩彦殿下は、維新以後伊勢神宮の祭主をお務めとした父君の朝彦親王殿下縁の場所から、
宮家の名前を選ばれた云われていますが、宮家の名称候補は2つあったとも云われています。
これは、伊勢神宮の近傍には「朝熊山」と「朝香山」の由緒ある二山がある事からだと思われまいすが、鳩彦殿下は「熊」の文字は避けたいとの御意向があったらしく、宮家の名称には、「朝香」の方が使用されています。
殿下は明治43年(1910年)5月、明治天皇の第8皇女允子内親王と御成婚され、4人のお子様(紀久子女王、孚彦王、正彦王、湛子女王)に恵まれております。
当時宮廷は高輪の地にありましたが、既に白金には大正6年に火薬庫としての役目を終えた広大な白金御料地がありました。
宮内庁の管轄であった白金御料地の一部(一万坪)を大正10年(1921)を下賜されますが、公務御多忙中の鳩彦殿下には、特に宮廷建設の予定はありませんでした。
鳩彦殿下は、陸軍大学校勤務中の大正11年(1922)10月から軍事研究のためフランスに留学されましたが、大正12年(1923) 4月、パリ郊外を義兄の北白川宮成久殿下運転の自動車でドライブ中、不慮の事故に遭われ長期のご療養となります。
当時既に日本にお残りになられていた允子妃殿下は急遽フランスへと向かわれ、お二人は長期間パリでの生活を余儀なくされる事になりますが、後年此の事故によるパリ生活がお二人の生活と日本文化へ大きな影響を与えます。
病気静養を含めて約3年の御滞在期間中に、両殿下は日常会話であれば不自由のないほどにフランス語をマスターされ、殿下は狩猟出来る程に御回復されますし、妃殿下も水彩画を学ばれるなど充実した時間をお過ごしになられました。
大正14年(1925年)7月、両殿下はパリで開催中の「現代装飾美術・産業美術国際博覧会(通称アール・デコ博)」を御見学になります。
お二人は博覧会を御見学された年の12月、パリの思い出を胸に当時高輪にありました宮邸にお戻りになられます。
年号が改まった昭和4年(1929年)頃より、新宮邸建設計画がスタートしますが、この時鳩彦殿下はパリ滞在中に感銘を受けたアール・デコ様式の建築様式を御希望になります。
殿下は、フランスの建築家アンリ・ラパン(Henry Rapan)に依頼したとされていますが、 設計の大部分は宮内省内匠寮が担当し、ラパン氏は室内の装飾を担当しまと云われていますし、殿下自身も設計に関わっていた様です。
此の様に、我が国では大変珍しいアール・デコ様式の宮廷が昭和8年(1933)5月に完成します。

完成当時の朝香宮邸(絵葉書より)
  「内部絵葉書が見られます。」

旧朝香宮邸(改装工事終了)

構造は、地下1階・地上2階建ての鉄筋コンクリート造ですが、上に示した写真の様に見学すると分かりますが建物正面の状態からはアール・デコ様式と云うよりは、モダンアートまたはモタンニズム風のおとなしい感じに写ります。
建物外観は、純粋なアール・デコ風と云うので無く、和風混合と云っても過言では無い程でしょう。
だだ、玄関の車寄せアーチを潜り、正面に取り付けられた浮き出しのラリックの女人像を見た瞬間から考えは変わると思います。
しかし、残念な事に允子妃殿下は朝香宮廷が完成した年の11月に御逝去されてしまいます。
朝香宮家は第二次世界大戦終了後まで白金の地に住まわれる事になりますが、昭和22年(1947)10月に皇籍離脱をします。

戦後の一時期、吉田茂外相・首相の公邸や、国の迎賓館などとしても使用されていますが、 1983年(昭和58年)10月1日に現在の庭園美術館となりました。

園内には、小さいながら日本庭園・茶室等が整備されていて、都心とは思えない静かで落ち着いた空間が広がります。
現在の旧朝香宮邸である庭園美術館は、自然教育園に隣接していますが、右の図の様に大変不自然な形をしています。

これは、上記しました様に元々大変広大な白金御料地の一部が、朝香宮廷用に下賜された関係です。

更に、現在では首都高速2号線の完成で西側の一部が削られています。
子供の頃には、長者丸(現在の呼び名では上大崎2丁目)、図で云うと自然教育園の左上辺りから自然教育園に潜り込んで遊んでいました。
秋には、椎の実が沢山拾えるので焚き火でくべて、食べたものです。

庭園美術館の内部が見られます。







平成15年 5月10日 掲載