江戸時代の海運における諸問題  

 

野辺地にて みちのく丸。船体構造は佐渡の白山丸、大阪の浪速丸と同様弁才船である。弁才船は江戸時代の標準船といえよう
   

北前船について

  最近「北前船」ブームとなっております。北前船は江戸中期から明治中期頃まで日本海沿岸から瀬戸内海を廻り大坂方面まで商売品を積載し売買を繰り返しながら運航しておりました。明治の世になり本格的に北海道開拓が始まると北前船は必要な品々を運び、ニシン等北海道の産物を積んでかえっていた。ただ北海道では北前船と呼ばなかったとの説もありその場合はどう呼んでいたのであろうか。いわば船での行商でありその湊、湊での商取引でありその形態から後に述べる菱垣廻船、樽廻船、瀬戸内海海運に比べその形態から比べると輸送量は大きくはなかったといえるであろう。北前船の運営形態からみれば日本海運輸送量と比べれば数パーセント以下といって良いであろう。瀬戸内海は有史より海運が発達し、藤原純友が塩飽の海で瀬戸内海海運を遮断しただけで天下の1大事となっている。16世紀の瀬戸内海の海運については林屋辰3郎氏が発表した「兵庫北関入船納帳」などに見ることができる。江戸初期から江戸~大阪間は日本最大の物流ルートであり日本海側と違い春夏秋冬通じ運航している。荷物を集める問屋、船を運航する問屋がそれぞれ専門化している。菱垣廻船問屋は積み荷が集まるまで待つため出発まで時間がかかり、酒造や醤油等樽で運ぶ商店等は嫌いあらたに樽廻船問屋をつくっている。幕末の頃には樽廻船が菱垣廻船を凌駕し最後には解散している。積み荷を専門化することで効率よく多くの荷を運び、当然ながら冬期の運航もしている。汽船の時代になっても当初はクレーンの林立する貨物船で何でも運び原油さえ樽で運びバーレルとの単位は1樽の意味である。現在の海運界ではタンカー、自動車専用船、LNG、貨物船はコンテナ船と極端に専門化している。

北前船、菱垣廻船、樽廻船と書いたがこれは船の運航形態、問屋形態の名前であり日本において大型和船は1種類しかなくすべて弁才船である。明和7年(1770)加賀石川郡栗崎村(現石川県金沢市栗崎町)藤右衛門船が塩飽の海で遭難し、塩飽役人が発行した浦帳が金沢に残っている。米、大豆、小豆、干鰯等を積み能代発、赤間を経由して塩飽の海で遭難しており完全に北前船であろう。浦帳は大阪御船手御支配塩飽島役人宮本源右衛門が書いているが船は北前船とは書いておらず「加賀船」である。江戸時代末期、瀬戸内海方面でも「北前船」は一 般的に浸透していない様子がみられる。津軽藩においても「北前船」との言葉は使われておらず弁才船である。北前船研究の著名な人が塩飽を訪れ地元の人から「北前船の絵馬」があると案内され見せてもらったが北前船ではないと憤慨したと本に書いてあった。私も見たがどうみても大阪方面で購入され、大量生産された土産物の絵馬であった。北陸方面で多く見られる奉納された北前船の船絵馬もほとんどが大阪方面で大量生産されたもので瀬戸内海各地に残る船絵馬と比較することさえ意味がないであろう。北前船の定義を厳密にすればどんどん少なくなり存在もなくなろう。

 天保年間より明治頃まで塩飽において廻船業を行った尾上家の資料が出版されている。尾上家は特に南部行き即ち野辺地等陸奥湾沿岸と大阪を結ぶ廻船業を行っているがこの記録にも北前船との言葉は見る事ができない。

 幕末、明治時代以降でも日本海側で活躍していた北前船であるが、瀬戸内海、太平洋側においては駆逐され西洋型貨物船が主流となっている。幕末長崎港を撮影した上野彦馬の写真でも弁才船はほんの少しでありほとんどが西洋式帆船である。明治維新以降も北陸方面の北前船主個人の富は非常に大きなものがあるが同時期東京、大阪等西日本においては日本郵船、大阪商船等大船会社が活発に動いている。

弁才船=日本における唯一の大型和船、樽廻船、菱垣廻船、北前船で使われた船、塩飽を始め瀬戸内海地方で使われていたが塩飽が大量の御城米運送を命じられ陸奥湾沿岸で造船し全国的に普及した。

樽廻船=江戸と大坂の間を主に樽に入れて運ぶ酒、醤油等を運んだ問屋組合。
菱垣廻船=江戸と大阪間の雑貨等を運んだ組合。大阪では24の問屋が集まり、海難等では荷の保証を全問屋が共同で行った。

北前船 特に石川県および北陸地方の船主が日本海側から瀬戸内海、大阪間の港に寄港しながら土地の産物を売買しながら行商する船。弁才船が用いられた。同地域の船主は往航に北海道開拓に必要な物資を運び、復航には干しニシン等北海道の産物を運んでいるがこれらを北前船と呼ぶかには議論の余地があろう。

筑前船 遭難場所、病死地点一覧表。筑前船は遭難によって壊滅する。

東廻り航路
 幕府の海運政策は西廻りより東廻り重視である。なんといっても日本海幕領と江戸を航海するには西廻りに比べ圧倒的に距離が短いのである。航海上のむずかしさを問題にする人がいようが塩飽はじめ西国の国々は戦国末期、シャムや交趾(コウシ、ベトナム)等に航海を繰り返し数千人にも及ぶ日本人町を形成するまでとなっている。日本は大航海時代を経験しているのである。それから比べれば東廻りの航海上の問題は問題ではなかろう。塩飽の宮本家はルソン貿易で巨万の富を得たと伝えられている。

幕府の命により海運の法制化、規則等を定める事になった河村瑞賢も東廻りより始めている。寛文11年(1671)東廻り航路改良の提言を行い翌年に寛文12年(1672)西廻りの提言を行っている。江戸時代の海運政策は大船、軍艦禁止令に見られるごとく幕府主導で行われている。江戸初期より江戸、関東地方は多くの自然災害に遭遇し食糧の確保は緊急の課題であった。江戸初期から仙台藩東北各藩も御米を江戸に運んでおり、仙台藩の資料によれば米を江戸へ出荷すれば8倍もの価格で販売できたと書かれている。輸送ルートは仙台郊外荒浜等で積み込み出港し那珂湊等に陸揚げし河川を利用し水郷地帯を経由し江戸へ輸送していた。那珂湊で陸揚げして運んでいたのは海の難所、野島崎が通過できなかったのである。野島崎沖では複雑な潮流、高い波により遭難が相次ぎ結果としての途中での陸揚げ、河川にて江戸へ運ぶようになった。日本海幕領から税として徴収した米を輸送し江戸市中で販売すれば食糧不足対策のみならず大きな利益となった。

古来より日本海側から太平洋側への海運ルートは敦賀に陸揚げし琵琶湖北岸まで馬で運び湖上運送し大津まで運ぶルートがあった。陸路を運ぶ事は輸送賃が高く、途中荷物が減りいろいろな問題を抱えていた。さらに多量の米を大津から江戸に運ぶには困難を抱えていた。東廻りは克服すべき技術的な問題もあった。難所野島崎通過も塩飽廻船は直接江戸湾に入らず大島沖をそのまま南下しいったん伊豆半島下田に寄りそれから北上、江戸湾に入る新ルートを見つけだしている。塩飽は江戸時代初期、大坂城築城も同様であるが江戸城築城の為、石の海上運搬を命じられている。伊豆半島の石を江戸まで運ぶ役目である。この航路を何度も往復する内に比較的安易に見つけだしたと思われる。河村瑞賢がこの航路を見つけだしたとあるが船には素人であり永年公儀船方として東廻りで運搬してきた塩飽の提案を受け入れたと思われる。

もう1つの難所として津軽海峡通過がある。干満の差少ない日本海と干満の差大なる太平洋をつなぐ津軽海峡通過の航海では刻々流れを変えさらに尻屋崎沖の太平洋側では浅瀬、岩礁がひろがっており非常に難しい航路となっている。東廻りの航路についての海図は塩飽勤番所に現在も保存されており文化財となっている。

江戸時代に作られた湊の番付表である。東廻りで重要な湊、西廻りでは必要のない「三厩湊」が実質第2位、1位堺についでである。江戸、大坂を押さえ重要な湊であるとゆうことであろう。(港番付表)

塩飽の資料である。

天和元年(1681)越後高田藩松平光長領地没収に伴い塩飽船75隻により、新潟、出雲崎、直江津の湊より没収米4万5千石、江戸に運ぶ。運送費7、987両2分(約5億3千万円)受け取っている。

津軽藩日記より。

享保13年(1728)6月19日 三厩湊沖横目より入船の報告している。

能登国御城米積船 塩飽船頭 権次郎  (5月21日、入船6月3日出船)

越後国御城米積船 塩飽船頭 権左衛門 (5月21日、入船6月3日出船)

能登国御城米積船 塩飽船頭 伊兵衞  (5月21日、入船6月3日出船)

以下略、合わせ7艘

 三厩の沖横目は御城米船に限り遭難等に限らずすべて藩庁に報告し、藩庁は日記に書き留めている。1日の入港隻数が御城米運送だけで7隻あり他日にも多く入っていると思われる。

塩飽廻船会合控帳である

元文4年(1739)、水主賃銀の定 

羽州越後、能登越前より東廻り江戸付 140匁(約23万円)

越後より西廻り大阪付 77匁(約17万円)

塩飽の船持達が決めた賃金表である。(全文は塩飽史掲載)到着地は違うものの東廻りは倍位の賃金を支払うとしている。ただ江戸時代の弁才船の賃金は2重であり上記の金額は固定給で先払いとしてその3分の1程度支払われていた。塩飽の廻船業尾上家の資料によると成功報酬として上記の賃金とは別に航海の利益の約15パーセントは乗組員に配分されている。(讃州塩飽橘屋廻船資料集)1航海で1000両の利益があり15名乗船するとすれば船頭と炊者の差はあろうが1人あたり平均10両(100万)程加算されることになる。さらに大嵐等に見舞われ無事切り抜けられた場合は船頭からごくろうさん代が支払われている。これらの賃金体系は乗組員にすれば遭難すれば収入減となり安全な航海をめざす事になる。荷主にしても固定給は少なく抑え利益の出た範囲で賃金を支払う事になる。咸臨丸の渡米時の困難な状況を救ったのも弁才船の航海における知恵を活用している。嵐がきても水夫に任せ士官達は甲板に出てくることなくお茶を飲み、その事に激怒したアメリカ人ブルックはジョン万次郎に通訳させ最高責任者、木村摂津守に抗議している。木村摂津守は一切聞き入れず放置したままである。しかし木村摂津守は嵐がおさまると水夫達にご褒美を与えている。侍達に注意すればカドがたつかもしれず“いやいや”仕事だとかえって危なく船内融和にはこれ以外の方法がなかったのだろう。北前船の運営形態からみれば日本海運輸送量と比べれば数パーセント以下といって良いであろう。

 西廻りも同様であるが東廻り航路も幕府からの命からはじまり徐々に民間が参加し、活発な経済活動に組み込まれてゆく。東廻りは西廻りに比べて危険ではあったが距離が短く魅力ある航路であり活発に行われている。

幕府からの命により海運の法制化、規則等を定める事になった河村瑞賢も東廻りより始めている。寛文11年(1671)東廻り航路改良の提言を行い翌年に寛文12年(1672)西廻りの提言を行っている。江戸時代の海運政策は大船、軍艦禁止令に見られるごとく幕府主導で行われている。江戸初期より江戸、関東地方は多くの自然災害に遭遇し食糧の確保は緊急の課題であった。江戸初期から仙台藩東北各藩も御米を江戸に運んでおり、仙台藩の資料によれば米を江戸へ出荷すれば8倍もの価格で販売できたと書かれている。輸送ルートは仙台郊外荒浜等で積み込み出港し那珂湊等に陸揚げし河川を利用し水郷地帯を経由し江戸へ輸送していた。那珂湊で陸揚げして運んでいたのは海の難所、野島崎が通過できなかったのである。野島崎沖では複雑な潮流、高い波により遭難が相次ぎ結果としての途中での陸揚げ河川へのルートになっている。日本海幕領から税として徴収した米を輸送し江戸市中で販売すれば食糧不足対策のみならず大きな利益となった。

古来より日本海側から太平洋側への海運ルートは敦賀に陸揚げし琵琶湖北岸まで馬で運び湖上運送し大津まで運ぶルートがあった。陸路を運ぶ事は輸送賃が高く、途中荷物が減りいろいろな問題を抱えていた。さらに多量の米を大津から江戸に運ぶには困難を抱えていた。東廻りは克服すべき技術的な問題もあった。難所野島崎通過も塩飽廻船は直接江戸湾に入らず大島沖をそのまま南下しいったん伊豆半島下田に寄りそれから北上、江戸湾に入る新ルートを見つけだしている。塩飽は江戸時代初期、大坂城築城も同様であるが江戸城築城の為、石の海上運搬を命じられている。伊豆半島の石を江戸まで運ぶ役目である。この航路を何度も往復する内に比較的安易に見つけだしたと思われる。河村瑞賢がこの航路を見つけだしたとあるが船には素人であり永年公儀船方として東廻りで運送してきた塩飽の提案を受け入れたと思われる。河村瑞賢の提言を受け、安全運航が以前よりすすみ塩飽船は大繁盛している。


西廻りについて

 古い時代から日本海側から太平洋側、京、大坂への交通路は敦賀から陸送し琵琶湖経由が大動脈であった。江戸時代、陸路を含むこの交通路は大量輸送時代には対応できず衰退してゆく。衰退に至る資料が敦賀代官の記録である。寛文7年(1667)、敦賀郡中より西廻差し止めを求める願書が幕府巡見使に対して出されている。敦賀には昔から北陸道7か国、出羽、陸奥の俵物が運ばれていたが、25、6年前から大坂へ直送されることが多くなり、以前は100万俵近く送られてきた俵物が3分の1に減ってしまい、敦賀より京都付近までの人足達が迷惑していると訴えている。願いから二十数年も前から西廻りが増加し琵琶湖経由の陸送に従事している人の仕事が減って悲鳴をあげている。西廻りが爆発的に増えている時代は1667より26年とすると1641年頃であろう。寛永18年、将軍は三代家光の時代である。この頃より西廻りは活況を呈していたのである。寛文12年(1672)多くの書籍には河村瑞賢が西廻りを始めたとあるがそれよりも30年前に敦賀、大津間の流通の脅威になっているのである。

日本海側に残る塩飽船の遭難記録である。いずれも河村瑞賢が西廻りを開いたとされる以前の記録である。

寛文9年(1669)5月、塩飽船が酒田で御城米1380俵、約550石を積み込み西廻りにて江戸に向けて航行するも佐渡沖にて大風、大雨に見舞われて航行の自由を奪われ能登半島先端の狼煙崎にて破船、沈没し乗組員は行方不明となった。

 寛文11年(1671)3月23日、最上川河口に集結していた公儀御城米積みの塩飽船団は突然、春の大風を受け破船、沈没し大きな遭難事件となった。当地に残る破船報告に依れば8人以上乗船の大型船は14艘であり、

「塩飽公儀御役船2艘、塩飽船6、讃岐弁才船1、出雲松江鉄荷船1、佐渡1、北国船1、猟船1、その他1」

なぜ河村瑞賢が東廻り、西廻りの開拓者となっているのであろうか理解に苦しむところである。


佐渡宿根木 白山丸。船体構造はみちのく丸、浪速丸と同様である。
弁才船は江戸時代の標準船

 弁才船は塩飽を始め瀬戸内海で使用されている大型和船である。西国諸国は江戸時代以前より海外貿易をおこなっており大型船の造船、操船は経験があったと思われる。江戸時代に入り弁才船が一般的となり特徴としては櫓を持たず帆だけの推進である。江戸幕府の大船禁止令では櫓漕ぎの船は兵船と認定され建造を禁止、没収されている。塩飽は幕閣から命じられ各藩から没収した兵船を江戸まで運んでいる。大型の兵船でない証拠として櫓を使わなかったのも一因であるが瀬戸内海は潮流が激しく櫓が役に立たなかったと推定される。瀬戸内海の潮流は激しく鳴門海峡が10、5ノット(時速19、4)、来島海峡が10.3ノット(時速19,1km)、関門海峡が9、4ノット(時速17,4km)いずれも最大値である。塩飽は関ヶ原の戦い以降幕府の船手組配下として船の御用を勤めている。塩飽が弁才船を持つに至ったところは名護屋と推測される。塩飽は朝鮮出兵の折、32隻の大船と水主を出し、1度に500名の兵士を運んでいる。さらに石田三成、大谷吉継等の重要人物の渡韓には塩飽船が用いられている。塩飽には損耗、増強に対処するために豊臣秀次の名前で船大工が招集されている。名護屋では大量に大型の船が建造され塩飽の船大工が活躍している。ここで大量造船、短期の建造方法を学んだと思われる。秀吉に用いられ、多くの大船を提供し加えて多くの船大工を提供し、秀吉取り次ぎの浅野長政より赤間から西宮までの瀬戸内海全域を与えるとの文書を受けとっている。

江戸時代に入り塩飽は多くの公儀御用を命じられたが最大の御用は日本海幕領から江戸、大坂への7万5千石の御城米運送である。この要求に応えるために青森県、陸奥湾の蟹田、川内の港に弁才船の大造船基地を建設している。弁才船が御城米を積み日本中航海したことにより一挙に普及したと思われる。これらには日本海で走っていた船や伊勢船を凌駕し日本の海は弁才船に集約されるのである。現青森県での弁才船の造船は非常に有利である。下北や津軽半島にはヒバの美林が広がっており、冬の積雪は山からの木材の搬出は非常に楽である。実際に積雪少ないときには山仕事ができず藩庁に対して救済してほしいとの願いがでている。弁才船の建造は冬期に短期間で行われ通常3,4ヶ月で完成させている。冬期の建造は木が締まっており夏期における航海においては漏水等非常に有利である。津軽や南部で建造された弁才船が日の丸御城米船として東廻りや西廻りに投入されると一挙に普及していった。塩飽廻船の活躍は新井白石の著した「奥羽海運記」には「塩飽船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず」と絶賛されている。一方において「尾勢(尾張、伊勢)等の船隻の如きは、即ち雑雇を以て数を足して可なり」尾張や伊勢の船はできが良くないので船がたりない時の臨時雇いで良いとしている。以上の言葉は河村瑞賢の言葉として紹介されている。尾張や伊勢の船も悪い船だとは思われないが弁才船は日本各地の船乗りの目には羨望として写ったであろう。弁才船は幕府御用の御城米運送に使われ全国に広まり塩飽で育った船が江戸時代を通じ和船の標準船となるのである。



島谷市左衛門、オランダ伝来の航海術の訳本

江戸時代の航法 

 
現在の航法、航海の方法はジャイロ、GPS、レーダー等航法機器を使っている。船の航跡を記録する装置も普通に備えられている。要はコンピューターの海図上に自船の位置を示しながら自動操縦し航行する方法である。30年程前二十万トンタンカーでペルシャ湾往復の航海は経験し海技免状も甲種(昔の言い方であるが)を持っている。当時の航海用計器はレーダーとジャイロ、天測いわゆる星、太陽、月の観測で自船の位置を割り出して航海し対馬などにオメガ局があり世界中で8ヶ所設置されていたが精度等の問題によりあまり使われなかった。アメリカ空軍が運用するGPSの存在は知られていたが軍用専用民間では使用できなかった。航海の方法が劇的に変わるのは大韓航空機がソビエト戦闘機に撃ち落とされる事件以降、米軍仕様のGPSが民間にも開放され船の位置確認が非常に正確にできるようになった。当然公開されたGPSはジャミングをかけており軍用モードに比べ精度は格段におちるものの実用上は問題なく現在においては航海機器としてはならないものになっている。

昨年、咸臨丸子孫会会長の藤本氏の誘いによりヨットによる日本1周の航海に参加させていただき江戸時代の航海の様子を再現できることとなった。江戸時代の航海用計器といえばコンパスそれも日本式に改良されたコンパスを使っており方向は分かったと思われる。自船の位置確認であるが能代から津軽海峡入り三厩湊までの航海においては全行程で岩木山がきれいに見え、その方角も認識できGPSと比較しても位置も正確だった。日本海沿岸はいたるところに高い山がありその山をみることにより位置の確認は十分であり、天測等は不要であると思われた。天候が悪いとおそらく岩木山も見えないと思われるが天測もできなくなる。長い間緯度の計測は簡単にできるが経線の算出は難しくできなかった。英国海軍なども1度に数千名の死者をだしている。緯度、経度ともにほぼ正確に分かるようになったのは正確な時計が普及した幕末頃である。実際に航海してみると山などを見ながら位置は十分できたといえよう。

ヨットでの航海で一番感じたのは気象であった。今回、寄港地変更をおこなった。気象の予報を見ることができ翌日は大荒れそうだとの予報に能代出港し深浦に寄港予定であったが寄らずそのまま陸奥湾の三厩湊までエンジンを使い逃げ込んだ。曇天、ときおり薄日もさし風も吹かず、嵐の前触れなど感じさせなかった。どこが嵐かと思ったが夜明け前より天気予想通り大嵐であった。江戸時代の航海は大変だと感じ気象を予測するのは非常に困難であると思われた。続豊治の御子息が気象予報の方面に進んだのは正解だと思った次第である。蛇足ながら小さなヨットでの旅で一番困ったのは水であり、朝の洗顔もできなかった。弁才船の航海も大変だった感じた次第である。


農具便利論 大倉永常巨石の運搬

巨石の運搬 大坂城と江戸城の違い
 
 現在の大坂城は江戸時代初め家康が秀吉の建てた大阪城の跡地に新に建てている。大坂城と江戸城を比較するとある特徴が見えてくる。大阪城には巨石が使われ江戸城には巨石があまり見られない。巨石はあるにしても大阪城に比べれば小さな方であろう。塩飽には御影石(花崗岩)の産地であり、固く、きれいで城の石垣には最高の材料である。豊後時代の細川藩、福井松平藩等が新大坂城築城の為の採石にきておの形態から比べると輸送量は大きくはなかったといえるであろう。今もって残念石、運ぶのを断念した石が残っておりそれぞれ藩の所有を示す記号が刻まれている。塩飽が巨石の運搬する手段を持っていたからであろう。塩飽はじめ瀬戸内海における巨石の運搬は干潮時の砂浜に引き出し満潮を待って巨石の真上に蒙古軍の弓矢船を動かし、轆轤で船底に石を固定し運んでいる。瀬戸内海は季節により違うが干満の差が最大数メートルにも達し干満の差を利用し巨石を海上輸送している。ただ伊豆半島は巨石があったと思われるが干満の差が小さく巨石運搬ができなかったと思われる。丸太に石を吊り下げて運ぶと真剣に主張する人たちがいるが無理である。直経1メートル長さ10メートルの木材(比重0.7として、70パーセントは自量)の浮力は0.5*0.5*3*10*0.3(半径*半径*円周率*長さ*比重)=2.25で2トン少々しか浮かすことができない。

大坂城の最大の石はどのくらいの船があれば運べるか計算してみた。1メートルの御影石立方体の重量は2、7トン(花崗岩平均比重は2、7)海に沈めれば浮力があり海水1立方メートルの浮力を生じ、陸上では2、7トンの石が海水(比重1、02)中では1、68トンとなる。(アルキメデスの原理)大阪城の最大の蛸石は陸上重量約130トンと推定されており水中重量約80トン、千石船の最大積載量は150トンであり550石積以上の船ならば可能であり千石船クラスであれば余裕である。



塩飽,正覚院,真言宗醍醐派大本山


海運と宗教

 海運に関係の深い塩飽における宗教は真言宗醍醐派と浄土宗である。醍醐派の寺は36カ寺あり(廃寺を含めると増える)2カ寺は浄土宗である。建永2年(1207)法然、親鸞は流刑となり法然は高知県宿毛、親鸞は越後であった。塩飽は当時九条家の荘園だった為か九条家より保護せよとの命を受け塩飽の港に到着すると宿毛への出発を故意に遅らせ1年程程滞在している。結果讃岐滞在中に赦免となり京にかえることになった。塩飽の浄土宗2カ寺はそのときのなごりである。浄土宗は徳川家の宗派であり江戸時代には開祖流刑地として特別な扱いとなるのである。九条家当主兼実も後出家し円証となり弟は天台座主となる慈円がいる。兼実の日記「玉藻」には塩飽付近の法然や源平合戦等が詳しいが塩飽荘園からの報告があったと思われる。

 塩飽と醍醐派の関係は劇的である。天智天皇の後胤で葛声王(かどなおう)は政争の果て太宰府に流され、婦人はその跡を追い途中、塩飽で出産した子が聖宝で真言宗醍醐派の開祖となります。聖宝が開いた醍醐寺は皇室の庇護を受け栄華を繰り返し秀吉の時代に伏見城の鬼門にあたり大きな庇護を受けなかでも「醍醐の花見」は有名である。ここで注目したいのは醍醐寺の末寺の分布が重要な港に集中していることである。塩飽には38カ寺、尾道16カ寺、下関6カ寺、平戸7カ寺、青森県深浦の円覚寺も真言宗醍醐派で北前船等の商人、船乗りの信仰を集めた寺としても有名である。真言宗醍醐派は別の顔も持ち修験の総本山でもある。秀吉は醍醐寺の持つ情報網を把握し海上交通の主要港の情報と山伏の陸の情報網を持っていることになる。醍醐寺の国宝点数は7万点弱を数え1社寺としては群を抜いていつ。明治政府によって修験は禁止となり大きな打撃となり深浦円覚寺も大きな打撃だったと話されていた。塩飽の正覚院は醍醐寺の大本山となっており現在においても、聖宝の母の墓所があり寺格としては醍醐寺門前の3宝院と同じである。

 海運関係者は信仰深く塩飽の神社仏閣は立派で数多くある。拙宅にしても真言宗醍醐派、十輪寺であるが檀家は7軒である。先に述べた正覚院の伽藍は陸奥湾沿岸に2ヶ所造船所を造った牛島丸尾家のみの寄進である。塩飽の鎮守、宮ノ濱の神社も丸尾家の寄進である。塩飽の廻船業、尾上家の船が出港する時には多くの神社仏閣に参拝している。松寿丸、天保11(1840)年、大阪湊より南部行きに際しての雑用帳である。参拝した神社仏閣は住吉宮、西念寺(現此花区)伊勢両社、北野天満宮、住吉、大海神、奈良2月堂、船乗りの信仰深さであろう。ただ塩飽の寺、神社は人口減で荒れつつあり、加えて1家のみの寄進で大勢の人々の寄進とゆう概念がなく当然としいて玉垣がないのである。


塩飽島、笠島地区 専称寺境内吉田家の墓所、明治維新時に村上海賊の残党の襲撃を受けすべて壊されている


海賊について


 海賊と海戦、戦争とは全然違う行為である。定義はさておき他船を襲う事には相違ないが海賊行為が断然難しいのである。戦争においては敵の船を沈没、焼き払い、捕獲等どのような方法でも目的を達したといえ褒賞の対象である。しかし海賊行為は生け捕り、相手の船を無傷で捕獲しなければならないのである。対象船舶を襲い、火災や沈没させれば成果は無である。利益は出てこないのである。英国などは海賊を使いスペイン船を襲わせているがすべて英国政府から金がでており海賊とゆうより戦争行為である。

日本においても中央の権力者が力を失うと各地で海賊行為が発生している。戦国末期、芸予諸島において村上海賊衆が勢力を拡大し大名並みに大きくなっている。当時の瀬戸内海は中央部より東が塩飽の勢力圏で西側が村上海賊衆であった。村上海賊衆は通行する船から帆別銭として金品を取り上げている。一方塩飽は海賊行為をしなかったとされている。櫓を漕ぎながらの追跡は体力上限界であった。船が進むのは潮流と帆=風、櫓であり海賊船といえども潮流と帆は襲われる船と同じ条件である。襲われる方も十分準備を整え、襲撃に備えれば成功は難しくなってくる。万1沈没させたり火をだしたりすると襲う意味がなくなるのである。塩飽より東側は海が開け島嶼が少なく海賊行為は非常に難しく、襲うにしても準備を整えられるとまず無理である。芸予諸島は島嶼が多く不意打ちができて好都合である。村上海賊は海賊行為が可能な場所を見つけ住んだとゆうべきであろう。

大倉永常梅霖は京都東福寺の僧で周防国に税の督促に向かう時の日記である。

「梅霖守龍(ばいりんしゅりゅう)、周防下向日記」

 天文19年(1550)9月14日堺より11反帆(200石積)船頭は塩飽島の源3である。客は約300名、船中は寸土なき状態とあり身動きできないほど人を乗せていたと思われる。備前、日比沖で海賊船1隻が来て、本船と問答す、賊は矢を放ち、本船衆これを欺いて鏃(やじり)を並べ鉄砲を放つ、賊船疵を蒙る者多くすぐに立ち去る。海賊船としても突然襲う事なく交渉から始まっており戦闘は避けたいところであろう。戦闘しないで略奪できれば1番効率が良いことになる。塩飽の客船は海賊船に十分準備、武装しており弓矢、鉄砲まで持っていることが分かる。この場合、海賊船は被害を受け逃げ出しているようである。この人物の乗った船が芸予諸島を通過中に海賊船十数隻に囲まれそれぞれ金を巻き上げられている。突然多くの賊船に囲まれれば対応できないであろう。村上海賊と塩飽との違いであろう。

塩飽と村上水軍との関係は幕末事件となる。幕末、鳥羽伏見の戦いの後、村上水軍の残党は塩飽を襲い吉田家、宮本家の巨大な墓石を破壊している。戦国時代末期、村上海賊衆は秀吉の船を襲い滅ぼされるのである。村上海賊衆は高名な割には活動時代で終了しており江戸時代には活躍の場はなかった。安土桃山時代、江戸時代、塩飽は公儀船方となり公儀御用で活躍することとなる。それも公儀御用の折は幕府の足軽扱いとなり羽織、帯刀を許されている。村上海賊はそれを妬んだのであろうか。村上海賊衆は塩飽を恨むこと250年間、屈辱の歴史を伝え聞いていたのであろうか。



 弘前市商工会議所発行冊子

青森、津軽藩における塩飽

 東廻り航路、日本海側より津軽海峡経由江戸への航路も活発であった。青森県弘前市で出されたパンフレットには塩分町の由来について、弘前城築城当時は塩飽町と呼ばれ瀬戸内海の塩飽島を拠点とする海賊衆やその子孫が暮らしていたと伝えられております。藩政時代初期の塩飽町は現在の上白銀町と塩分町の間にありました。現在の場所は弘前城に面し弘前市役所である。


 築城当時とすれば慶長年間に塩飽の人々は津軽に来ていたことになる。瀬戸内海の塩飽と津軽藩との接点はどこにあるのであろうか。1番考えられるのは名護屋であろう。朝鮮出兵時、塩飽は大船32隻で参加しており名護屋には多くの塩飽船大工が招集されており、大船、乗組員、セットでそろっており非常に魅力ある存在だったに違いない。塩飽の存在は南部藩から独立まもない津軽藩にとって藩存続の大きな力になるとの思ったに違いない。米、産物等の販売するにしても大坂、江戸への輸送は必須であり陸路は考える事はできず当然海路であろう。大船を自由に操船でき造船技術を持つ塩飽の存在は小躍りするものであったであろう。

実際に塩飽は陸奥湾沿岸津軽領、蟹田と南部領、下北半島川内に大造船基地を建設し年間数十隻にも及ぶ弁才船建造を始めるのである。この両造船所には塩飽のみならず日本中より船大工が集まり江戸末期、川内は明治末期まで続くのである。塩飽にとっても陸奥湾沿岸は造船の最適地なのである。弁才船の建造にとって必要なのは木材と釘等に使う鉄である。陸奥湾をとりまく山々にはビバの美林が広がり冬期は降雪し山からの木材の運搬には欠く事ができないものである。切りだした材木は雪上をソリにのせて1気に山をくだり運ぶのである。夏期は川をせき止め材木と1緒に流すことができるのである。北国の材木は成長が遅く、組織が密であり、船材には最高の材料となっている。南国材は材木組織が疎であり降雪が無く山からの運搬が非常に難しくなるのである。屋久島の杉が乱伐採されるのは森林鉄道後である。

弁才船建造当時は木を鉄で縫うとの言い伝えがある程鉄材の入手は必須である。南部藩は南部鉄器としても有名で鉄材の入手が可能である。津軽領蟹田は鉄の産地であり藩が鉄材を販売している。蟹田や川内での弁才船建造期間は非常に短く3、4ヶ月で完成させ一冬に20隻ほど進水させている。


むつ市川内町龍泉寺、塩飽衆の墓、このあたりでは最古の墓


港番付、堺についで三厩が第2位である

縄文時代の海運

以前より疑問に思っていたことは太平洋の島々に限らず世界中の島々には人が住んでいることである。15,6世紀の大航海時代、ヨーロッパ諸国の船がポリネシア、ミクロネシア、ハワイ諸島を含め太平洋の島々に寄港するとほとんどの島に住民おり永年にわたる生活痕跡があることである。各島々で人類が発生したとするのは無理があり船で渡ったのであろう。古代から縄文時代にユーラシア大陸とオーストラリア大陸、アメリカ大陸はじめミクロネシア、ポリネシア、他の太平洋の島々は交流、移動があった事になる。しかしどのようにして渡れるのだと聞かれると答えに窮するのである。現在の知識からしても船の推進力は、位置の測定は、食料、水は問題山積である。きっかけは「邪馬台国はなかった」との本である。著者古田武彦氏は中国の書籍、魏志倭人伝を通じて邪馬壹国に肉薄しようとした本である。魏志倭人伝の最終章の18文字である。

「又、裸国、黒歯国あり、またその東南に在り。船行き1年にして至ること可し」

邪馬壹国(著者が呼ぶ国、「やまたいこく」ではなく「やまいちこく」が正しいとの説)より東南の方向に船で6ヶ月(当時は春から夏までが1年、6ヶ月が1年、)で到達できる国が裸国、黒歯国である。この書き方はたどり着くことができるとの意味にとれるそうである。これらの事情を実際に調べた本がある。「海を越えた縄文人」テレビ東京の出版である。黒歯国の記述がある。エクアドルのコロラド族が黒歯国ではないかと推定している。コロラド族は後のインカ帝国に滅ぼされた民族である。コロラド族は歯を染める習慣があり、現在山中にありながら小さな舟を持っていた。舟は酒を造る道具である。コロラド族の酒造りは女性が口腔でかみつぶした芋にさとうきびの絞り汁をいれ発酵させ酒を造っている。発酵させるには女性の口腔を消毒するためにお歯黒、歯を染めると書かれている。江戸時代の女性がお歯黒をしていたようであるが元は酒を造っていた名残ともいえよう。さらに縄文時代は土器の文化でもあり非常に豊かな食生活をおくっている。土器の使用は食べ物を煮る事ができ美味しく調理でき料理の幅も広がっている。南米に縄文土器が発見されている。エクアドルのバルディビアは日本人の顔つきもよく似ており大量の縄文式土器に酷似している。米国のエバンス夫妻が土器を発掘し縄文式土器と共通点を発表したが日本の考古学会は無視している。太平洋上の島々からも日本の縄文土器が出土している。最後になるが日本の神話の中に海幸彦、山幸彦神話がありなかでも釣り針が重要な小道具として出てくる。現在、ミクロネシア等の船が長期航海するときに少しの水と非常用食料だけ積み込み出港するそうである。食料は魚を釣り、水はスコール(雨)で補充するそうである。太平洋横断等難しく感じるかもしれないが南太平洋、赤道付近は寒さ対策等準備も簡単かもしれない。


国産洋式軍艦、塩飽水主がはじめて操船する

海上と港の儀礼

海上交通において1番の問題は安全の問題である。陸の歴史が戦争の繰り返しであると同じように海も同じである。あまりにも多過ぎるのでマナー程度に済ますが日本においてもイギリス軍艦が長崎に乱入したフェートン号事件や先に述べた村上海賊の行為もある。江戸時代の日本にも重要な港には砲台があり長崎の四郎ガ島砲台、函館の弁天島砲台がある。

現在帆船等で行われている登檣礼、登舷礼、祝砲等も発祥は戦闘行為の予防、衝突の予防措置からきている。登檣礼は多数の乗組員は帆柱にのぼり入港する儀式であるがもともとは入港するときに敵意のない事、大砲は撃たないとの表示である。もし登檣礼をして入港すれば砲撃されることになる。入港時の祝砲も同様で大航海時代からの大砲は連続砲撃ができず次の砲の発射は冷えるまで待たねばならなかった。故に港入港のおり大砲発射すれば当面発射は不可能であり敵意がないことの証明となるのである。現在の自衛艦等の主砲が1つだけなのは機関銃みたいに連続発射が可能であるのは砲身に冷却水が流されている。航海の途中などに異国軍艦同士がすれ違う場合には乗員が舷側にならび敵意を示し戦闘攻撃の意図がないことを示すのである。日本は独特な社会体制を確立しており安全や敵対行動に対してなんの注意力もはらわないところが長所とゆうべきか短所とゆうべきであろうか。

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