マークはエンジェルスが解散してしまい、しばらくはブラブラしていたが、同じようなバンドを作りたくて 松崎しげるのところに電話してバンド結成を持ちかける。 そこにはトミーも来ていてミルク(六人位だと思う)を結成する事になる。 松崎しげるがボーカル、マーク トミーはギター・・・・・・。 (マネージャーは元ダウンタウンブギウギバンドのリーダー宇崎竜童) しかし当のマークは一ヶ月ほどで脱退してしまい、トミーの方はそのままミルクで活動を続ける。 (ミルクはお互いの趣味が広くニューロック、コーラス系、ビートルズとなんでも有りのバンドだった。) そんなトミーも二年ほどでミルクをやめてしまう。 ミュージカル「ヘアー」のオーデションがあったのはそんなある日の事だった。 トミーはマークを誘ってオーデションを受けるが結局マークだけが「ヘアー」に参加する事になる。 マークはウーフ役に抜擢されるが、ダブルキャストだったこの役を演じたもう一人の出演者が、 ボーカルこと大野真澄であった。 ここでミュージカル「ヘアー」の参加メンバーの一部を紹介してみよう。 加藤かつみ(元タイガース)、小阪 忠(元エイプリルフール)、シー・ユーチェン(元フィンガーズ)、 岡田ポール(後期カーナビーツボーカリスト)、宮下フミオ(のちにファーライト結成)、 高田真理(のちに青い三角定規結成)、深水龍作(ミスター・スリム・カンパニーを主催) バックミュージシャン 石川 晶(ドラムス)、江藤 薫(ベース)、杉本喜代志(ギター)、 水谷公生(ギター)、柳田ヒロ(キーボード) 1969年12月、渋谷東横劇場で上演され話題を呼んだが、翌年2月、 出演者が大麻所持で逮捕される事件が起こり、公演は打ち切りになってしまう。 その頃マークとボーカルは小阪 忠からCSN&Yのようなバンド結成を持ちかけられるが、 音楽性の違いから実現するには至らなかった。 CSN&Yに関心を示したマークは、トミーにその話を持ち掛けたのである。 その時、ボーカルは「トミー」の自主公演で居なかったので結局は二人でグループを結成する事になる。 実際の活動としては、六本木飯倉片町にあった「ジョワ」というスナックで、2ヶ月ほど歌っていた。 毎日七時から十二時まで、CSN&Yを中心に、スタンダードナンバーをエレキの弾き語りでやったりしていた。 そこにボーカルも時々顔を見せる様になり三人でハモって遊ぶこともしばしばあったようである。 1970年10月18日、フラワー・トラヴェリン・バンドのカナダ遠征を激励する「壮行コンサート」が開催された。 休憩時間、ロビーにはマイクのセッティングがなされ、そこでマークとトミーは数曲演奏した。 これは中井國二氏(マークとトミーの世話役的存在)のアイデアであり当時すでに人気の有ったマークとトミーを、 ここでよりアピールしようとしたのである。 そこにはボーカルも顔を見せていた。というのも、二人はボーカルの持っている12弦ギターを借りたいと、 電話していたのである。そこで1曲だけボーカルも合わせ三人で演奏をした。 ナンバーはCSN&Yの「青い眼のジュディー」。これが受けに受けたのである。 アコースティックギターでありながら、フォークとは異なったサウンド、そして抜群のハーモニー。 CSN&Yを知らない人達の驚きは容易に想像がつく。 これこそがGARO歴史的デビューの瞬間である。・・・・・・・・・・と言われている。 元スパイダースのかまやつひろしもGARO結成には大きく関わってくる。 彼はCSN&Yのようなバンドを探していた。そして知り合いだったボーカルからマークとトミーを紹介される。 結局はボーカルも入る事になり、三人でかまやつひろしのバックを務めたのである。 これが正式にガロとして演奏した最初ではないだろうか。 (ちなみにトワエモアの前座で演奏する事もあった。) かまやつひろしはGAROを全面的にバックアップ、彼自身のセカンドアルバムでは 彼等のコーラスを押し出したナンバーを四曲ほどいれている。 中でもシングル「四つ葉のクローバー」は(ヒットした)GAROの持ち味がよく出ている。 ちなみに「四つ葉のクローバー」はGARO自身のセカンドアルバムでも聴く事が出来る。 そして1971年10月10日 新レーベルマッシュルームよりシングル「たんぽぽ」でデビューしたのである。 |