通り過ぎていった5台の117Coupe 最初のお話

それは、やはり吉祥寺Laoxでの原体験があってのことだったんだろう。

車に関しては1961年生まれの人間としてはわりと小さいころから身近に感じていた方だと思う。
家は酒屋をやっていてそれには配達がつきもので、親父の脇に乗ってあちこち連れて行かれた。
その頃の道路は舗装路なんてあまりなくほとんどが砂利道やたんぼ道みたいのだったと思う。
だから10分も経つか経たないうちに車酔いしていた。
窓ガラスを開け放して風が顔に当たるようにハーハーと息をしていた。
結構辛かった。
車はスズライトとかカローラバンだったと思う。
中学生の頃、新聞で初代TOYOTAセリカを見てこりゃカッコイイ!と思った。
自分の部屋を作ってもらっていたので天井にセリカのポスターを貼っていた。
今思えばそれはどこで手に入れたのだろうと思ってしまう。

1970年代の終わり頃、東京の私立大学当時相当デカイオーディオショップでパイオニアのヘルパー
としてアルバイトをしていた。
大手の色々なメーカーからの派遣社員がいた。
かなり個性的でクセのある人が多かった。
その中で、マランツの方は特に異彩を放っていた。
一見して解る特徴としてはそのアフロヘアだろう。
スリムな体とそれを際だたせる着こなしは今にも踊り出しそうな、ステップを踏みそうな
ソウルな方だった。
ALTECのスピーカー信奉者がいっぱいて、その方もまさしくその1人。
熱く、厚い音はまさにソウルを感じさせる音でそれがまた604同軸ユニットにのめり込ませる
土俵だったことは言うまでもない。

その方はISUZU 117coupeに乗っていた。
ハンドメイド時代の赤で、それは低くスポーツカーみたいに映った。
何度か乗せてもらった。
自分で運転するのはそのLaoxでの配達用の軽トラックくらいのものだった。
だけどその頃の117coupeの印象というのは低くスポーツカーみたいというにとどまっていた。

新潟に戻って、やはり車が欲しいと思った。
就職したばかりで、貯金とかは元々まったく得意ではなかったので、すなわち有り金もないので
とにかく安い車でよかった。
同級生で貞夫という男がいた。
彼はISUZUに勤めていた。
とりあえず、なんでもいいから車な〜い?
彼の連れていってくれた所に結構な数の中古車達がいた。
その中にISUZU 117coupeがいた。
丸目のグリーンの4速マニュアル。
なんでもよかったのだけど、やっぱりこれにした。
あとで解ったことも結構ある。
パワステじゃないこと、有鉛ハイオクガソリン仕様、エアコンではなく「クーラー」
バックするにはギアを一旦押し下げてからRに入れること、SUツインキャブ仕様
ヘッドライトスイッチはダッシュボード上にあなどなど・・・

だけど、時間が経つに連れ、この「形」から離れられなくなってくる。

2006 / 8 / 13 単身赴任で東京に来て半年が過ぎた

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