大阪船手組、塩飽船における東回り航路、西回り航路の開拓(塩飽史より)

 

大阪船手組塩飽勤番所(重要文化財)香川県丸亀市本島町



江戸時代はじめ、日本海側と江戸・大坂との海上輸送は四代将軍、家綱の時代より始まっている。江戸・大坂は人口流入、火災、自然災害により食料不足となり都市機能維持、治安上からも抜本的な解決をせまられた。幕閣は塩飽島中(大阪船手組)へ日本海側幕府領より江戸・大坂への御城米運送を命じ東回り・西回り航路のはじまりとなった。
塩飽島中は古来より瀬戸内海中央、塩飽諸島で活動した海賊集団で純友の乱、源平合戦の折り屋島攻防戦における中核戦力となり、信長の石山寺本願寺攻において安芸門徒の補給路を塩飽諸島で遮断や秀吉の朝鮮出兵に巨船を提供し、石田三成の渡韓等大きな功績を残している。関ヶ原の戦い後「小者なるもその功績大、、、。」として徳川家康より朱印状を賜り塩飽島中は百姓身分ながら650名の共有の領地となり完全な自治が認められ代表者である年寄は選挙で選んでいる。全国的に見ても百姓身分ながら領地を持ち、代表を選挙でえらび、無税の土地は希有であろう。塩飽領は公儀御用が課されており諸国巡見使、目付、長崎奉行、幕閣要人の瀬戸内海往来、朝鮮通信使の淀川上下等があった。嘉永7年(1854)洋式軍艦鳳凰丸の操船要員として30名、咸臨丸渡米時37名、小笠原探検時127名等幕末時までに数百名が公儀御用の洋式軍艦の操船御用に従事している①。
幕閣から塩飽島中への御城米運送要請は7万5000石で千石積みの船でも75隻必要で塩飽牛島の丸尾五左衛門は大量建造をすべく陸奥湾内、下北半島川内湊と津軽半島蟹田湊に一族を派遣している。下北半島と津軽半島はヒバの美林でおおわれ南部領川内湊は鉄材に恵まれ、津軽藩蟹田は鉄の生産地ある。丸尾五左衛門はめぐまれた地で弁才船を合わせ船(造船)し最盛期には蟹田湊だけで一冬、十数隻と記録されている②。塩飽生まれの弁才船が東回り、西回りで運行を始めると全国にひろまり、江戸時代の船といえば弁才船一色となる。新井白石の「奥羽海運記」において河村瑞賢の記述として「塩飽船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず」と絶賛されており「尾勢(尾張、伊勢)等の船隻の如きは、即ち雑雇以て数を足して可なり」尾張や伊勢の船は船がたりない時の臨時雇いで良いとしている。
「御城米直雇い以後、北国・西国・中国より江戸回り御城米残らず塩飽船にて積み回し、、、。③」とあり当初は御城米運送を塩飽船が独占している状況がみられる。津軽三厩湊の沖目付の報告には塩飽御城米船は能登の幕領より江戸まで運んでおり東回りも活発に活動していた様子が判明する。三百数十年前丸尾五左衛門が塩飽より川内、蟹田湊に派遣した御子孫は2015年現在ご健在である④。丸尾五左衛門が川内湊に勧請した熊野神社は寛文2年(1662)、蟹田湊の熊野宮は寛文3年(1663)建立であり弁才船の建造はこの数年前から始まったと推定される⑤。御城米運送は大坂城代、大坂町奉行、塩飽島中の三者によって運送計画が決められている⑥。御城米運送は集荷、積み出し港、到着港等は荷主である幕府の手によって決められ塩飽船は弁才船を建造と運送に専念するだけでよかった。直雇御城米運送は塩飽にとって安定的に運送料を得ることになり、幕府にとっても税として集めた米が江戸・大坂に運ぶ事によって食糧問題を解決し、莫大な収入となった。

 簡易年表
   寛文2年(1662)丸尾五左衛門は川内湊に熊野神社を勧請(現存)。翌年、蟹田湊に熊野宮を勧請(丸尾家敷地内に現存)。
   寛文7年(1667)敦賀郷中、諸国巡見使へ西回り航路差し止め願い提出(福井県史)。
   寛文9年(1669)5月、塩飽御城米船能登半島狼煙浦にて遭難(加賀藩資料)。
   寛文11年(1671)3月、酒田沖大量遭難事件8名以上乗り組み大型船14隻沈没、そのうち塩飽船8隻⑦。
   寛文11年(1671)河村瑞賢東回り航路改善提言、翌年、西回り航路改善の提言。

 塩飽の御城米船が運航を始めると敦賀郷中が悲鳴をあげている。長年にわたって日本海側から太平洋側への運搬路である敦賀湊へ陸揚げし琵琶湖経由での米の運送が激減しての申し立てである。河村瑞賢の提言は安全運航にとって的を射たもので御城米船の運行のみならず日本海運にとって救世主となった。
弁才船の優秀性
弁才船は潮流激しい瀬戸内海で生まれ、何よりも1枚の大きな帆と舵は操船が単純で機動性に優れ、湊の中でも引船なしで着岸でき小回りも容易であった。「弁才船は大きく帆を張ったまま湊に入り、小回りができ船体を船着き場に近づけ一挙に帆を下ろすと船はぴたりと止まりそれは勇壮な眺めであった」酒田沖飛島に残っている話である。甲板がないのは荷役が簡単である。最短記録に近いと思われるが鳥羽から江戸湾へ1日で航行しており⑧、瀬戸内海大阪より北九州まで4日で走っている。弁才船が生まれた塩飽の海、瀬戸内海は海が大きく荒れることはなく、多くの島々があり避難港に恵まれている。御城米の運送においても湊には日和山を配置し出港時は天候を見る専門の役人を置き単独行動は禁止されており遭難を防いでいた。船の遭難が少なくなるのは舶用機関の登場と天気予報の充実からである。
 弁才船の建造は秋に取りかかり、翌春には完成しており長くて半年である⑨。建造が容易で積載量多く、操船しやすく、乗組員少なく、機動性があり、速度が速いとの特徴から一挙に全国に広まることとなった。湊には弁才船の帆柱が林立する風景となっている。弁才船船尾構造と巨大な舵は荒天に弱いとの説があるが事実であろう。欠点を上回る長所があり明治の代まで使われることとなった。
 塩飽回船は御城米運送において先進的な役目を果たしたがその活動は長く続かなかった。元禄の頃より米余りとなり、米価の暴落をまねいておりその対策が求められた。享保5年(1720)将軍吉宗は米の流通整備に乗り出し、直雇い御城米運送を廃止、江戸商人筑前屋の請負とした。御城米運送は入札となり塩飽船の優位性はなくなり、独自で荷物を集める手段を持たなかった塩飽回船は急速に衰退していった。いわば官業の塩飽回船から民業の回船に移行していった。塩飽回船が開拓した東回り・西回り航路であるが各地に出現した回船業は御城米に限らず種々な荷物を運び海運王国となる基礎を築いていった。
参考資料
寛政11年(1799)大阪東町奉行水野若狭守忠通から塩飽島中に出された文書である。「塩飽島の儀は渡船要用の勲功をもって歴年御役水主650人に御朱印下され貢とて納める事なく、作物収納高も総島公用その他、島中物入払方に割符致し、有り余る時は650人の水主人別に配分し、まったく作り取りにて、百姓の身分にたぐり稀なる規模の至り有り難からずや。しかる上は島中一同その冥加を存じ、後年船方御用筋は勿論、御下知の品違背なく速やかに励み勤むべき事、、、。」⑩

引用

①④⑧⑩「塩飽史」吉田幸男
②⑨津軽藩日記「海賊から海商へ」 丸尾義輔
③「瀬戸内海における塩飽海賊史」 真木信夫
⑤「下北地方史話」 富岡一郎
⑥「塩飽牛島極楽寺資料」(香川県史)
⑦「近世河川水運史の研究」 横山昭男

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