鍋島と竜造寺と諫早

佐賀藩圧政の虚構と諫早の実像

吉田 幸男

  発展を続ける諫早市ではありますが昭和を過ぎたこの時代になっても「漫画諫早一揆」に代表されるように諫早の歴史ならびに諫早人の性格を論ずる時に必ずでてくる言葉があります。 「永年に渡る佐賀本藩の圧制により諫早領民は苦しみ、、、、、、結果として消極的、閉鎖的性格となり、、、、」との言葉です。はたして近世の諫早は佐賀藩の圧制下に領民は苦しみ、本当に暗黒の時代であったのでしょうか。 以上の問題は諫早史談会の諸先輩の研究発表が多く非常に書きづらいテーマではありますが、新たな視点で近世諫早を描く事も面白い事ではないかと筆をとりました。書き始めるきっかけになったのは佐賀藩の科学技術を調べておりました折り、近世の枠内ながら諫早は佐賀藩の圧制どころか非常に住みやすく領民は非常に誇りをもって生活していたように感じられました。近世の諫早の最大事件である諫早百姓一揆を中心にしながら諫早領の実像に迫ってゆきたいと思います。 

 佐賀鍋島藩の成り立ち 近世の諫早は佐賀藩に属しており、諫早を語るには佐賀藩にふれないわけにはまいりませんし、佐賀藩は竜造寺抜きには語ることができません。佐賀鍋島藩祖、鍋島直茂は西九州に大きく勢力を持っていた竜造寺隆信の一配下でした。直茂は戦いのたび隆信を助け、多くの竜造寺家臣団のなかで最有力家臣となってゆきます。 天正一二年、竜造寺隆信は島原において島津の軍勢(薩摩)と戦い戦死、竜造寺隆信の子「政家」、孫「高房」が後継者の候補者としてあがりました。しかし「政家」は病弱、「高房」は年少であり、家督は竜造寺政家、高房に、国の支配は鍋島直茂へと分離してゆきました。天正一八年正月八日、豊臣秀吉から『肥前国竜造寺藤八郎知行割之事』として竜造寺高房にだされた朱印状は後藤善次郎(武雄)・竜造寺六郎次郎・竜造寺いせ松・神代二郎・竜造寺阿波守・竜造寺七郎左衛門(家晴)・鍋島加賀の守(直茂)と平等に記載されております。知行高において鍋島氏が優位に立つものの、竜造寺家晴(諫早祖)・後藤家信(竜造寺隆信三男、武雄後藤貴明に養子)・竜造寺長信(多久祖)等、竜造寺系有力大名を包括する複合藩として存在しておりました。しかし豊臣秀吉の朝鮮出兵等の軍役は鍋島直茂・勝茂親子の手で進められ実質的に鍋島一族の手に委ねられておりました。 徳川政権に移行しても江戸における竜造寺政家・高房の費用は鍋島直茂よりだされており、実質的に鍋島の支配は動かないものになっておりました。

 竜造寺の家督問題が正式に決着したのは、慶長一二年、竜造寺高房・政家のほぼ同時の死亡により竜造寺本家が断絶してからでした。竜造寺本家断絶をうけて竜造寺の家督問題が公儀にとりあげられた折り、諫早家晴は徳川政権と鍋島家の媒介役を勤め、諫早・武雄・多久・須古等の竜造寺一門をまとめ一致して竜造寺の家督は鍋島勝茂が相続すべきと積極的に主張し、公儀も竜造寺家臣団の意見を認め名実ともに佐賀鍋島藩が成立しました。慶長一三年、鍋島勝茂は佐賀鍋島藩政を執行するにあたり竜造寺一門の存在と意志を無視する事はできず、旧竜造寺の諫早・武雄・多久・須古の四家を加判家老に任命しました。加判家老とは藩法に印を加える意味であり単なる普通の家来ではなく共同の統治者の意味を持っておりました。

 初期の佐賀鍋島藩 鍋島勝茂は関が原の戦いにおいて西軍に加担し敗北しましたが、伊井直政等あらゆる手だてを使い、ようやく藩の存続と佐賀での領地が安堵されました。しかし徳川政権下における外様(とざま)の例にもれなく、公儀普請役に任命され多大な出費を余儀なくされました。佐賀藩に課せられた公儀普請は次に述べるように膨大なものにのぼります。

慶長 七年 伏見城

同 八年 名古屋城、

同 一〇年より一一年 江戸城、

同 一二年より一三年 駿府城、

同 一四年 篠山城、

同 一五年より一六年 名古屋城、

同 一六年より一九年 江戸城、

元和 二年 大阪城、

同 五年 江戸城、石の運送

 藩として存在はしたものの休む暇もない公儀普請の連続は佐賀藩の借銀は多額にのぼり財政は圧迫されました。さらに寛永一四年、突如勃発した島原・天草の乱は隣藩でもあり多くの出兵を余儀なくされ多額の軍費は完全に佐賀藩の財政を破綻させました。 加え、初代藩主として鍋島勝茂は外様の負い目を背負いながら熱心に公儀奉公を勤めます。いっそう公儀に忠誠を尽くす為、三名の子供を公儀奉公に差し出しました。三名の連続する江戸住いは多額の費用を要し、寛永年間の末に交替制にして欲しいと公儀に願い出て受理されました。三名の公儀での扱いは部屋住の大名となりました。時悪くこの頃より始まった参勤交代は藩主一名で済むところ、小城、蓮池、鹿島の三名を加え四名勤めなければならず、公儀からは大名になった三名に対しては当然領地はなく、藩内から新たに知行地を求めなければなりませんでした。最初の上地も三支藩に振り向け一層財政危機を進行させました。現在においても三支藩創設に関する資料ははっきりせず、佐賀県史においても佐賀藩の重大事件にもかかわらずいつ三家が創設されたかなどの資料が残っていないのは不思議であると記載されております。

 佐賀藩の財政 初期の佐賀藩の重大課題は赤字財政と借銀問題でありました。財政を解決するには家臣団、領民へ税の増大として転化する他に方法はありません。慶長一五年、三部上地(知行地の三割召し上げ)、反米返上の名義で一〇〇石につき七〇石の米の返上(出米)を命じました。しかしこれで解決するようななまやさしい借銀の量ではなく財政は一向に好転しませんでした。 鍋島藩成立時より藩政の責任者は勝茂の側近で鍋島茂里、鍋島生三でした。この二人は勝茂の側近として関が原の戦い・本領確保・公儀普請・竜造寺相続問題等処理にあたり大きな功績を残し、茂里の死去後は「生三」一人で藩政を動かしておりました。慶長一五年の重税にかかわらず財政は一向に好転せず借銀は増え続け元和六年佐賀藩の借銀は二六〇〇貫に達しました。他に妙案はなく再び家中一律に反銭、反米を命じようとしました。 この時、多久安順の主導のもと旧竜造寺四家は一致して家中一律の今以上の重税は藩の衰微を招き、藩の活気を失なうとして、自らの旧竜造寺四家の領地を削り財政の克服策としました。二度目の上地は旧竜造寺四家が自発的におこなったものでした。誰も真似できぬ旧竜造寺四家の行動は鍋島藩の救世主として藩内外に大きな力を持つきっかけとなります。旧竜造寺四家は献米・献金、領地を減らしながらも財政危機の藩を救い、藩内に着実に発言権を増してゆきます。寛永一二年、鍋島勝茂は多久茂辰に国元諸事支配(当役、請役、執政、以後請役とする)に命じ、財政、家中の総支配、賞罰等、大幅な権限を与えました。請役の相談役には旧竜造寺の諫早、武雄、須古が就任しました。諫早家は諫早領主と佐賀藩全体の藩政の責任者としての二つの側面をもっておりました。

 支藩、親類層進出の実態 藩主鍋島勝茂は旧竜造寺一門に助けられながらも藩内に勢力を確保する為、積極的な鍋島一門の進出策を画策してゆきます。旧竜造寺四家が上地した土地も三支藩の領地の拡大に向け、親類層の上位への進出は旧竜造寺系上級家臣団を禄高の上でも位の上でも凌駕する意図が込められておりました。初期、第一位であった諫早家は八番目となり旧竜造寺一門の地位の低下はまぬがれませんでした。 しかし詳しくみますと、三支藩は公儀との関係でできたものであり藩内事情より対公儀との関係でできたものでした。佐賀藩における三支藩の立場は微妙であり、三支藩主は公儀より朱印状をもらっている大名であり形の上では本藩藩主と同格であり、実際公然と本藩に反抗し独立する傾向が強く実際に幾度も事件を起こしております。

 親類四家創設にしても、藩内の旧勢力の家に養子の形で入る方法をとり、藩内の融和に細心の注意をはらっている事が読み取れます。親類四家の内本当に親類として創設されたのは白石鍋島家だけで、川久保神代家(かわくぼくましろ)は旧勢力の少弍資宗の系統であり、鳥栖村田家はその親類であり、久保田村田家の祖はゆうまでもなく高房の弟であり竜造寺本家の筋です。以上の事実はいかに鍋島家が藩内に細かく気遣っている証拠であります。現に請役就任を要請された鍋島直弘(親類、白石鍋島家)は「自分が請役に就任する事は請役を軽々しくする」と辞退した程でした。旧竜造寺四家は着到帳の順位にかかわらず鍋島藩内での勢力は非常に強力でした。 享保の飢饉 佐賀藩においては藩主の家政を行う内役と藩政一般を行う外役があり、外役の総責任者が請役ですが財政危機の進行とともに御側層の外役への干渉、進出が露骨な形であらわれ始めました。金を集めるのが外役、使うのが内役であり、使う方が金集めに口を出してきたといえます。

 元禄一二年、佐賀藩主に就任した綱茂は旧竜造寺四家を「親類同格」とし鍋島の親類と同格として身分を上位に格付けしました。この事は裏腹に旧竜造寺四家を藩政で強大な権限を持つ請役からの排除をめざすものでした。「親類同格」の発令と同時に従来低い地位と見られていた着座層の深掘鍋島茂久と成富種弘が請役に就任し、旧竜造寺四家の請役からの排除に成功しました。宝永五年、藩主綱茂の隠居とともに、成富種弘は請役家老を罷免され牢人となり、再び旧竜造寺四家が請役に就任するようになりました。これ以後も強大な力を持つ請役を側役からとの圧力は依然としてあり、また直接、請役の力を減ずる事も行われました。請役の任期を一年ごとに任命し秋役とも呼ばれるようにもなりました。また藩の財政だけを受け持つ勝手方が新たに設けられ、請役と同等の権限を持たせ請役の力を減ずる事も行われました。

 享保一七年、新藩主に宗茂が就任すると一層露骨なかたちで藩政への干渉が始まりました。着座に有田八右衛門を側役から抜擢し加判兼任御勝手方に任命し藩主側の独裁政権をめざし始めました。 相前後して当時請役の諫早茂晴への露骨な追い落としが始まりました。藩主宗茂は同三月、諫早茂晴が病犬を城下より追放したかどにより叱責のうえ一月の遠慮を命じ、同六月手落ちとも思えぬ些細な事をとりあげ杉材方監督不行き届きを責め請役を罷免蟄居に追い込み、同一一月に隠居を命じました。こうして藩主宗茂の全面的な意向を受けた有田八右衛門の藩政の独裁が完了しました。

 時を同じくして同一七年、藩政の混乱が続いている最中、西日本一帯はウンカの大発生により大飢饉に見舞われます。佐賀藩においても各神社、寺において祈祷をおこない、農村では田の水に鯨油を撒いてウンカの防除に努めました。公儀も広範囲なウンカの被害を予想、多額の金と七万石以上の多量の米を大阪に用意、被害を受けた西日本各地へ配送の準備をしいておりました。しかしウンカは次から次へと発生しついに「農人も精力尽き果て、田を打捨て食べ物を求め西に東にさ迷う」最悪の状況に陥りました。藩では公儀より二万両を拝借し食料の確保に努め、大阪より到着する筈の公儀の七七〇〇石の米を待ちわびておりました。不運にも一〇月一六日より一二月七日まで吹いた西風により大阪よりの米を積んだ船は大村へ到着することができませんでした。佐賀藩内の米の収穫量は平年の約二割弱しかなく、種籾を食用に回すも足りず、例年より早く一〇月より降り始めた雪は餓死者を急増させ藩内各地で死体の山ができました。飢饉の一断面を伝える当時の記録は次の通りです。

 「同一〇月より降たる雪、翌弥生比迄不消、寒風肌を裂、飢寒の二ツに命を不保者算数を不知、稀に親族ある者は寺院に埋葬し、墓に捨て帰るもあり、埋こと浅き者は狐狸の為掘出さる、此時寺院も手に不及、駅路大路に行倒ハ、役夫寺主に命して掘込、端々に死遠在の下臈下輩も急速公所ヘ通達、上司下司註進演達無間断、然共下賎の奴、双親死すれ共、一子とうとして不助、夫婦兄弟死亡に臨め共、悲嘆の涙睫を不濡、剰暫の命を助けのといふ者あれハ、抱ける幼児を深淵に沈めて身を人に委ねる女あり、鳴呼浅ましき哉、此時に当りて四端の心尽果て、蛮夷の行をなせり、麋粥小屋の前にハ、日に五・六〇人死体築山、男女露形赤、野外に掘込時ハ同穴に二〇・三〇人、誠に目も当てられぬ有様也、如此餓死せる者ハ、閉眼すといへ共、死軆わすかに赤黒色也、是殻を絶か故也」

 以上の様に佐賀藩内は口にするのも恐ろしい惨状を呈しました。一二月中旬になり大阪より積み出された第一船が米九五〇石を積載し大村に到着、その後も続々船が入り、飢饉は一応回避されます。しかしこの飢饉の打撃は大きく翌年の田植は「耕作の田、おおよそ三分にして稲植える人、欠乏し三〇〜四〇日も後にずれたり」と記録されてます。佐賀藩内における享保一七年の餓死者は約八万人を数え、この数は佐賀藩の人口の約二割に達しました。 享保一八年正月、小城支藩鍋島直英は諫早茂晴からの手紙により蓮池支藩、親類四家等佐賀藩上級家臣を白石鍋島邸(諫早茂晴の実家)に集め相談のうえ宗茂が任命した有田八右衛門の罷免を藩主の留守に実行します。批判は藩政全般にわたり、最も激しい非難は前年の大飢饉において有効な処置がとれなかった事でした。有田八右衛門の罷免後、初めて藩主宗茂に報告され宗茂は激怒しましたが、現実には何の対抗処置もとれず宗茂の完敗に終わりました。この事件後、御勝手役を廃止、藩主独裁側近政治から元の旧竜造寺を中心とする請役を中心とする政治へ戻さざるをえませんでした。

 この事件は藩主宗茂や側役が江戸での甘い生活に慣れ、佐賀の家中や百姓をただ単なる租税収奪の対象としてだけ見ていた事によると思われます。知行地運営に責任を持ち大飢饉において危機打開の為に一生懸命になっている支藩や大配分領主から見れば、有効な手段もとらずむざむざと餓死してゆく領民の姿を見れば藩主への公然の反抗も当然の事であります。危急時には佐賀藩においては諫早家を含む旧竜造寺四家を中心とした家臣団が藩主の進退まで左右できる力を持っていたと見られます。ほぼ同様の事件は幕末の文政七年、当時の請役、武雄領主鍋島茂義を中心したと佐賀藩上級家臣団は偽名を使い江戸に登り、江戸藩邸の乱脈経理を糾弾し、側役を切腹させ浪費家の藩主斎直を隠居に追い込み直正(閑叟)登場のきっかけとなりました。この事件は文化七年の変として伝えられております。

 諫早領の飢饉への対応 享保一七年初夏、ウンカの損害が予想される中、諫早領独自で早々と被害の状況調査を終了しておりました。その後諫早領の被害の状況について本藩の立ち入り調査もあわせ実施されました。しかし本藩の調査の結果は諫早側の調査と比べ損害状況が少なく見積もられておりました。この報告を受けた諫早茂晴は蟄居の身でありましたが本藩の以後の被害調査を拒否しました。表向きの理由は本藩の調査を待っていれば収穫が先に延び、まだウンカの入っていない田も被害を受ける等々の理由をつけておりますが、実際は調査を受ければより多量の米の供出を命ぜられる恐れからとみられます。諫早領民の生命を最優先された茂晴の行動がみられます。茂晴は諫早佐賀屋敷に蟄居中でありましたが飢饉が予想される為、地元諫早での蟄居に替える願を出しておりますが、文は格調高く誠の心情が吐露されております。

 「諫早之義、先祖働ヲ以手ニ入、只今迄相続仕来候知行之儀候処、此節家中其外下々迄餓死仕セ及滅却行懸リ、去迚ハ不及是非仕合御坐候、責而私手許諸事相止、少之余餘ヲ以成共相成所迄、餓死不仕介抱仕度存念座候」 諫早領は先祖の働きによって手に入れた知行地であり家中、領民が餓死するとあっては領主手許の諸事を辞めて介抱したいと切々と書かれてあり、諫早領の独立不撓の精神と飢えに苦しむ諫早領民を救う信念が高らかにうたいあげられております。

 茂晴の飢饉をのがれる指示も適切で多岐にわたり、家臣団には身分不相応の働きをしてでも飢饉をのがれよと指示し、餓死しそうな者には飢飯米を与え、藩主の倉庫を開放し食料を他領に求めるなど、なりふりかまわぬ行動により、佐賀本藩とは対照的に飢饉を切り抜けることに成功しました。 諫早領においては領主、家臣団、領民の一致した努力により餓死者をださずに済みました。享保の飢饉について諫早市史は餓死者を出さずとあり、山部淳氏の享保の飢饉についての論文でも餓死者の数については記載されておりません。同じく旧竜造寺の武雄領にしても餓死者はだしておらず、人口の二割以上の餓死者を出した本藩の大きな手落ちは明らかでありましょう。

 諫早一揆直前の動き

 蓮池支藩鍋島直恒は老中酒井雅楽頭忠添に佐賀藩主鍋島宗教は病身の為、公儀奉公できず隠居すると申し出、一方、宗教には老中の御内意として公儀奉公を辞退させました。これを受け酒井雅楽頭忠添は新藩主の人柄などを諫早茂行に問い合わせました。後日この事件は鍋島直恒の策略と判明し、鍋島直恒は江戸藩邸で変死、諫早茂行は謀議に荷担したとして知行一万石(物成四〇〇〇石)を没収の上、蟄居隠居させられました。

 以上が諫早一揆にいたる簡単な概略ですが、蓮池支藩鍋島直恒への処分がなかったのは処分権が鍋島藩になく、公儀の了解を受けなければならない事が原因と思われます。蓮池支藩の資料は鍋島直恒が何も罰を受けない事を理由に宗教引き下ろし事件はすべて諫早茂行一人の仕業としております。 このように藩主宗教の引き下ろしがいとも簡単に行われた裏には藩主の行動に大きな原因がありました。宗教は藩主就任時より至極短気で鷹狩りの折りなど些細な事から立腹し刀に手を掛ける行動が見られました。

 また寛延二年江戸在府中、公儀へ弟主膳の養子願いを独断で出そうともしました。軽率な行動の目立つ宗教に対し、諫早茂行はまだ若く公儀の勤めができるのに養子願いを出すべきでなく、外聞も悪いうえこのような重要な事を江戸で一人で決めるべきでなく、国にかえり宗茂と相談されたいと書状をもって諭しております。しかし一度納得したかにみえた宗教は江戸城より帰途の途中に突如、若年寄水野邸に出向き養子の件について相談したいとして側近を困らしております。諫早茂行に出された武雄領主鍋島十左衛門からの手紙は茂行の苦労に同情し、藩主宗教の行動を非難し、大切な事をなぜ軽々しく口にするのか不思議がり、一時中止が決定した薩摩藩主の招請、道成寺の能興行を行うとして側近を困らせているのをなげき「御心苦しく、筆紙につくしがたい」と書き送っております。藩主宗教の異常な行動に悩まされていた佐賀藩家中にあって、宗教ひきおろしは公然の秘密であり、日頃より宗教の行動に失望し苦々しく思っていた諫早茂行にしてみれば当然の行動であり、上級家臣団の暗黙の了解をうけていたものと想像されます。

諫早一揆の発生と収拾

 諫早領の知行一万石没収を受け、一揆勃発となりますが諫早における一揆は他地方で見られない特徴を見ることができます。一揆は整然と行われ弾圧する武士がいなく、家老・儒者等諫早領における支配者層が一揆に荷担しているのは非常にめずらしい現象です。支配者である藩主の屋敷や諫早家臣団に対しての打ち壊しや暴動等が見られず一揆の方法が長崎奉行所、天領日田代官所、大阪町奉行所等への訴えが中心である事や、大阪町奉行所の訴えの不採用が決まってから一揆が簡単に終結している事などに見られます。一揆は農民にはなかなか見られない形態、発想であり、諫早百姓一揆と呼ばれてはおりますが、真相は諫早領の支配層すなわち諫早家臣団の本藩佐賀に対する昂然たる反抗と位置づけるのが真相のようです。 年貢の面だけに限定すると、諫早領の領民にとっては一万石の召し上げは大きな問題ではありません。

 蔵入地(佐賀本藩の領地)、大配分領地(諫早等の領地)をとわず限界を越えての年貢の徴収は考えられません。諫早郷土史家の山口祐造氏によれば蔵入れ地の百姓は威張っていたとの事でもあり、自分の土地が蔵入れ地に指定されれば威張られるだけ得かと思われます。 一方、諫早領の家臣団においては大変な事態となります。いままでの自分の知行地が蔵入地に指定されるとなれば知行地がなくなることであり、蔵入地の指定からはずれたとしても収入はほぼ半減する事となります。一万石没収で一番打撃の大きいのは諫早家臣団であり諫早一揆は諫早家臣団の主導のもとに整然と行われたとするのが真相と思われます。一揆の途中において諫早家臣団の一部より知行地一万石没収の替わりに四千石を毎年本藩に納入するとの代案がでております事は先に述べた事実を裏付けております。 享保の飢饉の時のみならず元禄一二年、本明川の大氾濫は死者四八七名を出し、田畑、家屋に大被害をあたえましたが、諫早領主は銀二〇〇貫を借用し被害の救済に使い、当座の飯米、住宅等手厚く援助し、享保一七年の岡町の火事にも救済の手をさしのべております。諫早領の領民が諫早領主を「活命の重恩」と感ずるのも当然と思われます。諫早領においては家臣団と領民との階級対立が見られないばかりか、領民が家臣団の利害に同情し行動をおこしたようにもみえるのです。この事はいかに諫早領においては諫早家が善政を行っていたとの証明になりましょう。一揆の結末は家老・儒者・武士・百姓を含め一〇〇名以上の磔・獄門をはじめとする多数の犠牲者を出しほぼ諫早領の完敗の形で終わりました。

諫早一揆の後

 諫早一揆のおよぼす影響はおおきく藩政は大きく変わりました。諫早一揆以降安易な上地策がとれなくなり、藩政の要職から大幅に後退していった諫早家が復権し安永・天明の改革において諫早領主諫早茂図は請役として辣腕を振るう場が与えられました。その上、諫早領は一種の聖域となり藩内においても別格扱いとなりました。幕末時、本藩・武雄・多久・深掘・小城等は戦闘部隊を奥羽の山河に送り、薩長の為に奥羽の地を戦塵で汚しました。しかし諫早領においては出兵せず、奥羽の大地を諫早人の血で汚す事になりませんでした。領民の生命を大切にするのは最大の善政でありましょう。 一方、竜造寺の後を継ぎ一国一城の主になった鍋島勝茂にしても関が原の戦い後、家臣を前に見通しを謝り誠に申し訳なし、この上は切腹してお詫びすると取り乱したり、島原の乱において軍記違反で公儀より逼塞の罪を受けております。後の藩主鍋島斎直もフェートン号事件後、長崎港警備の不手際により逼塞の処分を受けております。大藩の藩主といえども公儀に仕える事は大変な事なのです。近世における諌早領の問題をただ単に諫早と佐賀との関係だけで述べる事は一面的となりましょう。公儀と外様の佐賀藩、その藩内の諫早として視野を広げて見る事が求められます。当然の事ながら佐賀本藩がもし取り潰しや転封となれば諫早は想像も出来ない大変な状態となることは容易に予想されます。佐賀藩は藩内に支藩、親類、親類同格等設け、竜造寺、少弐、松浦党の残党を抱え、化け猫話しまで作りながら藩は複雑怪奇とみせかけるのも重要な政策だったともいえます。あらゆる手段を用いながらの公儀奉公の結果、鍋島家は二度も公儀より逼塞の処分を受けながらも取り潰しや転封にならず佐賀の地で幕末を迎える事ができました。ひとえに佐賀は鍋島でなければ勤まらずと公儀に思い込ませた佐賀鍋島家の苦心の結果との推測も成り立ちます。ただ単に佐賀の圧制、佐賀憎しだけでは歴史の真実からはずれる事になりましょう。

 諫早の真の姿

 日本史の最前線で華々しく活躍するのも歴史でありましょうが、日々家族そろって生活するのも歴史です。豊かで広い水田地帯を持ち、商都大阪においてさえ名物は粟おこしですが米のおこしを作り、領主に恵まれればこれ以上望む事は贅沢ではないでしょうか。藩主に恵まれなかった領民がどのようになるかは隣国島原藩(松倉氏時代)の教訓だけで十分でしょう。諫早家晴、直孝は現在風にいえば中小企業の社長とならず、大企業の重役の道を選びました。他領の人々はこの決断をすべて大英断と羨んでおります。江戸時代の旅行記「西遊雑記」の著者古川古松軒は諫早について記述、「一万石の知行所にて、三万石余りの土地とゆう、諫早家は大村同様の大名ながら、いろいろ才覚して鍋島家に頼りていつとはなく家老となりし家にて、、、」と書かかれており、他郷の人には諫早は三万石以上の豊かな土地と鍋島の重臣になった事を名を捨て実をとったと羨ましく映っております。このように近世諫早領は百姓と武士との階級差を乗り越え、豊かな生活を送っていた様子がうかがえます。諫早領においては正月に「百姓御振舞」と称し、領主がすべての百姓をお屋敷始め領内数カ所において接待する習慣がありました。文久三年の資料では正月の四日間で六八八七名(初日二三一二名、二日一四二二名、三日一八六六名、四日一二八六名)名の大接待を行なっております。武士が百姓を接待するような事は日本ひろしといえども聞いた事がありません。 現在の諫早人が、みずからの性格を語る時、永年に渡る佐賀藩の圧制の結果と、先祖に責任を転化する事は本明川の氾濫による水害、諫早一揆等幾多の困難とたかいながらも明るく生きる道を切り開き、諫早の歴史を作ってきた諫早の有名無名の人々を冒涜する言葉とならないでしょうか。昔から唄われている諫早小唄は諫早領の真の姿を如実にあらわしております。

 まだら一艘積んで竹崎の沖に波に揺られて日を暮す(まだらとは魚のこのしろの事、諫早方言)

 四面川原の朝霧夜霧、忍び男の顔隠す

 津水は津ばたで米屋が五軒茜たすきで米はかる

 踊れや踊れ三〇まで踊れ三〇越ゆれば子がおどる

 とても貧しく、圧制下で歌われる歌ではないように思われます。

 参考文献 諫早史談一二号「民謡に現われた諫早人の諸相」陣野勇氏 諫早史談一一、一二号「諫早竜造寺と鍋島の歴史的因縁」山口祐造 諫早史談一二、一三号「享保の飢饉と諫早」山部淳 佐賀藩戌辰戦史 宮田幸太郎 諫早市史 諫早家系事蹟、 長崎県史 佐賀藩の総合研究、続佐賀藩の総合研究(藤野保)、 武雄市史、 街道をゆく(島原、天草の諸道)司馬遼太郎 敬称略