エーセルテレグラフ・佐賀藩精煉方製作
                                  一級無線通信士 吉田幸男

写真説明 エーセルテレグラフ、左より送信機木箱、送信機、受信機、受信機箱
 
 ヱーセルテレグラフ発見に至る経過

 30年以上前、諫早の旧家に不思議な機械があり通信の専門家であるから見て欲しいと諫早史談会の野中氏より依頼された。諫早史談会との関係は当時諫早図書館長の嘉村氏に我が家に残る古文書類の解読を依頼したところやんわりと断られ自分の郷土の歴史は自ら読めるようになりなさいと諫早史談会の古文書解読の会に勧められ参加していた。

 小曽根乾堂の書や幕末の矢上砲術訓練絵図が飾られた部屋に持ち込まれた木箱から現れたのはまぎれもなく江戸時代に見える電信機であった。内部構造を調べ主要寸法を計測し写真撮影を終えたが高度な通信機を扱っているものにとっては簡単に解明は終わった。非常に貴重な物であり世にだすべきではと話したところ

 「この電信機は10年間程、長崎の博物館に貸し出されており数年前に返却されました。貴重な物なのでしょうか」

 と話されていたのが印象的であった。

 数日後、東京の逓信博物館に電話で問い合わせたところ

 「諫早に江戸時代の電信機はあるはずがない。当館としても電信機がつくられた記録のある場所には何回も調査団を派遣し探し尽くしている」

 突然の電話に対応して頂ける所はなかった。自ら論文を書き発表するしかないと思うと同時に逓信博物館が知らない事は日本で未発見の電信機との確信を持った次第である。

 諫早史談17号(昭和601985)「ヱーセルテレグラフについて」発表、史談会会長の野中氏よりこの論文がなければ諫早のヱーセルテレグラフも埋もれたままになっていただろうとねぎらいの言葉があった。論文のコピーを東京の逓信博物館、科学博物館、文部省文化財担当の3個所に送ったところ逓信博物館、科学博物館からは早期に訪問したいと連絡があり来諫し電信機を見学された。文部省からは何の返事も得られなかった。その後、論文の過誤、新たに判明した事実等は諫早史談に発表しており17号の記載には一部訂正が含まれており、引用する場合は注意されたい。インターネット上には常に最新の情報を掲載している。個人的には発表より2,3年で重要文化財指定が行われるものと思っていただけに文化財行政には非常に失望している。

 「ヱーセルテレグラフ」は佐賀藩の精煉方で製作されたものでありその過程を明らかにする必要から「佐賀藩における科学技術史~武雄鍋島家」を執筆、諫早史談への掲載には不適とされインターネットで公開している。

 佐賀藩はフェートン号事件(文化58月、180810月)が起こった。英国軍艦フェートン号がオランダ船探索のために来崎、オランダ人を人質に食料等を掠奪、乱暴を働いたものである。この事件により長崎奉行が切腹、佐賀藩主逼塞の処分を受け、数名の家老が切腹、藩取りつぶしも噂された。この反省にたち佐賀藩は西洋式兵器の輸入、装備、富国強兵をめざした。佐賀藩の近代化はこの時より始まっており他藩のペリー来航からより相当早かった。佐賀藩は福岡藩と並び長崎港警備を任されており外国武器、書籍等の入手が安易であった。幕末時の佐賀藩主、鍋島直正は大半江戸に滞在しており、国元にあって藩政を指導したのは請役(国家老)に任されており、兵装の西洋化、精煉方の運営、佐賀藩の近代化は旧竜造寺系、武雄領主鍋島茂義、茂昌公があたっている。旧竜造寺系の諫早、武雄、多久、須古の親類同格は佐賀藩城内に広大な屋敷を持ち領内にも領地を持ち財政的にも豊かであり精煉方には多くの資金を出したと思われる。元治元年(1864)、精煉方解散時には武雄、諫早等に多くの製品が分け与えられヱーセルテレグラフもその中のひとつだったと思われる。

佐賀城内図、旧竜造寺四家は城の中心部に広大な屋敷を構えていた。

 平成91997)逓信博物館所蔵でペリーが将軍への献上品エンボッシング・モールス電信機が国の重要文化財に指定されたとの報道がなされた。これに対して文化財行政としておかしいであろうとの抗議文を文部省に出した。苦労の末、先人達が作りあげた国産電信機をさておいて外国からの贈答品を重文指定するような文化財行政は問題あるとの内容である。当然として返事はなく門前払いであった。
 全国的に江戸時代の科学技術が注目され始めたのは平成152003)年、東京科学博物館で開催された「モノづくり日本~江戸大博覧会」である。諫早にも東京科学博物館の鈴木一義氏が見えられ「ヱーセルテレグラフ」の出品依頼を強く要望された。2003624日「モノづくり日本~江戸大博覧会」の開会式に招かれ出席したが江戸時代の科学技術の粋を全国から集められており非常に密度の濃い展覧会となった。出品されたなかで国産電信機は3台展示されていた。諫早のヱーセルテレグラフ、佐久間象山作の電信機、盛岡藩校日新館の電信機(現所蔵は盛岡市中央公民館所蔵)である。

松代、佐久間象山作とされる電信機。


○一見して昭和期に造られた電信機。

○エナメル線が使用されている。

○接点を1個所にまとめる構造が巧み過ぎ。

接点のスプリングの構造が近代的 過ぎ。             

ダブルメモリ(1目盛りで2字を示す方法が近代的すぎ)

○真鍮の釘、ベル、電鍵が後世の大量生産品に見える。

象山は電信機を造っておらず見た程度との説もある。

 博覧会の会場で江戸時代製作とはいいがたいと伝えておいたが「モノづくり日本~江戸大博覧会」図録では最大のスペースを使いカラー版扱いで主催者は本当に江戸時代の科学技術が分かっているのか疑問に感じた。現在は「佐久間象山作伝」となっているようである。制作者は現在の通信機器に精通された人で昔の図面を参考に造ったと思われ、素人の人が佐久間象山作としたと思われる。江戸、明治時代は絹巻き銅線しかなかった。電信機といえども工場が必要であり藩あげての取り組みが必要であり象山が作成したとの証拠をつかみにくい。この時図録では諫早のヱーセルテレグラフは扱いも小さく、モノクロの写真であった。

 電信機部品製作

 昭和10年(1935 エナメル線の生産が始まっている。理研電線株式会社(後述)は理化学研究所よりエナメル塗装線に関する特許実施権を取得しエナメル線の生産を始める。コイル等を作成する時ショートを防ぐため銅線の表面を絶縁する必要がある。古い時代はすべて絹糸、木綿糸、天然ゴムなどが用いられ昭和に入ってエナメル線の製造が始まっている。ヱーセルテレグラフを構成する部品の内、主要部品であるコイルを造る銅線は江戸時代後期から大量生産が始まっている。京都において水車を動力に使い大量生産しており基本的には現在と同じであろう。日本においては安政年間に需要があったと思われる。銅線の加工は二人の先人達により生産され現在も電線会社として存続している。

 天保3年(1832)平川製線(理研電線)の先祖は大阪で銅線の製作に成功し安政元年(1854)津田幸兵衛は京都で銅線の製造開始しており現在の津田電線である。銅の加工についても安政元年(1854)ヘダ号建造時船底に張る銅板を調達している。ロシア人は槌だけで銅板を造る技術があるのかと驚いている。

 盛岡市中央公民館所蔵の盛岡藩の電信機

 文字盤からみても幕末時に日本で造られた電信機に間違いないと思われる。材料、工作精度、構造等どこから見ても江戸時代日本での製作である。この電信機は盛岡藩資料として引き継がれ洋学校日新館で教材として使われたとされ当時の責任者大島高任である。大島高任は安政4年に釜石の地に西洋式高炉を建設、銑鉄の連続生産に成功している

 ○フランス、ブレゲ社製の電信機と精度、構造は変わらず製作に手慣れた印象をうける。

 ○実用より実習、教育の為の電信機である。

 ○文字盤は日本語のみで純国産品でありブレゲー社輸入のものはほとんど英文と和文並記である。

 盛岡藩の電信機は最も新しい電信機と思われ既に製作に手慣れた感じさえする。指字電信機には必要なベルがついていない。文字を示す針を補正するための回路が無く実用には難しいと思われる。幕末には既にこのような電信機が多く製作され、電信機の教育に使用したと推測され日本における科学技術の進歩の早さを示している。

 指字電信機、

 ヱーセルテレグラフ、ブレゲー式電信機は同じ形式の電信機である。ヱーセルテレグラフは指字電信機で、フランスブレゲー社で生産された指字電信機をブレゲー式電信機と呼ぶこともある。送信側は送る文字を示し、遠く離れた受信機の文字盤に同じ文字を針が指す方式である。電信機の初期における方式で訓練が不要で操作が簡単であるが通信速度が遅く1分間に5~6文字が限度で誤字の発生が避けられない。この致命的な欠点により実用にされたものの2~3年で中止されモールス式にその座を譲ることとなる。

 モールス式電信機、

 モールス符号で通信する方式で短と長符号の組み合わせにより通信を行う。エンボッシング式モールス電信機は電磁石の力で鉄片を紙を押しつける方法であるが判別が難しく、消える事もあり見る時に見にくく改良版がインク付きのペンで印字し印刷式モールス電信機である。名前の通りアメリカ人モールスが欠点を解消し百年以上通信の主導を歩むこととなる。印刷式モールスは初期の頃用いられ紙テープに印刷されるため受信時に人員配置が不要である。実用には視覚より聴覚による音響式モールス電信機が多く用いられた。音響式モールス信号機には印刷機構は不要であるが低周波発振器が必要である。指字電信機が最初に商用にされたのはモールス信号いわばソフトウエアが育っていなかった事による。モールス電信機は有線式では早く送受が可能で、無線でのモールス通信は雑音レベルによって相違する。一級無線通信士の試験では1分間で英文125文字、和文85文字の速度の試験がある。実際の通信では通信相手の技量、通信状態によって変えている。モールス式通信での欠点は通信従事者が実際に通信できるようになるまで通常半年から1年程の訓練が必要である。

 現在の通信方式

 日本においては昭和30年頃より電報の送受はモールス式電信機より印刷電信機に順次変わっている。最近ではインターネット普及によりコンピュータ通信に移行している。これらの基本技術は諫早にあるヱーセルテレグラフの通信方式を踏襲しており電気信号の数を数えて通信するようになっている。技術の歴史はくり返すである。現在の家庭用コンピューターでも一秒間3000000000回のカウントが可能である。

 諫早のヱーセルテレグラフの特徴

 諫早で発見された電信機はヱーセルテレグラフと書かれているとおり指字電信機である。モールス式電信機ではない。部類としてはブレゲー式電信機である。初期の形式をすべて備えており後世から見ると幼稚な一面もみられるがそれだけに古さを感じさせる。製造年は推測するに安政4年(1857)であろう。佐賀藩の資料にも電信機完成との記述がみられおそらくこの電信機が相応であろう。構造から初期の特徴、電信機の合理的回路以前の形式がみられ時代相応であろう。箱書きには元治元年とあるがこれは諫早に持ち込まれた年でこの年に精煉方解散しており時期も一致する。盛岡の電信機にしても幕末近くに購入したとすれば佐賀藩関係者もしくは精煉方関係者が造った可能性も否定できない。精煉方関係者で他藩出身者は廃止後ほとんどが江戸にでており精煉方で培った技術でいろいろな方面で活躍している。田中久重も江戸に出ており現東芝の創始者となっている。エーセルテレグラフの制作者であるが田中久重で間違いあるまい。中村奇輔は機械工作に従事したとの記録はなく工作技術の天才、田中久重であろう。佐賀藩の資料にも中村奇輔は企画立案の人とはっきり記載されており諫早にある箱書きにも「中村考」が雄弁に示している。中村奇輔が造ったとすれば当然「中村作」もしくは「中村造」とするであろう。

 指字式電信機を補助するベルが取り付けてあり実用性を持たせている。ベルだけではモールス信号を送信するには相当困難である。ベルの加工にしても旋盤を使っており、佐賀藩武雄領が10万両でイギリスより旋盤を購入しておりその旋盤を使ったのであろう。各部の金属工作も同時代の工作精度である。この電信機も当然カラクリ儀右衛門の手が入っていると思われ、細部までこまかな工作精度で金属接着技術も見事である。
 

送信機 構造



受信機構造




中村奇輔(18251876)

 電信機を入れた木箱には中村考と記載され中村奇輔の事とおもわれる。京都、広瀬元恭の時習堂で学び、佐賀藩士、佐野常民の誘いにより石黒寛次や田中久重らとともに、佐賀藩精煉方に招かれている。嘉永5年(1852)11月、佐賀藩は国産方に精煉方を設け嘉永6年(1853)に佐野常民が精錬方主任に就任している。中村奇輔が企画立案し、石黒寛次が図説により更に考案し、田中近江が製造を担当するという連携が見事に働き安政4年(1857)電信機の製作に成功する。中村奇輔は文久二年、薬品実験中に事故に遭い以後十数年間廃人同様のとなった。二代目田中儀右衛門は長子岩太郎を伴い長崎出張中、突如乱心した秀島藤之助により、親子ともども斬殺された。この為、田中家は中村奇輔の次男林太郎を養子にしている。

有線による電信の普及

 日本における黎明期を脱した電気通信は明治維新以降急速に発達する。明治4年にはデンマークの大北電信会社(the Great Northern Telegraph company)がウラジオストック~長崎、香港~日本の海底線を完成させてヨーロッパとの通信を独占している。明治6年(1873)東京~長崎の電信線が完成し、シベリア、ウラジオストック、海底線陸揚げ地長崎を経由して東京とヨーロッパとも電信でつながるようになったのである。日本における電信網は威力を発揮し、明治七年(1874)佐賀の乱、明治10年に起こった西南戦争においては電信は威力を遺憾なく発揮、東京にて部隊指揮ができるようになっている。日本全国に電信柱が建ち並び電柱より早期に電信柱の名前ができている。当時、刑法的にも電信柱への破壊行為は電柱の比ではなく重罪となっている。

 明治37年(1904)に起こった日露戦争ではヨーロッパとの通信が問題となった。大北電信会社の通信経路はシベリアを通過していたため通信内容の漏洩及び故意による遅延、紛失等が心配された。さらに大北電信会社はロシア政府との関係が密接であり独自ルートによる通信確保は急務であった。日本は独自に台湾経由で香港まで海底線を設置し同盟国であった香港で陸揚、英国が設置していた香港、シンガポール、インド洋経由ヨーロッパ行きの海底線に接続し通信を確保した。ロシアの影響力を完全に排除しヨーロッパとの通信を確保している。

 世界的に見ても電信の発達は国防上、治安上の問題であったが特に力を入れ、賞金まで出して電信機の発達を促進させたのはあ鉄道業者であった。鉄道の安全運行には電信が欠かせずその実用性は求められていた。先に述べたデンマークの大北電信会社はシベリア経由で日本まで海底線を引いているがシベリアはシベリア鉄道の安全運行用の電信線でありロシアは電信の通信に未熟でありデンマークの電信会社に依頼して建設させたものである。昔の西部劇映画においても列車を襲う時、必ず敷設している電信線を切断する場面がでてくる。明治時代に至ると諫早においても多くの電報が送受されておりその内容は米相場に関する内容であった。

無線通信の歴史

 諫早のヱーセルテレグラフを無線機と誤解する人もおられるので一応無線機の歴史にも触れておきたい。元治元年(1864)マクスウェルは電磁方程式により電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示し電磁波の存在を予想した。音波は空気の密度の振動が伝播するものであり、縦波である。明治21年(1888)独の物理学者ハインリッヒ・ヘルツは実際に火花を飛ばして電波を発生させ、数m離れた所で電波を受信し電波が空中を飛ぶことを実証した。この功績により電波の周波数の単位はヘルツを使うようになっている。明治28年(1895)ヘルツの実証した電波を使って通信ができないかと考えたのがマルコーニで明治32(1699)ドーバー海峡を挟んでの無線通信に成功した。日本においても日英同盟下であり研究を始め明治34年(1901)には約80海里(150キロメートル)の無線通信に成功する。さらに改良を加え明治36年(1903)には約200海里(370キロメートル)の通信距離を持つ36式無線通信機を完成させている。日本海軍駆逐艦以上の全艦船さらに朝鮮半島、九州、長崎近辺に網の目のように海軍望楼所を設置、無線機を設置している。日本海海戦には機能を存分に発揮し日本勝利へ導いている。無線機改良し36式無線電信機を完成させたのが木村駿吉氏である。この木村氏の御子孫とは面識があり咸臨丸子孫の会でいつもお会いしている.咸臨丸渡米時の最高責任者木村摂津守の三男が木村駿吉氏である。駿吉氏のお孫さんは品の良い老婦人であり無線機など簡単に作れると豪語しているのを聞いていたそうである。36式無線機の製作には日本メーカーも協力し無線機本体は安中電気(現アンリツ)、鉛バッテリーはGSバッテリー(現会社、GSユアサ、GSは島津製作所創業者島津源蔵の頭文字)両会社とも一流企業として現在も続いている。日本海軍は電信機をマルコニー社よりレンタルする予定であったが当時の日本は特許関係の法律が未整備であったため拒否され独自開発に動くのである。マルコニー社は電信機と通信士を一括レンタルする方式で販売はしなかった。駿吉氏は日露戦争後日本の特許関係の法整備を担当し弁理士(特許関係事務)制度を作っている。

 諫早にあった長崎無線電報局 JOS
 日本海海戦の無線電信の有効性は仮装巡洋艦信濃丸の「敵艦隊見ゆ」との電文は有名であるが日本海海戦の戦果は連合艦隊より五島、大瀬崎灯台近くに設置された海軍望楼所に送信され陸線により管轄である佐世保鎮守府経由大本営に送られている。長崎県ではこの電信が敷設された海軍望楼所は他に野母崎、平戸島南端志自岐である。大瀬崎海軍望楼所は大正時代、諫早目代に移転し長崎無線電報局となり七つの海を航海する船と通信する世界最大級の無線局となっていった。最盛期には無線通信士二百名を超え世界でも有数の海岸局となりコールサインは
JOSJJAPANOSは大瀬崎からきたものである。このように世界でも重要な通信基地であった諫早の地より幕末の電信機が見つかったのは何かの縁かもしれない。(参考文献 佐賀藩の総合研究 武雄史 佐賀藩における科学技術史~武雄鍋島家 無断転載不可)
 


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