吉田幸男 HOME PAGE yoshida yukio web page
 江戸時代、塩飽は大阪船手組・公儀船方として日本における海上交通の任務を背負ってきた。百姓身分ながら領地を賜り江戸幕府の命により公儀高官の瀬戸内海渡航、朝鮮通信使の往来、長崎奉行の瀬戸内海渡航等多岐にわたっている。塩飽で使われていた弁才船は江戸大阪間では菱垣廻船、樽廻船となり重要な任務を果たしてきた。幕府より日本海側幕領から江戸、大坂への御城米運送を命じられ、これが東廻り、西回り航路の開設となっている。河村瑞賢が開いたとされるはるか以前の三代将軍家光の時代まで遡る。この大量輸送の為、陸奥湾沿岸、川内・蟹田両湊に弁才船の大造船基地を建設している。後世の北前船も弁才船が使われている。北前船・菱垣廻船・樽廻船は用途、場所により名前を変えるがすべて塩飽生まれの弁才船である。
 幕末に至りペリー来航からは様式軍艦操船を命じられる日本で最初に建造された軍艦、鳳凰丸に30名の乗り組みを命じられ操船を独自に行っている。この後長崎海軍伝習所には延べ二百数十名を数える。咸臨丸渡米時には塩飽より37名乗り込み小笠原探検では咸臨丸・朝陽丸・千秋丸合わせて127名乗り込んでいる。公儀軍艦に乗り込んでいる塩飽水主は数百名に達する。 

江戸時代の海運における諸問題
北前船について-----菱垣廻船 樽廻船 北前船その同一性と違い
東廻り航路について
---実は東廻り航路が非常に活発であった事実
西回り航路について
---三代将軍家光の頃から活発に行われている。
弁才船が日本を廻る
---塩飽生まれの弁才船が日本の標準船となる
江戸時代の航法
-----江戸時代、ヨーロッパでも最新の航法が出版されていた
巨石の海上輸送
-----大阪城では巨石が使われ江戸城では使われなかったのか?運搬方法は
海運と宗教
-------真言宗醍醐派の分布
海賊行為について
----村上海賊と塩飽の違い。村上海賊はなぜ海賊行為ができたのか?
津軽藩における塩飽
---津軽藩設立と同時に塩飽町ができた理由
縄文時代の海運
-----縄文人はどのようにして太平洋を横断したのか
海上と港の儀礼
------登舷礼、登檣礼、祝砲の意味



写真 ベトナム、チベット、シルクロード、雲南等


ベトナム山岳地帯、棚田にいきる

ベトナムサパ----苧麻(からむし)を織る
ベトナムサパ-----子供達
ベトナムサパ------春秋


中国を旅する
 チベット、ウイグル、雲南 自治区

チベットを旅する
チベット寺院の舞踊
チベットの子供達
チベットに散在する砦
シルクロードを旅する
中国の石窟寺院を訪ねて
雲南地方を旅する
いろいろな地域における子供達の表情



~重要文化財指定~
諫早の佐賀藩精煉方製作の電信機
エーセルテレグラフ解説
 同時期に製作されたとされる佐久間象山作、盛岡藩校日新堂の電信機との技術比較、電信、海底線、無線通信等、諫早に関わる江戸・明治期にいたる通信の歴史

佐賀藩における科学技術史
  幕末、佐賀藩を日本一の藩にした武雄鍋島家の役割を紹介

諫早の歴史を考える 
「諌早の眼鏡橋について」 眼鏡橋建設の実像とは。
「佐賀藩圧政の虚構と諫早の実像」 近世諫早の実像。
「佐賀藩内儀方とルイス・フロイス」 中世の日本女性。