阿部薫のこと

私は日本のフリージャズ・ミュージシャンを好まない。理由は簡単、テクニックが無いから。
だが「阿部薫」だけは別格だった。彼は私と同い年生れだが、29歳で夭折してしまった。
そして阿部薫のよき理解者であった小野好恵が71年の演奏をCD化しようとしていたのだが
その小野も49歳で他界してしまったことから、録音当時この2人とつきあいのあった私が
CD制作に関わることとなった。3枚組+8cmCDで97年に徳間音工からリリースされることになり
そのライナーノーツの一部を手がけることとなった。普段ライナーノーツを読まない私が何故
ライナーノーツを書いたのか、その理由は全文をお読みいただけばお分かりいただけると思う。

Original Production 小野好恵
Album Producer 稲岡邦弥(unicom)
TOKUMA JAPAN COMMUNICATIONS

   26年目の絶頂  byぼんちゃん

 「限りなく死に近い生の絶頂点こそが究極的にジャズの美を保証するのかもしれない。」
 この言葉は、このCD3部作の録音者である小野好恵が文芸誌「カイエ」の編集長であった時、阿部薫が死んで間もない79年1月発行の「ジャズの死と再生」と題された特集号に書いた編集後記の最後の2行である。
 小野は自分がプロデュースし録音していた阿部薫の3つのセッションのCD化に取り組んでいたが、発売を待つことなく96年6月に他界してしまった。もし小野が健在であれば、このライナーノーツは当然小野自身によって書かれるべきものである。そして、冒頭の言葉と同様のことが阿部薫に捧げるために書かれたことであろう。
 ところで僕はLPやCDのライナーノーツを殆ど読まない。読むのはパースネル、録音年月日、録音場所、録音時の状況程度である。そんな僕が、このCDのライナーノーツを書く気になったのは、東北大学でのセッションの主宰者であった大沢孝敏君(現東京在住)、同じく秋田大学の阿部真郎君(現横手市在住)、そして”Basie”の菅原昭二氏の後押しがあり、僕自身としても阿部薫と小野好恵という再び逢うことのできない二人に友人に対する追悼文にしようと思ったからである。
 でも、多分そんな僕の愚考を嘲笑しながら、あの二人はあの世で私達より先に逝った音楽家や文人やいろんなジャンルの才人たちとバトルを展開し楽しんでいるに違いない。

 阿部薫がプロとして活躍したのは69年から78年に死に至るまでの10年程であるが、僕がその存在を知ったのは71年の初春の頃である。当時僕は東北大学の学生で仙台市内の某ジャズ喫茶でバイトをしていたのだが、オーナーは売上チェックのために店に顔を出すくらいで、実質的に開店から閉店までバイト連中で仕切っていた。ある日のこと、チャンチャンコにゾウリというゲゲゲの鬼太郎の出来損ないのような異様な風体の男が店にきた。席に着きコーヒーを注文するや、アイラーをリクエストした。僕もアイラーが好きであったが、嫌いな客のほうが圧倒的である。自室で聴くことはあっても店では殆どかけたことが無かった。案の定、音が鳴り出すと大半の客が席を立ってしまった。そんなことはままあることなので気にも留めなかった。
 決定的瞬間はその1時間程後に起きた。常連の客がリクエストしたビル・エヴァンスが鳴り始めると、ツカツカと僕のところにやってきて「そんなくだらないのは止めてアーチー・シェップをかけてくれ!」と言う。さすがに僕も頭に血が昇り「表へ出ろ!」そして店の前で胸ぐらを掴みあっての口論となった。口論を続けているうちに彼がサッチモ、パーカー、コルトレーン、ドルフィーなどの系譜を自己のものにしており、当時犬のフンのように転がっていた前衛バカではないということが判ったら、なぜかあっという間に仲直りしてしまい、閉店後は彼の家に行き朝までジャズ論を語り明かしたのであった。

 その時に彼が早稲田大学の学生であり、学校は休学状態で仙台に祖母の家に居候を始めて間もないことを知った。さらに彼はジャズばかりでなく、音楽全般、文学、美術、さらには何とプロレスに至るまで多才博識な人物であることを思い知らされたのだった。この人物こそが小野好恵であり、四半世紀余りの交流の始まりであった。

そして阿部薫というミュージシャンの存在をこの時初めて知ったのである。演奏の詳細は記憶に無いが、このCDを録音したものと同じテレコで聴かせられた。初めて耳にした衝撃的な音とともに全身に鳥肌が立つような奇妙な感覚に襲われた。本当に日本にこんな凄い奴がいるのか、という質問に小野はニヤニヤ笑うだけだったことが忘れられない。

 是非ライヴで聴きたいと思っていたが間もなく願いが叶った。小野がプロデュースしたソロ・コンサートが71年7月に日本楽器仙台店の小ホールで行われた。当時のジャズジャーナリズムの中では殆ど無名だったこともあり、市内のジャズ喫茶等に置かせてもらったチケットは殆ど売れず、入場者の大半が小野の友人が掻き集めたジイさんバアさんとか青年団や小中学生だった。この日、阿部薫はAs,Bclの他にハーモニカや自作の尺八サックスなどで6曲ほど演奏したが、演奏が始まるや、己の肉体と精神を掻き削るように吐き出されるその音楽に僕は完全に打ちのめされてしまったのだった。さらに驚いたのは、義理で聴きに来ているだけで途中で逃げ出すと思っていたジイさんバアさん小中学生が途中で席を立つこともなく演奏終了まで耳を傾けていたことだった。それほどまでにリリシズムに溢れる演奏だった。当然このセッションは小野が全曲録音していたはずであるが、あのテープはどこへ行ってしまったのだろうか、聴き返した記憶が全く無い。

 演奏会終了後、打ち上げがあり、その時始めて小野が阿部薫に僕を紹介してくれた。世俗を知らない子供のような顔つきと青白く透き通ったような濁りの全く無い眼が非常に印象的であった。会話をしているうちに同い年ということもあり気が合い、この日から4年程の短い期間ではあったが阿部薫との私的交際が始まったのである。

 一方で、小野は自分が録音したテープを持って東北地方の大学祭向けに阿部薫のプロモートを始めたのである。何で、という僕の問いに対してはいつも「これで東北の文化レベルを上げるのだ!」などと愚にもつかないことを言っていた。そのことはともかく、小野のその時の努力の成果がこれらのCDに残された3つのセッションである。

 このCD3部作に収められた東北大学、秋田大学、Basieの3つのセッションが録音された際には、いずれも私が一緒であった。録音機材はモノラルのオープンリールテレコとクリスタルマイクだけであり、しかもマイクスタンドなどは使わず、奏者に近い場所にあるテーブルかステージ上に放り投げておくか、手持ちかであった。しかも、テープスピードも9.5のスローレンジであり、阿部薫がマウスピースに唇をつけると録音開始、唇を離し客に背を向けると停止し、阿部自身のトークや客の拍手は殆どカットするという状況であった。
 したがってこれらのCDは現在に録音技術とは比べるもなく、ライヴであるにもかかわらず臨場感の殆ど無いものとなっている。
 しかし、小野や私に限らず71〜2年が阿部薫の絶頂期であったと思われている方々にとっては、音質の悪さや臨場感の乏しさなどは問題外であろう。当時の演奏の質の高さだけは確実に伝わってくるのだから・・・

CD#1 東北大学教養部教室
 これは東北大学ジャズ研究会のメンバーであった大沢が主宰者となり、小野が黒衣役の形で行われた。
 この日、阿部と初共演した佐藤康和は、当時芸大打楽器科を目指し浪人中の身であった。
 このジョイントは小野の発案であり、しかも開催が決まりかかった8月頃に仙台市の南にある亘理町の佐藤の自宅に数人で訪れ彼の練習場でパーカッションのソロ演奏を聴き、そしてゴーサインを出したと記憶している。これが後にYAS-KAZとなるのである。あらためて、小野好恵の音楽や文学などジャンルを問わない、素材発掘というか審美眼の確かさに敬服する他は無い。

CD#2 Live at “Basie”
 阿部薫がBasieで演奏したのは、CD#3の秋田大学コンサートの前と後の2回である。1回目は秋田大学の前日だったと記憶している。秋田に向う途中で阿部、小野達の数人でベイシーに立ち寄り、ゲリラ的セッションをやったのだ。店に入ったのが夕方で、8時過ぎくらいに客が居なくなったのを見計らって、マスターに是非聴いてみてくれと小野が迫り、実現したものである。マスターからOKが出て阿部がアルトとバスクラを組み立てて時にたまたまエルヴィン・ジョーンズ“へヴィー・サウンズ”のリチャード・デイヴィスとのデュオ曲「サマータイム」が流れていた。阿部はそれに合わせてアルトを吹き始めた。それはLPとの共演とは思えないほど素晴らしいものであった。

 小野や僕が更に感激したのはその次である。阿部の力量を見抜いたマスターがあっと驚くことを始めたのだ。僕の記憶では「クル・セ・ママ」のB面だったと思うがコルトレーン側のチャンネルを消し、エルヴィンのドラムソロの状態にしたのである。マスターの煽動に乗った阿部は更に燃え上がりエルヴィンとのバトルを展開し、その余韻を残しながら3曲程アルトとバスクラを演奏した。演奏が終わった深夜に一関を出発し、凍結した峠道を僕が運転し、スリップして動けなくなる度に何回となく阿部や小野が降りて車を押し、全員が死ぬような思いをしながら秋田に辿り着いたのであった。

 2回目は秋田大学の帰り道にベイシーでもう一度、折角だから仙台で共演した佐藤康和とデュオでということになった。佐藤康和に電話連絡し、2トン車1台の楽器をベイシーに運び込んだ。誰がどのような役割分担で運送したのかは今となっては定かではない。だが残念なことにデュオは実現しなかった。音合わせの段階で、仙台の時よりも佐藤康和の楽器が増えており、中でも足で蹴って音を出す畳1枚大のスチール板があり、その残響音に阿部が不満を示し、結局お互いソロで演奏することになった。
 佐藤康和は1曲だけ演奏し、あとは阿部のソロを客席で聴いていただけだったと思う。おまけに帰りは氷点下の深夜を2時間かけて仙台に戻ったのだが、定員の都合で荷台の楽器の中に潜り込んでいた大沢がその後肺炎になり入院するというオマケまでついてしまった。

 阿部真郎が保存していたテープの中に、12月6日・ベイシーのクレジットが入ったものがありバスクラ2曲、アルト1曲が収録されている。それと聴き比べ、さらに演奏の際の客?の会話や反響音などの状況から判断するとCD#2は2つのセッションで構成されており、1,2が12月3日、3,4が12月6日の演奏ではないかと思う。

CD#3 秋田大学共用棟コンサート
 これは阿部真郎を中心とする秋田大学ジャズ研究会のメンバーに小野がプロデュースし実現したものである。共用棟は当時いわゆる解放区となっていた場所であり、聴衆も50〜60人はいたと思う。全体的にエキサイティングな雰囲気に会場全体が包まれ、演奏終了時に阿部が「皆、きょうはどうもありがとう」と挨拶をし、拍手のうちに終了した。録音は71年12月4日。

阿部薫との私的交遊録
 その後僕は大学を中退し、72年2月に上京した。さらに、確か6月頃だったと思うが小野が「ユリイカ」の編集部員として青土社に入社が決定し、立川に居を構えた。
 その頃、阿部薫は新宿ピットインの2階小ホールに時々出演しており、僕たちは余程のことが無い限り殆ど欠かさず聴きに行った。
 また、プロモーションテープ作成のために当時福生に住んでいた阿部宅に小野と二人で行き、家の中で1曲10分程度の即興演奏を3曲程収録した記憶がある。(このライナーを依頼されてからテープを整理していたら、それらしい録音を発見した。)

 また、この年の12月頃には山下洋輔トリオ+阿部薫のセッションが何ヶ所かであり、小野と僕は新宿で聴いたが、この時の阿部は異様に凄まじかった記憶がある。
 しかし、僕が阿部薫にミュージシャンとして畏敬の念を抱きながら付き合っていたのはこの後1年程の間に過ぎなかった。73年の秋頃だったろうか、作家の鈴木いづみと一緒に生活を始めてからは、確実に音楽に対するテンションの衰えが感じられるようになった。おまけに、阿部薫と鈴木いづみの私生活に関しては僕は随分と振り回された。同棲が始まった直後の原宿の鈴木いづみのアパートへの引っ越しとそれまでの愛人との清算の手伝い、原宿からの夜逃げと真夜中のアパート探し手伝い、足の指切り事件など数え上げたらキリが無い。
 
 誰かが小説化したとか、映画化されたという話は聞こえてきたが、現実に巻き込まれた身としては読む気も、見る気も全く起きない。
 そんなことはどうでもいい。74年11月に仙台市民会館小ホールで阿部薫のコンサートを僕は個人的にプロデュースした。その理由は単に阿部の往年の演奏をもう一度でいいから聴きたいからだった。そのため、当時生活のために楽器を全て売り払ってしまっていた阿部のために、僕は友人からセルマーのアルトを借用し貸し与えた。しかし、その時の演奏はスピードもテンションも71年の頃と比べるまでもなかった。挙句の果てには、又貸しをしていたアルトを一足先に東京に戻った阿部は生活費のために売り飛ばしていたのである。

 こんなことは笑い話で済ませられることであったが、僕と阿部の決別は間もなくやってきた。75年の1月だったと思うが、西荻窪の「アケタの店」にトリオかカルテットで出演した時のことである。阿部は演奏の大半をピアノに費やした。そして演奏が始まって1時間位のところで、阿部はポケットに隠し持っていたペンチでグランドピアノの弦を切断し始めた。マスターの「やめてくれ!」の言葉とともに演奏を終了せざるを得なかった。「僕がピアノを演奏する時はいつも弦が必ず切れて困るんだが、今日はなかなかきれなかった・・」これが演奏内容に関しての僕への答えであった。友人としてもミュージシャンとしても愛想が尽きたのはこの時であった。

 そして、間もなく僕が家庭の事情で田舎に引っ込んだこともあり、これが阿部薫との最後の顔合わせになってしまった。
 それから、数年たって阿部の死が報じられた時には、「男の美学は野垂れ死にだよ。」といつもウソぶいていた男が、思い通りの人生を送ったことに半ば羨望を覚えながら、交際していた頃に彼から貰った尺八サックスや横笛などの遺品に合掌しただけであった。

 その後、阿部の未発表録音が結構発売されたらしいが、一切聴こうという気になれずに現在に至っている。なぜなら僕のジャズ史の中で阿部薫という世界的インプロヴァイザーが光彩を放っていたのは、小野が残してくれたこのCD3部作が録音された71年後半を中心とした前後1年位の間だけであり、この期間の演奏に何度もライヴで接することができただけで十分なのだから・・
CD#1 阿部薫 1971 アカシアの雨がやむとき
TOKUMA JAPAN TKCA-71098
阿部 薫(Bcl,As,Harmonica)佐藤康和(Percussion)
1 アカシアの雨がやむとき
2 チム・チム・チェリー〜暗い日曜日
3 恋人よ我に帰れ
1971.10.31 東北大学教養部でライヴ録音

解説:清水俊彦
CD#2 阿部薫 1971 暗い日曜日
TOKUMA JAPAN TKCA-71096
阿部 薫(Bcl,As,)
1 アカシアの雨がやむとき
2 アルトサキソフォン・ソロ・インプロヴィゼーション
3バスクラリネット・ソロ・インプロヴィゼーション
4 暗い日曜日
1971.12.6 一関市「ベイシー」でライヴ録音

解説:菅原正二(ベイシー)&ぼんちゃん
*このCD持ってる人は私の本名がわかります(笑)
CD#3 阿部薫 1971 風に吹かれて
TOKUMA JAPAN TKCA-71097
阿部 薫(Bcl,As)
1 アルトサキソフォン・ソロ。インプロヴィゼーション 1
2 アルトサキソフォン・ソロ。インプロヴィゼーション 2
3 アカシアの雨がやむとき
4 風に吹かれて〜花嫁人形
1971.12.4 秋田大学学園祭共用棟でライヴ録音

解説:町田康&小野好恵
ボーナスCD(8cm) 阿部薫+佐藤康和デュオ
TOKUMA JAPAN PSCD-1016
阿部 薫(As) 佐藤康和(Percussion)
恋人よ我に帰れ pt。2
1971.10.31 東北大学教養部でライヴ録音


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阿部薫 1949〜1978 増補改訂版
2001年1月 文遊社より発刊